home モドル * 02
君を愛する理由(わけ)などいらない。
01
煙草を取り出して火をつけたところで、ベッドカバーの青さが目に入った。まるで南洋の海の中にいるように美しく鮮やかな青なのに、少しも気付かなかった。そう真崎がそのベッドカバーをじっと見つめてふーっと煙を吐き出したところで、「ここは禁煙だったんじゃないのかっ」と叫ぶ声が聞こえた。さっきから叫びつづけているその声は、少しひっくり返っている。
「関係ないじゃない。どうせ藤川は吸わないんだから」
「関係ない?俺たち一緒に暮らしてるんじゃないのか?」
「でもここは私の部屋よ」
智耶子の声は直前の行為の所為で掠れていて、色っぽく響いた。それが、藤川をもっと苛立たせていた。藤川は叫び声を上げている所為で、自分の声も掠れていたが、頓着していないようだった。
「だいたい、だいたい、なんで」
藤川の声が詰まって、何かが倒れる音がした。真崎はそれでも二人のことは気にせずに煙草を吸っていた。中途半端に放り出された下半身が情けなく、でももう、その気は起きなかった。
「殴らせろっ」
「真崎は関係ないって言ってるじゃない」
「さっきから関係ないって、人の彼女のベッドに寝てる奴がどうして関係ないんだよっ」
「誘ったのは私だもの。彼は悪くない。殴るなら私を殴ればいいじゃない」
どうでもいいが、冷えてきたな、と真崎は思って、床に散らばっているシャツに手を伸ばした。昨晩泊まった家の女がアイロンを当ててくれたのに、しわくちゃになっている。
「殴れるわけないだろう。たとえチャコが悪くても、俺がチャコのこと殴れるわけないじゃないか」
チャコというのはさっきまでここで喘いでいた女のことか、と真崎はその容姿を思い浮かべて、その不釣合いな愛称を笑った。
智耶子は長い手足を持った、スタイルのいい女だった。少しくらい飼われてもいいかと思ったのも、その大人っぽい雰囲気の所為だった。こんなおまけつきとは思わなかったが。
「そうね、そうでしょうね。でもね、私、藤川のそう言うところが駄目なんだ」
「駄目?どう言うところが?言ってくれれば直すよ。だからもう浮気なんかするなよ」
「だから、そう言うところ。盲目的って言うか……どうしてだろう。最初はすごく嬉しかったのに。なんだか頼りなく見えてきちゃって。それにこれ、浮気じゃないんだ」
浮気じゃないってことは、どういうことだ?とふっと考えた藤川の隙を見て、智耶子は部屋の中に戻った。
「ごめんなさい」
そう、苦笑する。真崎は別に、と笑った。
「チャコ、浮気じゃないって、どう言うことだ?」
床に散らばっていたワンピースを被りながら、智耶子は「本気ってことでしょう」と言った。
「本気って……?」
「あと半年契約のこっているけど、新しい部屋、探すわ。家賃はもちろん今までどおり払うから安心して」
「なんで……?」
「バランスの取れていない二人が一緒にいるのは不自然でしょ」
「何のバランス?」
「愛情の」
そこで智耶子は淋しそうに小さく笑った。それから、ハンドバッグを持って、戸口に突っ立ったままの藤川に近寄った。
「出て行くって言うのか?ここを?」
「正直私も淋しいの。だから、藤川が大学に行ってるときにでも荷物は運ぶわ」
智耶子がそう言って隣をすり抜けたところで、藤川が待てよっ、と叫んだ。それからふいに視線をずらすと、近くに立てかけてあったゴルフバッグのドライバーを引き抜いて両手に持った。そして突然それを懸命に折って見せようとした。細くても、しなやかな金属でできたそのドライバーを、空中に掲げてしならせる。
「チャコ、出て行くなよ。見て、折ってみせるから。これ、折ってみせる。俺、頼りなくなんかないって……」
「藤川」
「俺だって男だから。これぐらい……」
そう言って藤川は懸命にその細いドライバーを折ろうと腕に力を入れるが、しなりはしても折れることはなかった。
「ごめんね、私の我侭だよね。でも、私藤川と子供は作れないと思って」
「待ってよ、もう折れるから。きっと今に折れる」
藤川の必死の形相に構わず、智耶子はそのまま玄関口に向かうと、ベージュと赤のパンプスを履いて出て行った。
ぱたん、と扉が閉まる音とともに、ぐにゃっと藤川の持っていたドライバーが折れた。
「すげー。火事場の馬鹿力って奴か……」
真崎はズボンを履いて、シャツを羽織っただけの格好で、扉に寄りかかってその光景を見物していた。自分も当事者のはずなのに、まるで蚊帳の外だ。
「折角折れたのに、彼女見られなかったな……」
残念だな、という風に真崎は藤川の肩をぽんぽんっと叩いた。その藤川は、智耶子の出て行ったドアを見て、呆然としていた。
なんて可愛い生き物だろう、と真崎は思った。スポーツでもしているのか筋肉質な身体で、自分より身長は高く、だが、可愛い、と真崎は思った。ゴルフのドライバーなんて折って見せても、女は喜ばない。それなのに、必死でそんな馬鹿げたことをしようとするなど、可愛い以外の言葉はないと思った。この男の可愛い情けなさは、きっと女には理解できないだろう。男同士だからこそ、藤川のその行為を笑うことは出来ないのだ。
「なあ、彼女が引っ越すならさ」
真崎はまだ呆然としたままの藤川に声をかけた。女なんかやめちまえ、と心の中で思う。
「俺がここに住んでもいい?」
言ったところで、ようやく反応があった。
「おまえ、なんでまだいるんだよ」
「家賃、必要なら入れるし。あ、共用スペースでは禁煙は守る」
「馬鹿なこと言ってないで、帰れよ」
「ない」
「は?」
「帰る場所、ないんだ。それで、さっきの彼女に拾ってもらったんだけど」
だから、今晩も泊めさせてもらいたい、と言うと、藤川の顔が見る間に赤くなった。
「おまえ、よく平気でそういうこと言うな。人の彼女」
その先の言葉は言うのも嫌なのか、藤川はそこで言葉を切ってわなわなと震えた。
「さっき彼女が言ってたじゃないか。俺は誘われただけで」
「わかってるよっ」
チャコは誘われてふらふらするような女じゃない、と自分の傷を抉るようなことを叫んで、藤川はずっと握り締めたままだったドライバーを床に投げ捨てた。
「危ないぞ、こんなところに放り出しておいたら。なあ、殴りたいなら、殴ってもいいからさ、俺をここに置いてよ」
「どこの馬鹿が彼女の浮気相手に情けをかけるんだよ」
「浮気じゃないって言ってたじゃないか」
「本気だって?おまえもそうなのか?」
俺?まさか、と真崎が笑うと、藤川はますます機嫌を悪くしたようだった。
「俺は別に好きな人がいるからね」
「それなのに、チャコと、チャコと……」
「さっきまではいなかったんだよ。出来たの、ついさっき」
それより腹減った、と真崎はキッチンに向かった。まるで業務用のような銀色の、横に扉が並んだ冷蔵庫を開けると、その中身を吟味し始めた。
「なんだよ、外見に反してたいしたもんが入ってないな」
「俺もチャコも料理は苦手なんだ」
「俺は好きだし得意だよ。な、お買い得」
「何が」
「だから、俺にしろよ」
ごそごそと冷蔵庫からキャベツと卵を取り出すと、お好み焼きとかいいな、と真崎は言いながら、今度は戸棚を漁り始めた。
「……何が?」
「だからさ、あの女なんてやめて、俺にしな」
そう笑いながら真崎が振り返ると、藤川は思い切り眉根をよせていた。
「惚れたんだ」
「誰に?」
「おまえに」
「……誰が?」
「俺が」
藤川の動きが止まって、真崎はやれやれと思いながら、また戸棚の中をごそごそと漁った。冷蔵庫に肉類はなく、冷凍庫はアイスに溢れていた。それでも小麦粉と桜海老を見つけた真崎は、やはりお好み焼きを作ろう、と思った。
「俺、馬鹿は嫌いだ」
ようやく藤川は口を開いて、そう言った。
「なあ、だしは?」
「ない」
「ない?味噌汁とかどうやって作るんだよ」
「作らない。それより、俺の話を聞け」
藤川の硬い声など気にもせず、もう一度冷蔵庫をのぞいた真崎は、そこにチーズとキムチを見つけて、それで我慢しよう、と思った。「だし」もない生活を二人で送るなんて、そっちこそ馬鹿だろう、と心中で悪態をつく。
「馬鹿は嫌い?」
「そう、わけのわからない奴は嫌いだ」
「彼氏と住んでる部屋に男連れ込む女は好きでも?」
言った途端何かが飛んできて、真崎はそれを思わず避けた。台所のシンクの前に立っていた真崎の後ろは、小さな窓だ。がしゃんっと派手な音が響いて、ガラスが割れた。
「チャコの悪口言うなっ」
後ろを振り返ると、見事にガラスが飛び散っている。秋口とは言っても、もう夜は冷えるのに、やっぱりこいつは馬鹿だ、と真崎はため息を吐いた。
「よりにもよってガラスが割れるようなもんを投げるなよ。どうするんだ」
「人の話を聞けって」
「話なんかしてないじゃないか。あーあ、まずはこれを片付けないとな」
掃除機は?と聞くと、無言で細長い扉を指差された。真崎はそこから掃除機を取り出して、大きなガラスの破片だけを用心深く集めると、残りをその掃除機で吸い取った。念のために床もみんな掃除機をかけて、一息ついたところで顔を上げると、藤川は先刻から変わらぬままの姿勢でじっと立っていた。
「ダンボールとかないのか?」
話し掛けると、不機嫌なままの声が返ってくる。それがまた苦笑を誘って、真崎は思わず俯いて小さく微笑んだ。
「何するんだよ」
「窓、このままじゃ寒いだろ。なかったら新聞でもなんでもいいから、後ろから貼り付けろよ」
「新聞はとってない」
「なんでもいいよ、風さえ通さなければ」
そう言って真崎がキャベツに取り掛かり始めると、藤川は諦めたのか自分の部屋に行って何やらビニールのようなものを持ってきた。
「パーカー持ってきてどうするんだよ。それだったら、ゴミ袋を重ねろ。ガムテープは?」
また無言で指差されて、真崎は仕方なしにため息をつくと、そこからガムテープを取り出して、ついでにゴミ袋も何枚か引っ張り出すと、藤川に渡した。
「俺は飯作るから、おまえはそれで窓を補強しろ」
「飯、何?」
「お好み焼き。あ、ソースあるだろうな?」
「ある」
藤川はそれだけ答えて、玄関に向かった。真崎はやれやれと、キャベツの千切りに専念することにした。
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