home モドル 01 * 03

overflow 1

02
 駅までで結構です、と俺が言うと、なんで?と藤原は返した。
「ご迷惑でしょう?お仕事してお疲れでしょうし」
 正直言えば、シートに座ってすぐ、こてんっと眠ってしまった実を起こして連れ帰るのは、面倒だった。その上母親と実が住んでいるアパートまでは、駅から少し歩く。ただでさえ帰りたくない実が、素直に言うことを聞いて歩くとは思えなかった。
 知らずため息を吐いたのか、藤原はくすっと笑うと、いいよ送っていくよ、と言った。
「でも……」
「俺じゃ不安?」
 藤原は笑っていたが、どこか奇妙な違和感のようなものがあった。それは、俺が良く知っている類のものだ。まるで中身を伴わない、作りものの笑顔。
 ああ、と俺は納得した。藤原は、テレビや雑誌で俺が見るところの「藤原東」を演じているのだ。大人の雰囲気で、スマートな物腰、人気タレントだと言うことを鼻に掛けない、好人物。それがわざとらしくなく、ナチュラルなところがいい、とクラスの女の子たちも言っていた。
 ナチュラルね――
 と、俺は自嘲した。俺も、同じようなことを言われたことがある。面倒を起こさない程度に距離を保って接する俺を、大人だとみんな言う。でも、それがナチュラルでいいんだよね、と。
「何?」
「え?」
「笑ってた」
 藤原はエンジンを掛けると、ゆっくりと車を動かした。後ろの実を、少し気にするように。
「いえ、俺たちになんてサービスしなくても、と思って」
 普段だったら適当に誤魔化したのだろうが、俺も疲れていたのかもしれない。そして、仕事だから当たり前なのに、仕事を終えてまで自分を作る藤原に、見当違いの八つ当たりをしたのかもしれない。
「サービス?」
 車はゆっくりと夜の街に入っていった。最初に家がどの辺りか聞いていた藤原は、やはり駅までではなく、家まで送ることにしたらしい。一番近い駅とは反対の方向に向かう。俺はそれならそれでもいいと、それについては何も言わなかった。
「別に断られても、イメージダウンとか言わなかったのに」
「いや、俺は本当に帰るところだったし、聞いたら方向も大して変わらない」
 ふと、藤原が言葉を途切れさせて、俺を見たのがわかった。それで、俺は自分がまた自嘲の笑みを漏らしているのに気付いた。
「なんだ?馬鹿にしてるのか?それとも、芸能人を足変わりに使えて、嬉しいのか」
 藤原の口調に皮肉と怒りが混じって、俺は今度こそその藤原を笑った。
「最初からそう言えばいいのに。なんで俺を足変わりにするんだって、冗談じゃないって」
「おまえっ」
 きゅっと音がして、車が止まった。幸い大通りを外れていた道には後方車はいなく、道のど真ん中に突然止められた車に、怒鳴る輩はいなかった。
 藤原が、剣呑な目をしてこちらを見ている。当たり前だ。あんなこと言われて。
「すみません」
 俺はため息を吐いてから、そう謝った。例え俺の言ったことが本当でも、相手は送ってくれているのだ。そして、俺はそれで助かっている。
 藤原は何か言いかけて、小さくため息を吐くと、「指示は出せよ」と言って再び車を発進させた。
「なんで、人の好意にそんなことを言う」
 人通りの少ない道を、やはり安全速度で走る藤原の車は、確かに乗り心地がいい。そう言えば、車に乗るのは久しぶりだと気付いた。
「すみません」
 俺はもう一度、同じ言葉を繰り返す。途中で追いつく形になった前の車のテールランプの点滅を、数えるように見つめた。
「謝ってもらいたいわけじゃない。どうして、そんな風に言ったか聞きたいんだ」
 藤原は一度崩れたペースを、また戻していた。いつもの、でも偽物の藤原東。自分の車の中というプライベートな空間で、息苦しくないだろうか、と思う。
「疲れませんか」
「何が?」
「そうやって、周りに作られたイメージでいるの」
 前の車は、ゆっくりと右に曲がっていってしまった。前方に、しばらく闇が広がった。
「どう言う意味だ?」
 藤原は、わかっているのだろうにそんなことを聞く。俺は前を見たまま、次の信号を左に曲がってください、と言った。
「俺は別に、テレビで見たのと実際に話したのと違ったとしても、おかしいとは思わない。あんな全国放送で、自分をさらけ出すなんて俺には怖くて出来ないから。それが例え一部でも。だから、それが演技でも別にいいと思う。それなのに、あなたは今もその演技を続けている。あなたの、車の中なのに。俺たちみたいな、ただの子供を前に。そういうの、疲れませんか」
 藤原が、ウインカーを出す。長くて節々がしっかりした指はきれいで、運転を優雅に見せていた。するりと滑るようにハンドルが回る。
「どうして、俺が演技していると思った?」
「同じだから、かな」
「同じ?」
「一瞬、自分の気持ちを宥めて隠しこむ、その一瞬が俺も必要だから」
 そのときの仕舞いこむ感情さえ、顔には出さない。一瞬、ほんの一瞬、無表情になるだけだ。でもそれがないと、うまくこなせないのだ。
 藤原が黙って、俺も道順をぽつぽつと言うだけとなった。余計なことを話したな、と後悔し始める。やがて、藤原とはどうせこれ切りなのだから、いいか、と言う気になってきた頃、車は実の家の前に着いた。
「実、起きて。家に着いたよ」
 藤原にお礼を言ってから、一度外に出て後ろのドアを開けると、実がぼんやりと目を開けた。ほら起きて、と言うと、一瞬考え込む。
「ここじゃない。ここは僕の家じゃない」
 寝ぼけているような声で、そう言う。差し伸べた俺の手も取らずに、きゅっと唇を噛み締めた。
「実。送っていただいたんだ。ご迷惑だろう?ちゃんとお礼言って、帰ろう」
「兄ちゃんは?兄ちゃんも一緒なら帰る」
 じっと見つめる目は、とても真剣だ。そう言えば、きちんと話していなかったと俺は思い出す。
「いいか、実。兄ちゃんはもう実とは一緒に住めないんだ。でも、実には新しいお父さんが出来る。実のことも可愛がってくれる。大丈夫だよ。まずは、会ってごらん。それから、一緒には住めないけど、ときどき遊ぼう」
 な?と言うと、実は半分納得したような、半分疑わしそうな目をしていた。
「大丈夫」
 根拠のない言葉を、俺が自信もって言うと、実はやっと諦めて頷いた。こういうときは、罪悪感がちくりと痛む。
 多分実も、もうどうにもならないことはわかっているのだろう。それでも俺を捕まえようとする実の手を、俺は優しく、残酷に離すのだ。
 実が車から降りて、俺はほっと息を吐く。それから見上げた先に見える、小さなアパートの二階。もうすぐここから引っ越すだろう母や実の引っ越し先の住所を、俺が得られるかどうかなどわからなかった。
「助かりました。ありがとうございました」
 俺がそう頭を下げると、実も隣でぺこりと頭を下げた。
 藤原は何か言いたそうにしていたが、結局何も言わず、「お休み」と実の頭を撫でると、車に乗り込んだ。俺はそれから、実の手を引いて、アパートの階段を登った。
 呼び鈴を鳴らすと、それでもほっとしたような母が現れて、そのことに、俺の方がほっとする。でも、心配したのよ、と実の頭をするりと撫でただけで、母親は実を抱きしめもしない。
 中で人の気配がするから、再婚相手が来ているのだろう。俺はそれじゃあ、と踵を返した。実の、痛いほどの視線を背後に感じる。
 母は何も言わずに、そのドアを閉めた。


home モドル 01 * 03