home モドル 01 * 03


君を愛する理由(わけ)などいらない。

02
「何してるのよ」
 玄関があいて、誰かが入ってきたのがわかった真崎が振り返ると、智耶子が立っていた。まだ朝の早い、新鮮な空気が、淀んだ夜の空気に少し溶け込んだ。
「コーヒー淹れてる。飲む?」
「頂くわ」
 そう言えば、真崎は自分が拾ったのだ、と智耶子は思い出して、垂らしたままの長い髪をかきあげた。足元を見ると、部屋中に空き缶や空き瓶が散乱していた。
「飲んだの?」
「そう、夜明けまでね」
 ふわりとあくびをしながら、コーヒーカップを二つ手に持った真崎が足でその空き缶などを避けた。あくびの仕方が色っぽい男を、初めて見たと智耶子は思った。
「それで?これは?」
 そう言って智耶子がテーブルに置いたのは、外の廊下で拾った細長く四角い銀色の胡椒挽きだった。昨晩投げられたのはこれだったのかと真崎は納得した。「だし」もない家に、必要とは思えない胡椒挽きだった。
「智耶子サンの悪口言ったら、投げられた」
 真崎の言葉に、智耶子はふっと笑った。
「それはあなたが悪いわ。禁句よ。私だって言えないんだから」
 本人だって許さない、と藤川は真面目に言うのだ。
「聖域なんだ」
「そう、聖域」
 智耶子の笑顔に、真崎はふーんとコーヒーを啜った。コーヒーと紅茶だけは―――それから酒類―――本格的なものが揃っていて、真崎は朝から豆を挽いてコーヒーを淹れたのだった。
「それなのに、振っちゃうんだ」
 コーヒーを一口啜ってから、空気が悪い、と智耶子は立ち上がって窓を開けた。まだ寒いが、酒と煙草の匂いが篭っていた。自分から出て行ったのにも関わらず、一人のけ者にされた気分だった。自分だって、淋しかったのだと思う。
「智耶子サンはどこに行ってたの?」
 答えない智耶子に、真崎がたいして興味がなさそうに聞く。朝帰りにしては、すっきりと綺麗な格好を智耶子はしていた。
「エステに行って、ホテルに泊まったの」
 エステね、と真崎は思わぬ言葉に片眉を上げた。男を振ってエステに行く。やっぱり女はわからない、と真崎は思った。
「それで?帰ってきちゃったんだ」
 昨日は出て行くといっていたのに、とは付け加えずに真崎が言うと、智耶子は眺めていた外から室内に視線を戻した。
「なんだか含むのね。それに、さっきから智耶子サンって、どうして急にさん付けになったの。それもカタカナで言ってるでしょう」
「すごいな。そんなことわかるの」
「敬意が込められているかいないかなんて、わかるでしょ」
 智耶子はそう言って、テーブルに戻ると白くぽってりとしたコーヒーカップを両手で包んだ。これも、持っていこう、と思う。本当は、智耶子だってここから出て行きたいわけではないのだ。でも、そんな残酷なことは出来ないと思う。
 智耶子の答えに、なるほどね、と真崎が片方の口角だけを上げて笑った。そう言う表情が似合うところに、女は惹かれ、男は手を出すのかもしれない、と智耶子は思った。
「それで?どうして?」
「ライバルになったから」
「……誰と誰が?」
「智耶子サンと俺が」
 真崎は今度はにっこりと笑った。整った顔が綻びるその効果を、良く知った笑い方だった。智耶子はこくりとコーヒーを飲んだ。それがいつもより濃い目であることに、そのときになってようやく気付いた。
「智耶子サンの後に俺引っ越してくるよ。だから家賃も払わなくていいよ」
「好きなの?」
「藤川?ああ。あの後、あいつ本当にゴルフドライバー折ったんだ」
 真崎が指を指した先には、確かにくにゃりと曲がったドライバーが転がっていた。人からの預かり物なのに、どうするつもりだろう、と智耶子は思った。
「それで?好きになったって言うの?」
「そう。惚れた」
 真崎が少し恥ずかしそうに微笑んで、智耶子は呆気に取られた。真崎のこんな表情を見たこともなければ、想像さえしたことがなかったのだ。きっと、大学中の誰も、こんな真崎は知らないだろう。
「だから、ライバル」
「でも、私はあなたが好きなのよ?」
 思わず口を出た言葉に、智耶子自身が驚いた。ずるい、と思った。こんなにぽろぽろと今になって知らない表情をして見せて、誰かを好きになった何て言うとは。
「気まぐれで拾っただけだろう?」
 真崎はそう笑ったが、智耶子は上手く笑えなかった。確かに、最初は藤川と別れるきっかけを作ろうと思っていたのに、どうして今になってこんな気持ちになるのか、わからなかった。寝起きのぼさぼさの髪に、はにかむような顔が似合いすぎている所為なのかもしれない。そう良い聞かせてみせもしたが、わからなかった。掌の中のコーヒーカップが、冷めてきていた。
「私たちの話、聞かなかった?」
「聞かされた」
 憮然とした表情で真崎が言う。
 高校から一緒で、告白するまで二年かかったこと。高嶺の花だと思っていた智耶子から承諾の返事を貰ったときは、嬉しくて眠れなかったこと。初デートの日に、緊張しすぎて結局何もせずに二人で公園のベンチにただ黙って坐っていたこと。同じ大学に入って、同棲を始めたときは死んでもいいと思ったこと。そのときから、今でも、どれだけ智耶子を好きか。
 告白をした相手に向かって、延々と前の彼女との馴れ初めから同棲生活のことまで話して聞かせるなんて、無神経もいいところだと真崎は思っていた。でも、酔っ払いながらぽつぽつと話す藤川を、愛しいとも思った。真っ直ぐで、痛々しいほど純粋な気持ち。
「幸せなことしかなかった」
 付き合い始めてから三年半のことを、藤川はそう言っていた。つらいことなんて、何一つなかったんだ、本当に。
 まるで、セックスをしていたとは信じられない、と真崎は思った。それほど藤川の気持ちは純粋で、欲望が感じられなかった。
「してたわよ、もちろん」
 智耶子はそう言って笑った。セックスの相性が悪かったわけでもない。でも、この人と子供は作れない、と智耶子は確信していた。それは、作りたいと思わない、というより、避妊などしなくても出来ないのではないかという思いだった。
「それで?その藤川は?」
「寝てる」
 そう真崎が指差した先を見て、智耶子はまた笑った。
「どれだけ眠くても、絶対ベッドまで這っていくのよね、藤川って」
 それがすでに懐かしそうに響いて、智耶子は自分のその声にどきりとした。
 開け放した窓から風が吹き込んで、部屋に転がっていた空き缶がからりと音を立てた。


「本当に引っ越してくるとは思わなかった」
 もはや呆気に取られた顔をした藤川を尻目に、真崎は数少ない自分の荷物を部屋に運んだ。今まで、他人の家を泊まり歩いていた真崎には、布団さえない。
 智耶子は宣言通り、藤川が大学に行っている間に引越しを住ませていた。もともと老舗料理屋の一人娘の智耶子は、お金に困ることはなかった。
 がらんとした部屋で、ぼんやりと立っていた藤川を発見したのは真崎だ。智耶子から鍵を貰って行ってみると、ぽつりと本当に淋しそうに、そこに立っていた。
「なんでだろう」
 近づくと、そう何度も呟いているのが分った。それを見て、真崎はやはり絶対に自分がここに越してくるのだと決めたのだ。あれほど淋しそうな人の姿は見たことがない。
「荷物、これだけ?布団は?」
「後もう少し、今日捕まらなかった奴らの部屋に服とかCDが置いてある。布団はない」
「どうやって寝るんだよ」
 あっちで、と隣の部屋と繋がっている壁を指差すと、藤川が冗談じゃない、と言った。
「だってダブルベッドじゃないか」
 智耶子の部屋にもベッドはあったのだが、最初から同居が決まっていた藤川は、ダブルベッドを奮発して買ったのだ。
「嫌だよ、明日にでも布団買って来いよ」
「今日は?」
「床で寝れば?」
 藤川は智耶子以外には容赦がない。まったく、と真崎はため息をついた。
「別に襲ったりしないからさ、いいじゃん」
「襲うって……」
 ずっと後ろに下がりかけた藤川に苦笑しながら、真崎は再びため息をついた。
「忘れた、とか言う?俺は酔う前に言ったぞ」
「言ったけど、あれ、からかったんだと思ってた」
 じゃなかったら馬鹿にしていたとか、と言った藤川に、真崎は不服そうに片眉を上げた。
「人の純情を疑わないでくれ」
「え、じゃあ……」
「だから、襲いはしないって」
 再び逃げ腰になった藤川に、真崎はにやりと笑いながら近づいた。
「俺ね、男相手はネコ専門なんだ」
「ネコ?」
「そ、突っ込むより突っ込まれたい」
 そう囁いて、ぐっと股間を握ると、藤川がぎょっとした顔をした。
「ばっ何して」
「これをね、入れたいほうなんだよ」
 だから襲い掛かって突っ込んだりしないから、と真崎が言って手を離すと、藤川はそのばにへなへなと坐り込んでしまった。
 真崎は、さあ夕飯の準備をしよう、と言いながら、ちょっとまずったかな、と思っていた。布越しとは言え、触れてしまったものを想像せずにはいられない。知らぬうちに、ぺろりと唇を舐めていた。すぐ隣で、自分の好きな人間が眠っているのだ。襲い掛かって突っ込むことはなくとも、無理やり突っ込ませるようなことになるかもしれない、とため息を吐いた。


home モドル  01 * 03