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夢から醒めても

02
 疲れた、今日はいつもの何倍も疲れた。
 藤吾ははあっと深い深いため息を吐いて、ザングのカウンターにぺとりと頭を預けた。藤吾はいつも姿勢正しく飲むのだが、他の客もまだ少ないし、藍川とも随分親しくなってきていたので、思わずそんな態度を取ってしまった。
 藍川はくすりと笑って、随分疲れていますね、と言った。少し甘いものを食べますか?とチョコレートを出してくれる。カカオの粉がかかったチョコレートは、口に含むと苦味と濃いカカオの味が広がった。甘いもの、と言いながらも、チョコレート好きの藤吾を知っていて、随分美味しいものを出してくれる。この苦味と甘さの絶妙な味わいが、藤吾は好きだった。
「おいしい……」
「実は頂き物なのですが……私はあまり甘いものは食べないので、宜しかったらたくさん食べてください」
 言いながら、再び皿に美しい長方形のチョコレートをのせてくれた藍川に、藤吾は顔を上げた。
「え?でも……」
「頂き物ですから、お客様に出すなんて失礼なのですが。捨てるのも忍びないので」
 捨てるなんて勿体無い!と藤吾はじっとチョコレートを見た。「だから、ね?どうぞ」と藍川にさらに薦められて、再び手を伸ばす。
 美味しいものを食べているときは、とても幸せだ。直接的な「味」というのは、それを感じている間は、色々なことを忘れさせてくれる。
「珍しいですね、そこまで疲れているのは」
 藍川はゆったりと話す。シャープな顔立ちとはあまり似合わない喋り方だが、藤吾には心地のいいものだった。こう言う、悪意と遠いものは藤吾を安心させる。だから、映にはあまり一人で行くなと言われているにもかかわらず、藤吾はときどきザングに来ていた。映と来てもいいのだが、周りの視線も痛いし、何しろ時間が合わない。
「あの、今日、映のビルに仕事に行ったんです」
 いつものあまりアルコールの強くないカクテルを飲みながら、藤吾はぽつりと話した。
「それでは、映も喜んだでしょう?」
 藤吾は、どうなのだろう、と首を傾げた。朝会っただけでその後映を見ていないし、朝はどうしていいのかわからずに、顔を背けてしまったから、映の驚いた表情しか覚えていない。
 本当は、どきどきして仕方がなかったのだ。誰かが警備室に近寄るたびに、映だったらどうしよう、とそればかり考えていた。そわそわして落ち着かなくて、半野には「誰を待ってるんだ?」と笑われた。
 そう言われて初めて、藤吾は映を待っていることを自覚した。そう、多分、映がひょいっと警備室を覗いてくれることを、待っていたのだ。
 あの、副社長の顔ではなく。
 いつもの、柔らかい笑顔で、自分の名前を呼んでくれるのを。
 そうして、安心したかったのだ。朝見た映は、あまりに遠かったから。
 再びカウンターにぺたりと頬をくっつけた藤吾に、藍川は微笑んだ。
「どうしたんですか?勤務中に映が悪戯でもしました?あいつのことだから、随分邪魔したんでしょう?」
 それに、藤吾は小さく「そんなことはありません」と答えた。
 実際、映は一度も警備室に顔を出さなかった。ローエの社長の瀬戸口は、何度も顔を出して、あまつさえ昼食まで一緒に食べたと言うのに。
 あれも、疲れる原因だった、と藤吾はまたため息を吐いた。瀬戸口は冗談なのか本気なのかわかりずらくて、藤吾はいちいちその言動に振り回されてしまうのだ。
 仕事が忙しいのは知っている。だから、警備室に顔を出している暇などなかったのだろう。
 ―――でも、一回だけ、昼休みに来てくれたって半野さんが言ってたな。
 瀬戸口が来たのと入れ違いで、藤吾はもう出てしまった後だった。半野からその話を聞いたときは、本気で残念だと思った。
「同棲は、どうですか?」
 今日の仕事の話はあまりいい話題ではないのだと判断して、藍川は話題を変えた。
「ど、同棲って……!」
「え?合っていますよね?」
 びっくりしてがばりと起き上がった藤吾に、藍川はにっこりと、涼やかな笑顔をした。
「う……合ってる……合ってるのかな」
 藤吾は自信がないようだった。映など、最初から自慢気に「同棲」を連発していたのに。まだまだ映の努力が足りていないようだと、藍川は思った。
「楽しいですか?」
「あ、はい。でも、楽しいときもあるけど、えっと……」
 幸せなときが多いです、と藤吾は恥かしげに呟いた。だが、俯いた口元が微かに緩んでいて、それが本心なのだろう、藍川も柔らかい顔になった。
「今でも、ときどき信じられなくて……ずっと、一人かなあって思ってたので」
「ずっと?」
 こくん、と藤吾が頷いた。
「あの、俺、こう言う風に、その……こ、恋人になったこと、なかったんです。付き合ったことはあったけど、こう言うのじゃなくて」
 藤吾の言いたいことはわかった気がして、藍川は黙って頷いた。なんとなく、決まったセックス相手が欲しくて付き合うこともある。
「あ、映は、すごく優しくて、本当に、温かいし。ときどき、泣きたくなるくらい」
 藤吾は恥かしがりながらも懸命で、藍川もちゃかすのはやめた。多分、藤吾の揺れる目を見たからだ。先を言わないのは映に何度も説得されているからなのか。でも、不安は拭いきれていないのだろう。映には、相応しくないと、最初の頃はことあるごとに言っていたのだから。
 藍川からしてみれば、どっちも同じようなことを言っているのだから、苦笑するしかない。優しい藤吾に、いつか愛想を尽かされるかもしれないと、映が怯えていることを藤吾は知らないのだろうか。
 幸せだとはにかんで言った藤吾の顔を、是非とも映に見せたいものだと藍川は思った。ついでに、藤吾のことを話すときの、映の緩んだ顔を、藤吾には見せてやりたかった。


 勤務地から真っ直ぐザングに行って、結局三時間近くそこにいた藤吾は、食事メニューはないザングなのに、特別サービスと夕食までご馳走になって、ようやく部屋に帰ってきた。ここのところ映は日付が変わってから帰ってくる日々で、一人の食事に味気なさを感じていた藤吾は、藍川の申し出に甘えてしまったのだ。
 それなのに、帰ってみたら部屋に明かりがついていて、藤吾は驚いた。驚いて、でも焦って階段を上ると、(エレベータもあるのだが、三階なので体力作りのためにも藤吾は階段を使っている)藤吾はがちゃがちゃと鍵を開けた。明かりのついている部屋に帰ってくるなんて、何日ぶりだろう。
「あ、映?」
 部屋の中はしんとしていて、藤吾はやっぱり映は帰っていないのかとがっくりした。だが、ダイニングに行くとそこにパソコンを置いてかたかたとやっている映がいて、藤吾は再び驚いた。
「映、帰ってたんだね。今日は早かったんだ?」
 今朝のことなどすっかり忘れて、藤吾は映に話し掛けた。少しアルコールが入っていて、陽気になっていたこともある。だが、それが返って映の機嫌を傾かせた。
「藤吾、何処に行ってたんだ?仕事は六時で終わったんだよな?」
 あ、と藤吾は口を指で押さえて、眼をきょろきょろと泳がせた。ザングには一人で行くな、と言われていたことを思い出したのだ。
「あの……」
「飲んでるな?」
 ちょっと、と藤吾は困ったように笑った。いつもなら、映はこれほど怒らない気がする。拗ねてはみせるが、こんなに怖い顔をした映は見たことがない。
「一人で?」
 こくり、と藤吾は頷いた。目がびくびくと、怯えていた。
「どこで飲んだんだ?」
 口調は静かだったが、誤魔化せるような声ではなかった。そもそも、人見知りの激しい藤吾が飲みに行くところなどザングぐらいしかないことを映は知っている。それだけ藍川には懐いているということで、映はずっと、内心面白くなかった。
 藤吾がなかなか答えずにいると、映はじっと睨むようにしていた視線を外して、大きなため息を吐いた。それに、藤吾がびくりと震える。
 怒っている。
 やっぱり、今日のことを黙っていたのは良くなかった、と藤吾は思った。その上、映がせっかく早く帰ってきたのに、一人で飲みに行ってしまった。
 藤吾は着替えることも忘れて、突っ立っていた。どうしたらいいのか、わからなかった。
「どうせ藍川のところだろ。藤吾はあいつには甘えるからな」
 う、と藤吾は赤くなって、それから泣きそうに顔を歪めた。端から見て、そう見えるのだろうか、と不安になったのだ。藍川にとって藤吾はただの客だ。そんな迷惑なことをしていたのかと思うと、申し訳ない。
 藤吾のそんな心中も知らずに、映はその赤く染まった耳にかっと自分の血が昇ったのがわかった。
「何かあると、藍川には愚痴るよな?あと橋野さんか。この二人には、藤吾は遠慮なく甘えるんだな。他の人間からおまえが悩んでるとか、不安がってるとか聞かされる身になってみろよ」
 恋人である映だからこそ言えないこともあるだろう。それは映もわかるのだ。でも、藤吾は何から何まで、映には決して愚痴を言ったり相談したりしない。さんざん、脅したり宥めたりして、ようやく映には言うのだ。それなのに、藍川や橋野には、わりと深刻な悩みから些細なことまで、なんでも話している気がする。
 藤吾は吐き捨てるように言った映の言葉に、びっくりしていた。酔っている頭に、きつい口調の映の声が響いた。
「二人には簡単に甘えるくせに、俺には絶対甘えない。それどころか、藤吾は俺に遠慮してる」
 それはずっと映が思ってきたことだ。藤吾はどこか、映に気を使っている。ときどき顔色を伺われている気さえして、そのたびに苛々しながら哀しくなるのだ。
 一番近くにいたいのに。すごく遠くにいる気がする。
「え、遠慮……?」
「藤吾から何かして欲しいとか、して欲しくないとか。そういうこと、言われたことないだろ、俺」
 そうなのかな、と藤吾は考えてみた。でも、映に甘えるわけにはいかない、と藤吾は思っていた。
 追いつきたいのだから。映に相応しい男に、なりたいのだから。
 藤吾は酔うと素直になる。悩みを聞き出すのには、酔わせて責めてみるのが一番手っ取り早いと映が思うくらいに。
「だって、映には甘えられない」
 だから、藤吾は言ってしまった。自分はいつも言葉が足りないことを忘れて。
「映には、甘えたくない」
 ぼそりと呟かれた言葉に、映は「え?」と一瞬目を丸くして―――それからかっと頭に血が昇った。
 苛々しながらも、怒りながらも、ずっと怒鳴りたい気持ちをなんとか押さえていた映は、もう無理だと思った。藤吾が怒鳴られたりすることに、すごく弱くて人よりずっと傷つきやすいとわかっていても。
 そうか、と呟いてみたが、湧き上がってうねっている感情はおさまらなかった。
「だったら、いい。好きに二人に甘えてろっ」
 ばんっと音を立てて、寝室の扉を閉めた映の視界の隅に、びくりと震えた藤吾が見えた。でも、その後に、くしゃりと顔が歪んで、ぶわりと涙が出たことは、わからなかった。


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