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夢から醒めても
03
今日は映か、と藍川はこっそり肩を諌めた。最近は忙しいのか、随分久しぶりにザングに来た映だったが、来た当初から、不機嫌さを隠していない。
そもそも、昨晩藤吾が一人で来たことが、気に入らないのだろうが。
がばりがばりとウイスキーを飲む映に、藍川は呆れたような視線を送っては見たが、効果はない。まだ許容量だとわかっているし、酔いつぶれたら藤吾に来てもらおう、と思っていたから、藍川は知らぬ振りをすることにした。あまりに不機嫌そうな顔をしているので、いつもは寄って来る輩も顔を見た途端、すごすご引き下がっている。
「大体、なんで俺は無視して瀬戸口に挨拶するんだよ」
昨日の経過をなんとなく聞いて、藍川は少し首を傾げた。
「藤吾くんが無視、ねえ。本当にそうなのか?彼にはそんな度胸はないと思うけど」
いつでも、映に嫌われたくないと思っているのだ。それに、瀬戸口ならば、無視されようが何されようが、きっと近寄っていったに違いない。
「なんにしろ、顔を背けたあいつは、あろうことかウチの女の子に声を掛けられて顔を赤くしてたんだ」
むすっとそう言って、映はまたがばりとグラスを煽った。もう少し、美味しそうに飲んで欲しいなあ、とそれを見る藍川はいつも思う。
「女の子って……」
藤吾くんがねえ、と藍川は再び首を傾げる。苦手なんです、と最初の頃に言っていた藤吾は本当に苦手そうで、バイに近い藍川など、大変そうだと思ったほどだ。
映はふっとため息を吐いて、片手を頭にのせて、くしゃりと頭を掴んだ。
わかっている。というより、今日、知ったのだ。藤吾がものすごく、女の子というものを苦手にしていると。
昼休みになんとなく気になって、警備室の前を通ってみた映を呼び止めたのは、藤吾ではなくて橋野だった。勝手に嫉妬した自分が居たたまれなくて、あまり会いたくないと映は思っていた。だが、橋野が少し強引に昼食に誘ってきたので、仕方なくそれにのることにした。藤吾の先輩だから、邪険にもしたくなかった。
近くの定食屋で昼食を食べながら、橋野は「藤吾が元気ないようなんですが」と言った。
「……藤吾、Sビル勤務になったんですか」
ふとそう聞いてから、橋野が不審げに眉根を寄せたのが見えて、しまったと映は思った。案の定「話、聞いてないんですか?」と不思議そうに聞かれた。
「ここのところ忙しくて……」
そうですか、と橋野は頷いて、さばの塩焼きをぱくりと食べた。それ以上突っ込んでこないし、説教めいたことも言わない橋野は、十分大人だと映は自分を省みてため息を吐きたくなった。
「Sビルさんには、臨時勤務なんですよ。ちょっと前のやつが休んでまして。ほら、引っ越してから運悪く勤務地が遠くなってしまったでしょう?藤吾のところのチーム長は、このまま藤吾をSビル担当にしたいようですがね」
引越しのときは、梶原警備とSビルに近いところを選んだのだ。でも、実際会社に行くのは週一で、引っ越した後に今の勤務の辞令を受けた藤吾は、確かに運がない。朝も夜も会えないことが多くて、なんだか一緒に住んでいる理由がわからなくなりそうだったが、それでも一日一度は顔を合わせられることに、映はほっとしていた。つい、昨日までは。
どうやらこちらも元気がないらしい、と橋野は内心で苦笑して、ただ、と続けた。
「どうも藤吾の奴、女の子にちょっかい出されているらしくて」
「え?」
女の子、と言われて思い出すのは自分の会社の人間だ。もちろん、他の会社にも女の子はいるのだが、昨日の朝藤吾にちょっかいを掛けていたのは、ローエの社員だった。
思わず橋野を凝視した映に微笑を浮かべて、橋野は話を続けた。
「それが、そちらの方らしくて……まあ、からかわれているのだと思うんですが」
思わず、すみません、と謝ったのは、副社長として何かと社員や社長をフォローしてきた、映の癖のようなものだった。
それから、きゃらきゃらと笑っていた女子社員に腹を立てた。
「いや、まあ。半野たちだったら別に構わないんですが。それどころか喜びそうですしね。でも、藤吾はあまり冗談にならないんですよ」
映の手が完全に止まってしまって、食事の途中で話し始めたのは失敗だったな、と橋野はそっと、食べるように促した。
「どうやらその女の子、とても可愛らしい方のようで。今は朝にちょっと挨拶して話をして、ぐらいのようですが、それだけでも藤吾にはすごくストレスになってしまう。多分、話している間中、冷や汗掻いていると思いますよ」
ストレス、という言葉に、映は眉根を寄せた。橋野はそんな映を宥めるように、穏やかな口調で続けた。
「私も詳しく聞いていないのですが。どうやら藤吾は、トラウマのようなものがあるらしくて、女の子とか子供とか、駄目なんですよ。華奢で細くて、壊れそうだって言うんです。人はそう簡単に壊れたりしないものですが、藤吾はたぶん、女の子を傷つけたことがあるんでしょうね」
怪我をさせた、という意味ですが、と橋野は小さく息を吐いた。
「藤吾のことだから、事故か何かだったと思うんですが。あいつはとにかく、壊れるとか傷つくとか、そういう言葉に弱い。それも、自分がその対象ならまだしも、他人だと途端に怖がってパニックになる。ウチの会社は荒くれ者が多いですからね、生傷は絶えないんですが、藤吾には見せるなって言ってるくらいです」
苦笑する橋野は、本当に藤吾を可愛がっているのだろうとわかって、映はなんとなく顔を俯けた。
「怪我とかにひどく怯えるのは知っていました。それから、喧嘩とか、怒鳴り声とか……」
ええ、と橋野が頷いた。映は口元を歪ませて、微かに笑った。
「だから、俺たち喧嘩したことがなかったんです」
昨晩のあの怒鳴り声で、あの映の言葉で、藤吾はどれだけ傷ついただろう。泣いている藤吾が見えるようで、映は唇を噛み締めた。
なかった、と過去形だった言葉をしっかり聞いていた橋野は、穏やかに笑った。
「一緒に住んでいるのですから、喧嘩の一つや二つ、あってもおかしくはないでしょう?
私は、藤吾も少し、そう言うものに対抗できるようになるべきだと思っています。あれでは、生きていくのが大変だ。だから、女の子のことも、本当はこのまま慣れて行って欲しいと思っているんです」
確かに、あのままでは、藤吾はいつか疲れ果ててしまうんじゃないかと映も思っていた。それを少しでも癒せたらと映は思っていたが―――自分は少しもそんな器ではないと、昨晩わかった。
「先ほど私は、華奢で細くて、そう言う人間が藤吾は苦手だと言ったでしょう?そう言う意味では、失礼ですが、藤吾が佐谷さんを選んだことは、少し驚いていたんです」
映は俯けていた顔を上げて、橋野を見た。橋野も真っ直ぐに映を見ていて、決して馬鹿にしているわけではないとわかった。
「でも、すぐに納得しました。何しろ、初めてお会いしたときがお会いしたときでしたので。あれで、なるほどと」
あのとき、映はチンピラ一人を伸したのだ。普通であったなら、怖がって逃げてもおかしくない。それは映の体格だけの話ではなく、相手が相手だからだ。それも、二人だった。
「まあどうやら、藤吾は華奢な人間は自分が壊しそうで怖くて、でも体格のいい人間も、傷つけられそうで怖い。うちの社長のことなんて、本当に怖がってますからね。だから、佐谷さんは理想なのでしょうね」
がばりと飲んでいた手を止めて、その手の中でグラスを揺らしながら考えごとをしている映を、藍川は放っておいた。こんな顔の映を見るのは、随分久しぶりだと思った。
以前はときどき、自分の性癖―――男が好きと言う事に輪をかけた体格の好み―――について、こうして落ち込んでいるときが良くあった。しばらくすれば浮上するのだが、藤吾と出会わなかったら、どうなっていただろうと藍川は思う。
ずっと一人かと思っていた、と藤吾は言っていたが、それは映にも言えることだろう。同じような孤独を、二人は纏っていた。
「昨日、藤吾が来てだろう?」
客にカクテルを出して戻った藍川に、ふと映が呟いた。
「ああ、来てたけど」
「……何か、言ってたか」
何かとは、何だろう。藍川が微かに眉根を寄せると、映がふっと自嘲気味に笑った。
「情けねーよな。人から聞くしかないんだ」
「別に、藤吾くんに聞いたらいいじゃないか」
藍川がそう言うと、映は笑ったまま首を振った。
「俺が聞いても、愚痴めいたこととか悩みとか、藤吾は何も言わないからな。それに昨日、言われたんだ。俺には甘えられない、甘えたくないって」
ぐいっと、薄まったウイスキーを飲んで、映はお代わりと空いたグラスを揺らした。
「藤吾くんがそう言った?」
「ああ。酔ってたから素直だったんだよ。……余計に、きつい」
藍川は小さくため息をついて、細いグラスを取り出した。それから、冷蔵庫で冷えているピッチャーを取り出す。
藍川には、藤吾の気持ちがわかった気がした。いつもいつも、映と似合わないと、怯えている藤吾を知っているからだ。
「そりゃあ、甘えたくないだろ」
氷と茶色い液体の入ったその細いグラスを出すと、映が眉根を寄せた。同じ色だが、これはウイスキーではない。
「ふん。どうせ俺は頼りない。で?なんだよこれ。酒出せよ」
「そろそろ酔いを冷まして、藤吾くんのところに戻ったらいい。泣いてるんじゃないのか」
「俺が居たら泣けないだろ。だからいいんだよ」
映はそう言って、グラスを手にした。こう言うとき、藍川はどれだけ言っても酒など出してこない。
今朝起きたら、藤吾は隣にいなかった。それはいつものことだが、どうも隣で寝た様子がない気がしてリビングに行くと、そこのソファーに毛布が畳んで置いてあった。それを見た途端、映は深い深いため息を吐くしかなかった。
藤吾は絶対、甘えない。それを深く確認した朝だった。
「映。頼りないから藤吾くんは甘えないんじゃない。それをわかっていないと、間違うぞ」
「何だっていいんだよ。なんにしろ、藤吾は、俺に甘えたくないって言ったんだから」
「そりゃあそうだろうよ。藤吾くんは、いつもいつも映の隣に立つに相応しい男になりたいって、そればっかりなんだから」
は?と顔を上げて、映は非難がましい目をした藍川を見た。
「健気じゃないか。捨てられたくないって、努力してるんだ」
「捨てるって……」
「馬鹿なことだと思うだろう?でも、必要なことだ。それで藤吾くんが自信が持てるならな」
映はごくごくと、冷たいウーロン茶を飲み干した。酔っていたわけではないが、頭がすっきりした。
―――あいつは自分に自信がない。本当に、怒鳴りつけたくなるくらいだ。自分がどれだけ周りに柔らかい感情を起こさせているのか、自覚が全くない。
映は、立ち上がりながら、昼間の橋野の言葉を思い出した。
―――あいつと付き合うには、忍耐が必要です。すぐに手を出すうちの連中が、藤吾のおかげでその言葉を知りましてね。私も他の幹部も助かりましたよ。もちろん、あいつのあの態度に、最初は苛々して怒鳴る奴らも多かった。でも、藤吾は絶対弱音は吐かない。怯えても、一度だって怖いと言ったことはない。夜の見回りもそうだ。死にそうな顔をしながら、それでも行きたくないとは、決して言わなかった。
だから、ウチの連中も根気強く藤吾を見守るようになった。疲れたとか面倒だとか言って、すぐに仕事を放り出す奴らより、余程骨があるってね。
橋野はそう言って、親が子を見るような目をした。だから、映もそれに、頷くしかなかった。
わかっていたはずだ。藤吾は、いつだってひどく怯えている。でも、それに一人で立ち向かってしまうのだ。それはもう、習性であるかのように。
映は酒の代金を払うと、ひらひらと、礼をするように手を振ってザングを出た。
藤吾に会いたくて、堪らなかった。
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