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コレガ僕ラノ進ム道
01
カフェ・ザングは、カフェと名がついているがバーだ。ずいぶんややこしい名のつけ方だと藤吾は思ったが、意味はあるのだとバーテンの藍川は言う。なんでも、一杯引っ掛けるバーやカフェのカウンターのことを、フランスでは「ザング」つまり鉛、と呼ぶのだそうだ。もちろん、その名をつけたのは自分ではなくオーナーですけどね、と藍川は独特の笑っているのかいないのかわからないほどの微笑を湛えて言った。
何にしろ、ここは男が男を探しにくるようなバーだ。女人禁制とまでは言わないが、男のためのバーだと言っていい。そのためあまり看板も目立たないし、名前など入ってみてマッチの箱を見て、初めて知る客も多いだろう。
この細いマッチ箱も、そう言ったバーの割には落ち着いているところも、藤吾は気に入っていた。
藤吾はいつも、カウンターの一番端の席に坐る。たぶん、初めて来たときから、相手を探す気はなかったのだ。ただ、静かで男ばかりの空間が居心地良かった。
相手が見つかるなら、探しもするけどなあ、とシャンディガフを飲みながら藤吾は思った。今日は外が暑くて、一杯目はビールベースのカクテルにしたのだ。藍川がそこに、無言でドライフルーツとナッツの小皿を置いてくれる。ありがとう、とお礼を言うと、小さく微笑まれた。見慣れた今だからわかるが、最初はわからなかったほどの微かな笑みだ。
藤吾がぽろりと自分の好みを洩らしたとき、それはなかなか難しい好みですね、とこの藍川にも苦笑された。たぶん、ときどき声を掛けられても、決して誘いに乗らない藤吾のことを不思議に思ったのだろう。客にはわりと無関心な藍川が、珍しく話をしてきたことがあったのだ。
わりと華奢で、可愛らしい子。
それだけなら、高望みだと言われる位だ。そういう人間をいいと思っている男はそう珍しくもない。でも。
その「可愛らしい子」に抱かれたいとなると、途端に難しくなる。さらには、藤吾はがっちりとした、ちょっと熊さんな感じの男なのだ。大抵の相手は、好みを聞くとその藤吾を眺めて、呆れたため息を吐く。別にものすごく太っているわけではない。そう言った趣味の人間には、そこそこもてる顔もしている。でも、藤吾の趣味は特殊なのだ。
わかっている。わかっているが、こればかりはどうしようもない。
一時は諦めて、妥協して何人かと付き合ったこともある。でもどうしても本気になれず、罪悪感ばかりが膨らんで、疲れ果ててしまった。せめてセックスだけでも気持ちよく出来たらいいのだが、するのもされるのも、そう言った相手ではどうしても藤吾は乗り気になり切れなかった。
きっと一生、このまんまなんだな、と最近では思っている。そのうち好みが変わるかもしれないと淡い期待を抱いてはいるが、そんなことはないだろうと心の底ではわかっていた。
ため息の代わりにまた一口カクテルを飲む。
「しつこいな。嫌だって言っただろ?!」
静かな店内に、ふいに怒鳴り声が響いた。それでも抑えていたようだが、低く流れる音楽さえ聞こえる店内だ。藤吾は思わず後ろを振り向いた。
わあ、と思った。
むっとした顔をしてカウンターに向かってくるのは、それこそ藤吾が求めてやまないような華奢で可愛らしい外見をした青年だったのだ。
自分より、たぶん十センチは背が低い。コンパクトさは顔も一緒で、小作りな顔にぱっちりとした大きな目がのっていた。後でたまたま近くで見たときにわかったのだが、黒目が普通より大きい。だから潤んだように見えるそれが僅かな色気を出していた。
青年はがばりがばりと外見に似合わない荒い動作でカウンターに近づいてきた。それからその不機嫌な顔のまま、藍川にばんっとお金を渡した。
「うるさくした。悪いな。また来る」
その口調から、二人は知り合いだろうかと思った。それにしても、不機嫌ながら謝る青年はきっと性格はいいのだろう、と藤吾は目を細めた。
好みだな、と思った。
性格がいいのなら尚更だった。藤吾は真面目な付き合いしかしたくない。長く付き合うには、性格は外見よりもっと大事だ。
でも、藤吾は心の中でちらりとそう思っただけだった。藍川に彼のことを聞こうとも思わなかった。
相手にされるはずがないと、諦めきっていたのだ。
藤吾は外見を生かして警備の職についているが、本当は臆病者で弱虫だった。だから警備会社に就職するつもりも全くなかったのに、今の社長に気に入られて、無理やり就職させられたのだった。その押しに負けてしまう辺りで、気弱なんだと自分でも思う。
幸運だったのは、職場の人間はみんな気が良い人間ばかりだったということだ。なんだか世話焼きで仁義に篤い。立っているだけでおまえは立派に仕事をしてることになるんだ、と言ってくれて、いざと言うときには守ってやるから、と笑ってもくれる。だから何とかやっていけるかもしれないと思っていた。大体、就職活動なんてものは苦手なのだ。緊張して緊張して、顔が強張ってしまう。それが人相を凶悪にみせるらしく、良い返事など貰えない。
だから、今のところを辞めるわけにもいかない。給料だってそこそこ貰えるのだ。そこが例え、元やくざだとしても。
――いや、会社はちゃんと合法で堅実な運営をしてるんだし。
藤吾は何度目かのため息を呑み込んだ。淡いグリーンのカクテルをごくりと飲む。藤吾は実は酒にもあまり強くない。藍川はそれを知っていて、いつも弱めのカクテルを作ってくれるのだ。
藤吾はあれから何度か、あの青年をザングで見かけた。どうやら毎回誘われては断っているようだが、あれだけの容姿をもっていたら選り好みも頷けると言うものだ。
自分もあんな風だったら――そう思ってみたこともあるが、そうしたらきっとまた違うことで悩んだのだろうと藤吾は思う。所詮、藤吾は藤吾なのだ。
その夜は珍しく、藤吾はいつもなら一、二杯しか飲まないカクテルの四杯目を頼んでいた。藍川が少し心配そうな目をしているが、藤吾だって飲みたい夜がある。
出されたナッツをかりっと噛む。どうして、自分はこんなに気弱なんだろう、と思う。
今日の勤務は夕方から深夜までのはずだった。それが、夕食の休憩の後、警報が不法侵入者を知らせて現場には一気に緊張が走った。先輩は慣れたもので、すぐにその侵入者を捕らえに走った。藤吾も一緒に行ったのだが、きらりと光ったナイフを目にした途端、動けなくなってしまった。結局その先輩警備員が侵入者と格闘して捕らえたのだが、藤吾が全く役に立たなかったために腕に軽く傷を負ってしまったのだ。そこは元やくざで、先輩は大したことない、勲章だ、などと笑っていたが、ぽたりと垂れた血に、藤吾はがたがたと身を震わせて、今にも倒れそうになった。
医薬品を扱っているその会社の本社ビルは、何度かそういうことがあったのだと言う。だから普通より警備は厳しく、人数もビルの大きさに対して少し多い。だからって勤務に穴をあけるわけにもいかないのだが、震えて真っ青な藤吾に、今日は帰れとリーダーに言われた。それは優しく労わる口調だったのだが、それが却って、今になって藤吾に情けない思いをさせる。
相手は普通の男だった。藤吾の方がずっと体格も良かったし、ナイフを持つ手だって震えていた。だから、藤吾さえがっしり抑えられたら、きっと何事もなく簡単に、捕まえられたはずなのだ。
おまえは優しいからなあ、と怪我を手当てした先輩に言われた。
そうではない、と藤吾は思う。優しいのではなく、臆病なのだ。きっと何より、自分がかわいいのだ。
藤吾はカクテルをぐいっと煽った。自分など独り身で、家族だってもういない。何かあっても悲しむ人間などいないのに、五十も終わりかけて孫みたいな子供のいる先輩より、自分の身を守ろうとするなんて、と思う。
「藍川、ロックくれ」
どさりと隣に誰かが坐った。そのぞんざいな口の聞き方も、その細身のシルエットも、あの青年のものだった。
ああ、来ていたんだ、と藤吾はちらりと横を見た。もう相手を探すことを諦めきっている藤吾は、店に入っても中を見渡すことなどしない。だから彼がいるとわかるのも、いつも青年が出て行くときなどだった。
出てきたロックを、ごくりと飲む。華奢で可愛い顔立ちをしているのに、そののみっぷりは見事で、ぐいっと唇を拭った仕草は男らしかった。
「ウイスキーの飲み方じゃない」
バーテンの藍川が少し呆れた声で言う。それに「うるせえよ」と可愛い口が返す。
「おまえも少し客を選べよ。あのオヤジ、ここをお触りバーかなんかと勘違いしやがって」
しかも俺は客だっての、とまたごくりごくりとウイスキーを飲む。ロックをそんな風に飲む人間を、藤吾はしらない。まあ、職場の先輩達はどの人も無茶な飲み方をするが。
ふいっと視線が流れてきて、目が合った。藤吾は知らず眺めていた自分にびっくりして、慌てて目を逸らした。大体、すぐ隣に坐っているのだ。見ていたら丸わかりだ。
かっと頬が熱くなる。ああ、なんて馬鹿で失礼なことをしてしまったんだろうと思う。
「あんたさ、良く来てるよね」
藤吾のその様子を気にしていないのか、青年はそう話し掛けてきた。青年から声を掛けることなど珍しく、店中が注目したが、カウンターに坐ってフロアに背を向けている藤吾には、幸いわからなかった。
まさか話し掛けられるとは思っていなかった藤吾は、小さく頷いた。そもそも、何で自分の隣なのだ、と思う。カウンター席は他にも十分空いているのに。
「いつも独りで飲んでるよな?誘われても断ってるし……もしかして、恋人がいる?」
藤吾は驚いて思わず顔を上げた。質問にも驚いたが、相手が自分のことを見ていたことにも驚いた。少しパニックのようになって、思わず縋るような目で藍川を見た。いつもなら、早々にさりげなく、藍川が藤吾にはその気がないことを上手く言ってくれるのだ。それなのに、藍川は今日に限って素知らぬ振りをしている。まあ今回は、相手は確かに好みではあるけれど。
「え……もしかして藍川なの?」
青年は急に声を低くして、囁くように言ってくる。それに藤吾は心臓がどくどくと鳴っているのがわかった。ちらりと見た横顔は、綺麗な眉がぐぐっと中央によっていて、歪められていた。
藍川はすらりとした体躯に理知的な顔を持った男だ。バーテンらしく気配りも利く。だから、藍川を目当てにしてくる客もいるのだと藤吾は知っていた。隣の青年と藍川はずい分仲が良いが、もしかしたら、そういうことなのだろうか、と思った。
「違います。残念ながら」
藤吾が首を振る前に、藍川がうっすらとそう笑った。青年は、それを面白くなさそうに見ている。
ああ、やっぱり。藤吾はそう思った。
そうだろうな、とも思う。
藍川なら、お似合いだ。あっちの相性だって、きっと合うだろう。
グラスを握る青年の細い指が目に映った。
ああそれが自分の肌の上を滑って行ったら――。
その華奢な腕が自分の腰を掴んで離さないでいてくれたら。
藤吾はそんな、きっと店の誰もが想像するのとは反対のことを思いながら、小さくため息をついたのだった。
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