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 部屋の壁には、パネルになった一枚の写真が貼ってある。
 ひどく雨に似た雪が降った日の写真で、レンズでぼやけた雪の破片の向こうに、幼い子供が二人、一心に空を見上げている。
 きらきら、きらきら、という言葉が似合う写真だ。雪の破片も、子供の目も。
 でも、白く煙る空に、二人は今にも消えそうだった。


 槙プロダクションから電話が掛かって来たのは、夏休みも間近になった七月の中旬、そろそろ夜になっても暑さがひかなくなって来た頃だった。聞きなれない言葉に、俺は一瞬、言葉に詰まる。
『塾帰りだと思うのですが、是非うちの事務所でタレント育成の訓練を受けてみないかと伺ったところ、その、一緒に事務所まで来ていただけてですね』
 まだ小学生の子供を誘拐したとでも思われたら大変だと思ったのだろう。電話口の男は、いい訳めいた口調で話をしている。
「すみません、すぐ迎えに行きますから」
 俺がそう言うと、明らかにほっとしたように、「ああ、そうですか、ありがとうございます」と言って、その事務所とやらの場所を説明しだした。
 たぶん、送っていくと言っても動かなければ、帰ろうともしなかったのだろう。厄介な子供をスカウトしたものだ。
 俺は事務所の場所をメモ帳に書きながら、ため息を隠せなかった。
 どうして今日に限って、と思うが、今日だからこそ、なのだろう。昨晩、父と別れた母から電話があった。再婚すると言う話だった。二人が離婚して、もうすぐ一年になる。
 当時小学校に上がったばかりの弟の実(みのる)は母に引き取られ、今年高校二年の俺は父と残った。何も出来ない父を一人にするわけには行かないだろう、と俺は言ったが、それだけではなかった。母の再婚が、わかっていたからだ。
 写真家の父はほとんど家に帰ってこない。一年のうち、トータルで一ヶ月も家にいればいいほうじゃないかと思うほど、どこかに行っては数日帰ってきて、またどこかに写真を撮りに行く、ということを繰り返していた。俺が、物心ついたときから既にそんな生活で、母も疲れていたのだと思う。確かに、結婚している意味などない気がした。だから、母の浮気を責める気は俺にはない。離婚届でさえ、母が家を出て一ヶ月の間、マンションのテーブルに置きっぱなしだった。記入をすべき人物が、帰ってこなかったからだ。
 だからと言って、今更新しい父親と暮らすことはできないと思った。でも、幼い実には、父も必要だろうと俺は思っていて、再婚に反対なわけでもない。
 ただ、自分で選択をした俺と違って、実はどうして自分が父とそして兄の俺と離れなければならないのか、わからなかったようだった。一年に数日しかいない父でも、実が父を好きだったのは、俺も知っている。そして、ただ待つことに疲れてノイローゼ気味になった母よりも、俺に懐いていたのも事実だ。
 でも、俺だけでまだ小学生になったばかりの実を育てていけるわけがなかった。
 じゃあね、と笑った俺に、「兄ちゃんは?」と大きな瞳を不思議そうに丸くして言った、実の顔を俺は忘れられない。母に手を引かれて、それでも実は振り返って、いつまでも俺を見ていた。まるで、捨てられた子犬のように。


「お手数かけて申し訳ありません」
 そう謝った俺に、プロダクションの社長だと言う槙は、いやいやこちらこそ、と苦笑した。
「もう遅い時間だと言うのに声を掛けたのは、うちのスタッフのほうですから。ただ、迎えが来ないと帰らないと言われて、てっきり親御さんがいらっしゃるのかと思ったら、お兄さん、ですか?」
 声を掛けられても、実なら簡単についてはいかないことを俺は知っている。やはり、今日だから、なのだ。
「はい。どうせこいつ、我侭言ったんでしょう?実、もう心配掛けないって約束しただろう?今回はいい人たちだから良かったけど、一歩間違えれば怖い思いをしてたかもしれないんだぞ?」
 俺はソファーに居心地悪そうに座っている実と視線の高さを合わせて、そう説教をした。本当に、ここが普通の芸能プロダクションで良かった、とここに来るまで内心ひやひやしていた俺はため息を吐いた。
 実をこうやって迎えに来るのは実は二度目だ。一度目は警察で、俺は何があったのかと驚いて、慌てて駆けつけたのを覚えている。今回のように、夜に繁華街を歩いていて補導されただけだったのだが、それはただ単に、俺に心配をさせ、迎えにきて欲しかったからなのだと後で気付いた。
 もちろん、未成年の俺では役に立つはずもなく、結局俺から母親に連絡をした。母親もひどく驚いて、ショックを受けているようだった。
 今回も、きっと同じことだ。新しいお父さんと会わされるというから、そこから逃げて、俺に迎えにきて欲しいと言ったのだろう。
「心配した?」
「したよ。突然芸能プロダクションですが、実を預かってるなんて言われて」
 俺がゆっくり微笑むと、実は俯いて、ごめんなさい、と小さく謝った。悪いことをしているのはわかっているのだ。それでも、こんな方法でしか反抗できない実を、俺はやり切れない思いで見た。
 結局、一番の被害者は実なのだ。
 浮気に感づいていて父と残り、実に懐かれている俺を、母は本当は疎んでいる。新しい人とやり直すために、もう過去のことは忘れたいのだろう。だから、俺と実が連絡を取り合うことにも、あまりいい顔をしない。
「さあ、帰ろう」
 そう言って頭を撫でた俺を、実は見ない。どこに帰るか、わかっているからだ。
 正直、俺も気が重かった。母の再婚には別に反対ではないが、新しい父親を見る必要などないし、そんな機会を与えられるのはうんざりだった。母もそのつもりはないらしく、電話でも再婚の報告をしただけだった。
「名瀬さん、お車ですか?」
 しばらく俺たちの様子を見て、実がのろのろとでも立ち上がったのにほっとしたような槙が、笑いかけて来た。
「いいえ、電車で来ましたけど……別に遠くないですし」
「でも、うちの者ももう帰るのがいるでしょうから、送らせますよ」
 いえ、と断ろうとした俺が何か言うより早く、それに、と槙が話を続けた。
「実くんが本当にその気なら、ぜひうちの事務所に来ていただきたい。今回はどうやら色々ご事情があるようですが、こちらは本気で考えていただきたいんですよ」
 槙は社長らしくない、ひどく穏やかな物言いでそう言った。俺は「はあ」とだけ答え、実を見た。確かに実は、可愛らしい顔をしている。でも、俺は実にはそれよりも大事な話が合って、スカウトどころじゃない。そんなことに俺が首を突っ込んだら、また母親に嫌な顔をされるだろう。
 先刻も、とりあえずの報告に連絡すると、盛大なため息に迎えられた。
『またあなたご指名なのね』
 困ったような声には、皮肉が含まれていて、俺のほうがため息をつきたくなる。浮気を知っている俺が、それを隠して慰謝料まで取った自分を恨んでいると思っているのだ。それで、実を唆して再婚に反対させているとでも思っているのだろう。
「実に話したのも突然だったんだろう?急でびっくりしてるだけだよ。会えばきっと実も気に入るさ。俺からも、実に言っておくし」
 俺がそう言うと、あまり信じていないような声で、そうよろしくね、と言われた。それから、と少し言いよどんだ母親に、何を言いたいのかわかった俺は自分から断った。
「家までは送るけど、それで俺は帰るから」
 言外に再婚相手とは会うつもりはない、と言った俺に、母親は安心したようにため息をついた。
 自分のことで手一杯で実の事など見えていない母親のことを、どうやって話そうか。
「それはもちろん、芸能界なんて、と思うかもしれませんけれど、私どもの事務所はそれぞれの人間の個性を尊重して、生かしていきたいと思ってるんです。タレント、と一口で言ってもですね」
「あの、こいつの親には話しておきますから。それに、俺は別に芸能界や芸能人が悪いとは思ってません。身体一つで稼ぐのは、立派なことでしょう?でも今日はとにかく、帰りますから。ご面倒掛けて、すみませんでした」
 この人はどうしてこんな風に社長らしくないのだろう、と俺は思いながら、実の手を引いた。まるで現役スカウトマンだ。
「お疲れ様です」
 一瞬惚けたような顔をした槙がはっと我に返った。俺たちはいわゆる社長室ではなく、事務室のパーテーションに仕切られた応接セットに座っていて、事務所に誰かが声を掛けたようだった。時計の針はもう十時に近い。電話があったのが八時半、それから三十分かけてここに来て、そのあと三十分もここにいたのか、と俺は内心どっと疲れを感じていた。その上これから実を家まで送り届け、母親と顔も合わせなければならない。その家から部屋までは、一時間近くかかる。帰り着く頃には日付が変わるかもしれない、と思ったら、ため息を隠せなかった。
「ああ、東。おまえ上がりだよな」
 槙が声を掛けた人物は、ドアを閉めようとしていた手を止めて、もう一度それを大きく開いた。あまりテレビを見ない俺でも良く知っている顔だ。藤原東(ふじわら あずま)、今人気急上昇中のタレントだ。
「何、槙さんがいるなんて珍しい」
 藤原はそう言いながら応接セットに近寄ってきた。俺たちに気付くと、新人さん?と首を傾げた。
「いや、倉野のスカウト。おまえ帰るなら丁度いいや。こちら、送って差し上げて」
 槙はさらりとそんなことを言ったが、内心俺は驚いた。人気が出たのは最近とは言っても、今や藤原東は若者のライフリーダーとまで言われている。端正な顔にスマートな物腰。落ち着いた口調で話す話題は、音楽、小説、映画、スポーツなど文化的なことから、ときには現代政治のことまで、多岐に渡る。いくら所属事務所の社長だからと言って、足に使うのはどうかと思う。
「……いいですよ」
 俺が断ろうとしたところで、藤原がそう笑った。でも、俺は見逃していない。一瞬の、本音を隠す無表情。自分を宥めるために、必要なその一瞬。
「良かった。こいつ、うちの稼ぎ頭。でも運転は丁寧だし、責任感もある奴ですから、安心してください」
 槙は、そんなことまで言う。俺はさらに断ろうとして、大人しくしている傍らの実を見た。ひどく大人しいと思ったら、半分眠っている。これを運ぶのは、少しばかり厄介だ。
「眠そうだね。もう少し我慢して、車の中で眠ればいい」
 藤原はそう言うと、実をひょいっと抱き上げた。身長はあるがスポーツをしていない俺には、少しばかり無理なこと。
 嫌なら嫌と言えばいいのに。
 俺は自分のことは棚に上げて、そんなことを思っていた。


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