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シュレーディンガーの猫
02
「簡単なことだ。俺はもう一人の都住ひびきなんだよ」
赤くなった手首をさすりながら、響貴はそう言った。すっかり化粧を落とした響貴は、坂倉のシャツやズボンの大きいところを無理やり着て、ベッドに座っていた。坂倉は、何本目かの煙草を吸いながら、壁に寄りかかっている。
結局、坂倉は何も言わずに響貴を解放した。自分には、幸運の一欠けらさえもないのだと思いながら。
長い間、計画していたことだった。それが、予想外の形で失敗に終わり、少し呆然としていたと言っても良いかもしれなかった。化粧を落としても、目の前の子供は女にしか見えない。それなのに、こいつが男だなんて。
いや、そんなことは関係なかった。ただ、都住の大事にしている娘でさえあれば。それなのに。
「世間にも公表されていないし、都住の人間もあまり知らないけど、都住ひびきは二人いる」
話し出したのは、響貴だった。奇妙な空気が流れて、ぽつりぽつりと口を開いた。坂倉が煙を吐き出して、先を促す。
「俺はあいつ、つまり女のひびきより二歳下なんだけれど、認知されていないんだ」
「どう言うことだ。母親が違うのか」
「同じだよ。でも、父親が違う……と都住は思ったんだ。それで、俺を自分の子供とは認めていない」
そのころ、都住和枝――つまり、ひびきの母親――には若い男がいた。悪いことに、それを都住孝治が知ったのは、妊娠七ヶ月頃のことだった。プライドが高く、傲慢で利己的な孝治には、それは我慢できることではなかった。でも、七ヶ月を過ぎた胎児をおろすことは出来ない。孝治は、無理やり流産させようともしたらしいが、和枝がそれを必死に守ったのだ。
そうやって生まれてきた子供を、孝治が認知しないまま和枝は育てた。プライドの高さから孝治は離婚をしようとしなかったが――それに、和枝の家柄も良かった――和枝は響貴を生んで五年後に他界する。
その頃から、響貴は姉に似ていた。姉は背が伸びるのが遅く、身長もそれほど変わらなかった。ちょうどその頃、姉の響の誘拐未遂事件が起きている。孝治は響を誤った意味で溺愛していたし、将来的にどこかの会社社長の息子と、結婚させようと考えていた。それによって莫大な資産が手に入るのを、夢見ているのだ。
「それからだ。俺が女の格好させられるようになったの」
「外に出るときは、いつもお前なのか」
坂倉の問いに、響貴は首を振る。
「あの女が行きたいときは行くんだよ」
「この間の、舞台を見ていたときは?」
「あれはあっち」
坂倉は、大きく紫煙を吐き出した。それから、目の前の男をじっと見る。
そっくりじゃないか。
大体、計画を実行する前に、何度も顔を確かめて見ているのだ。そのときだって、きっと二人が混ざっているのだろうが、何の違和感もなかった。
「これで親が違うなんてな」
坂倉のその言葉に、響貴は鼻で笑う。
母親の和枝は、響貴は孝治の子だと最後まで信じていたし、言っていた。幼い響貴の記憶にある母親の言葉は、それだけだ。
――あなたは、都住の子供よ。
でも、誰にも本当のことなどわからないのだ。
「都住は俺のことは必死で隠している。同じ家の中にいたって、俺のことを知らないのもいるし」
知っているのは、佐々原と響、孝治位だろう。響貴の身の回りの世話は、佐々原が全てやっていたから、響貴が直接接触するのは、彼だけだった。ときどき、思い出したように檻から出される。
あそこが、檻ではなくてなんなのだろうと響貴は思う。飼われている、と言う感覚は、響貴の中ではずいぶん前からあったのだ。部屋はアパートのようなもので、その部屋で全てができる。出口は一箇所しかなく、いつもは鍵がかけられ、食事のときや勉強をするときなどに佐々原がくるのだ。姉の響に似せるために、わりと優雅な作りだったが、響貴にはそれが世界の全てだった。姉の響の好みなら、いくらでもわかる。そこに埋め尽くされたものは、姉でしかなかったから。響貴が、美しいとも思わないものが、ただ壊したくて堪らなくなるようなものばかりが、そこにはあった。
「あいつ、次の参議院選狙ってるんだよ」
響貴が、ふと呟いた。坂倉が動きを止めると、そのまま続ける。
「強請れるよ。金はある。汚い、金だけどね」
坂倉は、それには答えずに部屋を出て行った。
二人の奇妙な生活が始まった。坂倉は普段通りに仕事をし、響貴は料理をしたり、坂倉の本を読んだりしている。
どうして、こんなことをしているのだろうと、坂倉はふと思う。原稿が煮詰まったときに、ふっと頭を空にしようとするときや、煙草を吸っているときなどに、ぼんやりとそう思うのだ。ずっと、考えていたことだった。念密な計画を立てて、実行したはずだった。
坂倉は、響貴を監禁はしていなくても、軟禁状態にしている。そのことを、響貴は気にしていなかった。それがあたりまえかのように、部屋にずっといた。そして、それが坂倉にとって当たり前のようになる気がしている。
「なぁ、髪切ってくれない?」
向かい合って食事をしているとき、響貴がそう言った。今は、その長い髪を後ろで編み下げている。坂倉が買ってきた服を着て、今では男に見えなくはない。言葉は乱暴で、少しわざとらしいくらいに、男の仕草をしたりする。それが今までの響貴のことを物語っていた。
想像もできない。坂倉はそう思って、いやにこの少年に同情的なことを認めなければならなかった。彼に、どう接して良いのか、わからない。
「駄目だ」
こんな風に、人に作ってもらった食事など久しぶりだと思いながら、坂倉は目も合わせずにそう言った。響貴は食べる手を止めて、少し思案したようだったが、すぐに諦めた。
ドアは、内側からは開かないようにしてあって、坂倉が帰ってこない限り響貴は外に出られない。窓もあるが、七階のマンションから外に出るためには、使えない窓だった。
いっそうのこと、放り出してしまおうかとも思う。でも、それでは自分が危険だと言うことはわかっているのだ。何を言おうが、響貴が家に帰ったら、全ては明るみに出るに決まっている。そんな風に、苦しめられるのは嫌だった。
苦しむべきなのは、自分ではないはずだ。
そして、この少年でもないのだろう。
そう思うと、坂倉は余計にどう接したらいいのかわからない。
「髪、切ってよ」
外に出ないことには慣れている。坂倉の部屋の本も、料理をすることも面白いから、今のところ飽きはしない。響貴は、そう思いながら、ただ一つ、自分が気に入らないのはこの髪だとでも言うように、縛られた髪の毛を、引っ張った。
本当は、いつだって切りたかった。この自分の顔を、めちゃくちゃにしてみたかった。
でもそうしたら、自分は存在できない。いる価値が、なくなってしまう。
あの家に、いる限り。
響貴はずっとそう思っていて、今の状況を理解した途端、髪を切りたくなったのだ。
「……だめだ」
坂倉は、それだけ言うとまた箸を動かした。この少年が、「都住響」に似ているのならば、それを利用しなくてはいけない。自分の身の安全のためにも、彼をまだ「都住響」にしておかなくてはいけなかった。そうは思いながら、坂倉は、響貴を「誘拐」してきてからずっと、考えていたことがあった。確かに、大きなスキャンダルではある。上手くやれば、金も取れる。
でも。
この賭けは危険すぎやしないか、と思うのだ。この二日でいろいろ手を尽くして調べてみたが、「響貴」の存在はようには知れなかった。やっと、どうやら都住和枝が男の子を産んだのは本当らしい、と言う確証もないような話を掴んだだけだった。ただ、都住家が慌しく動いているのは本当で、向こうが響貴を必死で探しているのだろうことはわかる。それに、ニュースにもなっていないことを考えると、都住がそれを徹底的に隠していることもわかる。響貴の話は、本当だろう。それでも、坂倉は今一歩踏み出せないものがあった。
「あんたは、都住ひびきを誘拐して、どうしようと思ってたわけ?」
すっかり気に入ったと言う、ビールを飲みながら、響貴が聞いてくる。坂倉は冷蔵庫からもう一本ビールを出して、それを開けた。今日は少し、ペースが早いかもしれない。
「――金を取ろうと思っていただけだ」
響貴が手を出すのを、坂倉は首を振って駄目だと言った。もう一杯、ビールを飲みたいというのだ。まだ未成年のくせに。
ふとそう思って、自分のその考えに苦笑する。だいたい、人質が酒を飲めると言うことがおかしい。こんな風に、向かい合って食事をすることだって。
坂倉は無言で、響貴の前のコップに、ビールを注ぎ足した。どうも、おかしなことになっている。
「誘拐なんて、成功率低いのに」
響貴が人事のように言う。今、自分が何故ここにいるのか忘れてしまったのだろうか。坂倉と同じように。
誘拐がひどく危険なことはわかっていた。でも、都住を苦しめるには、溺愛している娘を奪うのが一番だと思ったのだ。それで、自分の気が済むはずだった。
ずっと見つづけている悪夢から、解放されると。
「もう少し、様子見ていたほうが良いよ。佐々原が動いてるだろう?」
「あぁ」
何度か見かけた、ただのボディーガードかと思っていた佐々原の顔を思い浮かべながら、坂倉は頷いた。いつでも、一切変わらない顔色をしている。それが不気味な男だった。
「あいつの初めての汚点だからな。必死だよ、きっと」
響貴が、ひどく押さえた声でそう笑う。坂倉は、その響貴の笑い方が嫌いだった。思わず、目を背けたくなるのだ。狂気と正気の、狭間のような笑顔。響貴は、そんな風にしか笑わない。
響貴は、笑いながら佐々原の顔を思い浮かべる。冷たく、無機質な視線。残念なのは、その顔がどう怒りと屈辱に震えたのか見られなかったことだ。まったく、あの家の者たちは皆、不気味だ。自分でさえも。
響貴は坂倉をそっと盗み見る。坂倉は、今まで会った誰とも違う。大体、初めて自分を「都住響貴」として視界に入れている人間だった。十七の、男として。もしかしたら、年は一回りほど違うかもしれない。良くなにやら書いているが、響貴は彼の素性をほとんど知らなかった。もちろん、彼が話さないことはあたりまえのことだ。誘拐犯が、素性を明かしてどうすると言うのだろう。
でも、今の状況が、既におかしいと響貴も思っている。どう見ても、誘拐犯と人質には見えない。
響貴には、わからないことがあった。坂倉が、何のために自分を――都住ひびきを――誘拐したのかと言うことだ。金に困っているようには見えない。どうみても堅実な生活をしているし、きちんと働いてもいる。かえって、金回りは良いほうだろう。
それが、何故。
考えても、自分にはわからないことだ。大体、今ではこの男が被害者だろう。あのとき自分を殺して、逃げてしまえば、この男にもまだ希望はあったのに。
こんな厄介なことに、巻き込まれずにすんだのに――
目の前で、美味しそうにビールを飲む男を、響貴は哀れに思った。
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