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シュレーディンガーの猫

03
 能瀬から携帯に電話があったのは、食事中のことだった。当日すぐに電話してこなかっただけよしとしようか、などと坂倉は思う。
 飲みたい気分で、誘いに乗ってから、出かける間際になって坂倉は響貴をどうしようか迷った。そんな自分が、あまりに滑稽だった。その響貴は、食事の片づけを楽しそうにしていた。
 どうでもいい。
 坂倉は、そう思った。もう、どうしようもない。目の前のこの子供に、罪がないことぐらい、坂倉は分かりきっていた。
 坂倉は無言で、テレビを見ている響貴を置いて、部屋を後にした。
 能瀬は、どうやって切り出したらいいのかわからないらしく、何度も煙草の煙を吐き出している。目の前に置かれたウイスキーのコップも、もう何杯目なのだろう。瞳が少し潤んで、酔っていることを示していた。それでも、迷いを振り切るには、まだ酒の量が足りていないようで、今日に限って重い口は、なかなか開かれようとしなかった。酒の力を借りようなどとは、あまり能瀬らしくない。
 坂倉はそんな能瀬を横目で苦笑交じりに見ていた。坂倉からは、話すつもりはない。このまま帰ることになっても、じゃぁ、と言って別れるだけだろう。能瀬は、わかっているはずだ。坂倉が何をしたか。坂倉の過去を知る、数少ない人間として。何度も止めようとして、果たせなかったことも、坂倉は知っている。でも、今の状況は、坂倉自身わからないほど奇妙な様相を呈しているのだから、能瀬にわかるはずがなかった。
「よく、わからないんだが」
 だから、能瀬がやっとそう言ったとき、坂倉は能瀬の混乱が良くわかった。坂倉は都住ひびきを誘拐したはずだ。でも、都住ひびきは家にきちんといる。それでも、都住は何かを必死に探している。
 都住は何を探していて、坂倉は、何を、持っているのか。
「何が?」
 坂倉は、少し意地悪い口調で問う。能瀬は、不満そうな顔で坂倉を見ると、グラスに残っていたウイスキーを、ぐいっと飲み干してまた新しいグラスを頼んだ。
「実行、したんだよな」
 能瀬のその問いには、坂倉は薄く笑うだけだ。失敗したと言ったら、この男はどんな顔をするのだろう。ほっとするのだろうか。
 大学時代から、この男はいつもそうだった。心配しながら、口には出さない。それなのに、坂倉が窮地に陥らないように、どこかで必ず動いている。坂倉はそれに甘えすぎたと、今になって思う。思い詰めたように行動しても、最後の最後に、能瀬が何とかしてくれる。気づかない振りをして、それをわかって行動していた。そうやって、思ったようにやってこれたのだ。
 でも、今回はそうはいかない。
 今まで、そんな風に助けてくれていたからこそ、今回ばかりは能瀬を巻き込みたくない。そんな風に思ってはじめて、それが意外に困難なことだと坂倉は知った。
 能瀬は、坂倉が思っているより、坂倉を知っている。
 いつもの、追い込まれて諦めたような目をした坂倉を見て、能瀬は、もう忘れてしまえと言いたいのを堪えた。もう何度、この言葉を飲み込んだだろう。多分一度だって、発せられたことのない言葉だ。それは坂倉を傷つけはしても、救いはしない。
 能瀬は少し薄くなったように感じるウイスキーを飲みながら、言葉を探した。こんな言い方は、自分の性にあっていない、と分かりながら、それでも能瀬は口を開いた。
「あまり、いい感じじゃないんだ」
「いい感じじゃない?」
 坂倉が、何を言いたいのかわからないと言うように、繰り返す。抽象的な物言いは、この男の嫌悪するところのはずだった。
「嫌な、予感と言うか」
「……予感ね。お前の口からそんな言葉が出るとはな。お前、今日は飲みすぎたな」
 坂倉は、故意に酒のせいにした。今回のことが、何か恐ろしいことになっていくだろうことは、坂倉自身が、良く知っていたからだった。

 坂倉は、結局能瀬に付き合って、だいぶ酒を飲んだ。帰り着く頃には、自分でも少し酔っていると思った。それでも、意識や感覚がなくなっているとは思えなかった。
 時計を見ると、夜中を少し回った頃だった。坂倉は、少し考えてから、まぁいいと、携帯電話を取り出して、電話をかけた。その頃にはもう家の近くにいたし、小雪がホテルを嫌がるのは知っていたから、坂倉はそのまま家に小雪を呼んだ。
 どうかしていたのかもしれないと、坂倉は思う。そのとき、何かがおかしくなってしまったのだと。
 小雪は気軽に、いいわよと言うと、すぐ行くと電話を切った。明日は、仕事がないのよと言って。
 小雪と会ったのは、雑誌の仕事を通してだった。今はつぶれた、とある芸術系の雑誌社に勤めていたとき、奇妙なイラストを書く女がいるから、取材をして記事を書くように、と言われたのだ。そのときの特集は「偏愛」だっただろうか。
 小雪は、最初に見せられていたイラストとは程遠い、スタイルのよい美人だった。どちらかと言うと和風で、佇まいも和服を着せたら似合うだろうと、坂倉は思った。
「はじめまして」
 それなのに、そう微笑んだ顔がいやに妖艶で、坂倉は思わず目を伏せたのを覚えている。話してみると、イラストだけでは食べられないから、ホステスまがいのことをしているのだと言った。のんびり、って感じだけど。そう小雪が笑うと、それでもかなりの客がついているだろうと思うほどだった。
 小雪のイラストは、どこかからだの一部を描いたものが多かった。はじめは、目だった。それから、口だったり、耳だったり、指だったりした。目はわりと定期的に描かれていたが、その他のものはときどき変わった。
 そのイラストの何が奇妙なのかと言えば、それらのものが「一個の個体」として描かれていることだった。身体の一部、なのではなく、そのものが一つの何かであるような。林檎が、林檎一個として転がっているように、目玉が、目玉一個として転がっている。
 それは、思うよりグロテスクな絵だった。
 一時間くらいで取材を済ませると、それでも二人はなんとなく話しつづけていた。それから、その流れがごく自然であるかのように、ホテルへ行ったのだ。
 坂倉自身は、そう言う経験はなかった。きちんと付き合った、恋人と寝ることはあっても、行きずりのようにホテルに行くということはなかったのだ。
 今でも、どうしてそんな流れになったのか、覚えていない。恋人同士が、喫茶店でおしゃべりをしてから、食事に行き、ホテルへ行くように、それは本当に自然なことだったのだ。
 それから、一年が経つ。雑誌社は、その記事を載せた雑誌を最後に、会社を解体した。坂倉はしばらくふらふらしていたが、その頃の文章を読んで評価してくれた編集者に声をかけてもらって、その雑誌のライターとして今は暮らしている。そんなことがあっても、小雪とはずっとセックスフレンドとして、続いていた。
 恋人ではない。
 二人ともそう思っていて、他に呼びようがなくて、セックスフレンドと言う言葉を使っているが、それも本当はしっくりこない言葉だった。
 それだけではない、何か。二人の間のもっとも有効な言葉としてセックスがあるだけで、ほかにもっと有用なものがあれば、それでもいいのだろう。互いに、クリエイティブな部分を刺激しあえる仲間だった。
「この部屋は久しぶりね」
 小雪は、来訪の際のチャイムをならさない。自分が嫌いだと言う理由で、人の家でも軽くノックするだけなのだ。坂倉はそれでも響貴が起きたことを察したが、小雪の腰に腕を回して、部屋へと促した。小雪には、甥っ子を預かっているのだと説明する。
 部屋に入って、坂倉は小雪を性急に求めた。どうしてか、快楽が欲しかった。小雪が服を脱ぎ終わらないうちに、色々なところを貪る。小雪も、それに答えるかのように、敏感に肌を震わせた。小雪の肌は、極上だ。滑らかで、少し冷たい印象がある。その肌に負けないほど、響貴の肌も白く透き通っていたと、坂倉の頭の中のどこかで響貴の肌が浮かび上がった。
 一度、全裸にさせて写真を撮ったのだ。響貴は笑っていたが、嫌がりはしなかった。分かっていたのだろう。それが、都住を追い込める材料だと言うことを。
 しなやかな肢体だった。長い手足。細い腰。女として生きてきた、証のように。今だ少年のような、少女のような身体に、坂倉は哀れさを感じた。この少年は、どうやって男になれるのだろう。一番、自分の性を意識するときに、こんな身体で、少女として存在して。そして、そうでなければ存在できないことに。
 坂倉は、その写真を使う気はあまりなかった。もう、失敗したのだと思っている。それでも、ライターの性なのか、保険のつもりなのか、とにかく写真を撮っておこうと思ったのだ。取れるのならば、本当に金をせしめても良いかもしれない。そう思っても、そこに情熱がないのは分かりきっていた。
 小雪の脇腹に舌を這わせながら、ふと、響貴の全身についていた赤い痣のような斑点を思い出す。響貴が、格好だけ女の真似をさせられていたのではないことがわかる痣だった。縛った手首が、いやに赤すぎたのも、長いスカートをはかせられていたのも。中には、目を覆いたくなるほど紫色に腫れていたものもあった。
 つい触れたときに、響貴が笑ったのを、坂倉は覚えている。響貴は何も言わなかったが、小馬鹿にしたような笑いだった。
 白い肌についた、紫色の跡。
 そんなふうに印をつけることに快楽を覚える男。
 少女の顔をした、少年――
 小馬鹿にしたように笑いながら、そこには、何も映っていない。
 坂倉は、小雪を執拗に責めた。隣に、響貴が眠っていることをわかっていながら、――だからこそ――小雪をなかせる。
 わざと鍵を閉めなかったドアが、ほんの少し開いたのを、坂倉は確認した。なぜかは、わからない。でも、自分がそれを望んでいることを坂倉は知っていた。抗えない欲望のように。
 小雪が、高い声でなく。荒い息遣いが、静かな部屋に満ちる。
 それを、黒い瞳が見つめている。いつも何も映していない、深い海の底のような目。
 その視線を感じながら、坂倉は高みに達した。
 ごろりとベッドに転がって、まだ整わない荒い息を吐き出しながら天井を見つめて、坂倉は困惑していた。
 あの快楽は、今、どこから来たのだ?


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