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01
 わからない、と言われて、俺もどうしたらいいのかわからなかった。ただ、目の前でうっすらと赤くなっているイズルはとてもじゃないが直視できず、やっぱり酒を飲むべきだったか、などと考えていた。
 それから、二ヶ月。俺たちはまた何事もないように、俺が呼び出してはイズルが遊びに来る、ということを繰り返していた。といっても、俺の仕事とイズルの学校、週末のバイトの関係で、一週間に一度会えたら良い方で、ときには三週間近く会えないときもあった。
 イズルの父親である名瀬と対談したとき、俺は思い切ってイズルの話をした。それは、対談をしているうちに、ひどく似た親子だとわかったからだ。
 人を見る目の優しさとか、自分に対する厳しさ。周りに惑わされない真っ直ぐな目。ああ、イズルはこの人に確かに育てられたんだな、と俺は思った。実際には、ほとんど会っていないとは言っていたけれど。
 俺のイズルに対する恋愛感情までは話さなかったが、事の経緯をかなり詳しく話した。そのとき俺たちは気まずいまま別れた後で、俺はかなり落ち込んでいた。それを多分、名瀬はわかっていたのだろう。にっこりと笑って言われたのだ。
 ――あの子は、手を離したら駄目だよ。
 何にも属さないと言ったら聞こえが良いが、なんだろう、何かに属す自由もないんだよ。
 ひどく自嘲気味に笑った名瀬は、そう言ってとても悲しそうな顔をした。俺が悪いんだろうなあ、と呟きながら。
 でも、父親のことをイズルは決して嫌っていない。それを言うと、「そう、尊敬してるなんて言われて、照れくさいやら嬉しいやら」と異様に喜んでいた。
 やっぱり、この親子は似ている、と思った。人のことを良く見て考えた、大人の意見を言うくせに、不意に見せる少年っぽさがあったりするところ。俺が、最初にイズルを可愛いと思ったところ。
「なんだよこれっ」
 相変わらず、イズルは俺に連絡してきてはくれない。久しぶりでも、用事があれば容赦なく断る。この間鷲見と話したときに、絶対懐かない猫、と言っていたのがよくわかる。
 そうして呼び出した、水曜の夜。イズルはリビングに入ってくるなり、そう叫んだ。
「いい写真だろ?」
 すっとぼけて俺がそう言うと、それこそ猫が毛を逆立てるかのように怒ったのがわかった。
 普段の大人しいと言うより関心がないかのようなイズルを見ていると、こういう怒り方をされると頬が緩む。それが火に油を注ぐとわかっていても。
「なんで、東がこんな写真持ってるんだよっ」
「こんなってひどいな。天下の名瀬静己の大切な写真だよ?」
「どういうことだよっ」
 と、思わずパネルを放り投げられそうな勢いに、俺はそれをひょいっと取り上げた。ポスターほどの大きさのそのパネルを、目の前で眺める。
「いくらモデル本人でもこれを乱暴に扱うのは許さないからな。一枚だけの約束なんだから」
 俺は思わずにっこりと笑ってその写真を見つめる。
 あの対談の日に、名瀬が大事そうに彼の子供達の写真を見せてくれたのだ。多分元奥さんの写真も持っているのだろうが、さすがにそれは見せてもらうのは気が引けて、俺も何も言わなかった。二枚の写真は、普通のスナップショットと違って、それこそ名瀬静己の作品だった。
 無垢な目で、水槽の中の金魚を見つめている、実の写真。
 そして、今よりほんの少し子供っぽい、たぶん中学生くらいの、イズルの写真。窓の桟に腰掛けて、ぼんやりとどこか遠くを見つめているそのイズルは、とても綺麗だった。
 これが、一番この子達を映せた気がしてね、と名瀬は言っていた。それからもう一枚、二人のほんの子供の頃の雪の日の写真。本当は、それも欲しかったのだが、どっちかね、と言われて、イズルの写真を焼きまわしてもらうことにした。それも、ポスターほどの大きさで。
「名瀬さんが持ってたのを見せてもらったんだ。それで、一枚焼き回ししてもらった」
「してもらうな、そんなもの」
「なんでー?俺はすごい気に入ってるんだけど。さっき届いたばっかりでまだ取り付けてないけど、どこに飾ろうかなあ」
 やっぱり寝室か、と言ったら、飾るな、と怒鳴られる。
 本人は自覚がないが、イズルは思わず見つめてしまう雰囲気がある。顔の造作が格別良いわけではなく、普通と言えば普通なのだが、社長辺りに言わせると原石とでもいえそうな雰囲気だ。磨けば、人を惹きつけて止まない宝石になる。
 素のイズルはそれこそ「つい見てしまう」という感じで、この写真はその雰囲気をとても良く出していた。窓辺に座るイズルを、俺もぼんやりと見る。
 そこで手が伸ばしたくなるのは、俺の邪な心情のせいだけれど。
「実くんの写真も、二人の雪の日の写真も見せてもらったけど、すげえいい写真なのな」
 誉められると、自分のことではないのにイズルは嬉しいのだろう。奇妙な顔をする。
「どうして写真集に入れないんですかって聞いたら、家族だから、だって」
 これでお金を得るのは忍びない、というより、まあ隠しておきたいってところもあるかなあ、と苦笑していた名瀬。それを言うと、イズルはきゅっと唇を噛んだ。
「あの馬鹿親父。そんなこと一言も言ったことない」
「そりゃあ、照れくさいでしょ?」
 イズルが今、照れているように。まったく似たもの親子なのだ。
「だいたいなんでパネルなんだよ。普通サイズにしておけよ」
「だって、パネルもできるよって言うから。なあ、これ中学生?」
 俺がそう言いながらどこに飾ろうかと考えていると、イズルは諦めたのか投げやりに「そうだよ」と頷いた。それから、テーブルの上の煙草にふいっと手を伸ばす。
「あれ、煙草吸うんだ」
「ごくごくたまに。一ヶ月に一箱も減らないけど」
 その割に慣れたように指に挟んで、怒っているのだろうに、貰っていい?ときちんと聞くところはイズルらしい。俺がどうぞ、と言いながらライターを取ってかちりと火を点すと、ちらりと俺を見てからそこに顔を近づけた。
 上から軽く閉じられた薄い瞼を見ていたら、ぞくり、と身体の奥底で何かが動いた。やばいな、と思う。
 ふーっと煙を吐き出して、ありがとう、とイズルは言いながらベランダに向かう。からり、と窓を開けると、そこに背を預けてぼんやりと煙草を吸い出した。
 どこか遠く、見えているのは、父親の背中なのか、過去の家族たちなのか。とりあえず、そんなものたちをこの写真が思い出させたのだろう。
 ごめん、と謝るのも変な気がして、俺はそっとパネルを寝室に運び込んだ。もともと、飾るなら寝室にしようと思っていたのだ。
 それにしても、イズルは一体いくつの顔を隠し持っているのだろう、と思う。最初のときは、俺が勝手に大学生と思ったから何もいえないが、それでも高校二年生で、生徒会までやっていると聞いたときはびっくりした。酒は強い、というほどではないにしても、こなれた飲み方だった。まさかあれが初めて飲んだ酒ではないだろう。
 俺のことだけ作ってるだのなんだのというのに腹が立って、こいつの化けの皮も剥がしてやろう、と酒をどんどん勧めたのは俺だ。それにわりと簡単に引っかかったのは、確かに子供なのかもしれない。
 そして、煙草。
 俺も決して品行方正な学生時代を過ごして来たわけではないが、こんなにギャップはなかった。
 寝室から出てきてキッチンへ向かった俺は、冷蔵庫からビールを出した。
「淋しかったら電話ぐらいして来いよ」
 ただぼーっと外を眺めているイズルに、俺は思わずそう言った。イズルは、外を見たまま「淋しくないよ」と言う。
「今は、淋しくないよ」
 そうやって笑った顔は、ひどく切なかった。


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