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―少年性恋愛症―
50パーセント中毒

前 編


 噂なんてものは、信じるに足らないと思っていた。
 栄(さかえ)はその噂を耳にするたびに、馬鹿らしい、放っておけばいいのに、と思ったものだった。人の趣向をどうこう言っても仕方がない。ただそれが、少なからず好奇心の対象になっていることは否定できなかった。
 冬の放課後の教室は、暖房を切ってしまうとどんどん冷えていき、終いにはコートを羽織らないといられないくらいになる。屋内なのに吐く息が白くて、栄はその白さに心奪われていた。
 秀(しゅう)は、暗くなった教室で、電気もつけずにぼんやりと外を眺めていた。教室の窓際には背丈の低いロッカーがあり、秀はその上に足を投げ出して座っていて、じっと、動かないでいる。
「風邪ひくぞ」
 栄が戸口でそう言うと、秀がゆっくりと顔を栄のほうに向けた。聞こえたのか、わからない。秀は何も答えなかった。
 栄は自分の席に行って鞄を持つと、一瞬躊躇しながらも、秀のコートを持ってきて投げかけた。突然のその行動に、今度は秀も驚いたように栄を見る。栄は余計なことをしたかもしれないと照れながら、風邪ひくって、ともう一度言った。開きかけた唇が、何の音も発せられないまま閉じられる。白い息だけが、ふわりと漂った。
 秀はもぞもぞと動きながら、コートを着て、膝を抱えた。それから、外を見たまま、ありがとう、と呟いた。栄は声を出さずに笑って、窓際に近寄った。ロッカーに手をつくと、空を見る。冬の空は、痛いくらいに澄んでいる。
 二人はしばらくそんな風に空を見ていた。静かな校内は、どこか栄の知らない場所のようだった。目の前の中庭に目を移すと、月明かりに青白く光っている。そのまま視線を横に移すと、同じように青白い、秀が見えた。秀の視線はゆるぎなく、どこかをじっと見つめている。
 ふと視線が合って、栄はどきりとする。それを知られたくなくて、「帰るわ」と言うと、くるりと体の向きを変えてドアへと歩き出した。秀は答えることなく、また視線を外に向けた。かりっと、爪を噛む音がした。栄は立ち止まり、眉根を寄せて秀を見た。親指を、きつく噛んでいる横顔が見える。栄は突き上げてくる衝動が抑えられずに、がたがたと音を立てて机と椅子の間を縫い、秀の傍らに立った。秀は、動かない。栄の方を、見ることもしない。
 栄は、囁かれる噂を思い出しつづけていた。近江秀は、男と寝る。やったと言う先輩の話は細部に渡っていて、それがどこからか、漏れ聞こえてきていた。
 ――いい声で、泣くんだよ。
 やめろと、どこかで叫んでいる気がしたのに、栄はあっさりとそれを切り捨てた。自分のほうを見もしない秀の腕を掴んで、ロッカーから引きずりおろす。突然のことに驚きながら、秀は抵抗したが、栄のほうが大きく、運動をしている分、腕力もあった。
「堤っ」
 呼ばれて、栄は動きを止めた。それでも、床に押し倒した秀の両腕を、離すことはしなかった。二人の白い息が、混じり合う。見つめられて、栄はその視線を逸らした。
「男なら誰とだってやるんだろう? ……俺にもやらせろよ」
 信じてなどいないはずだったのに。今だって、信じてはいない。そんな噂を、栄は本気になどしたことはなかった。それでも今は、それを理由にしている。それを、逃げ場にしている。
 これが、全ての間違いだったのだと後で思ってみても、仕方のないことだった。こんな激情が、自分にもあるのだと、栄は知らずにいた。
「抱かせろよ」
 呟いて、ネクタイで手首を締める。その呟きは、どこか哀願するような響きを帯びていて、栄も秀も驚いた。
 ただ互いの白い息だけが混じり合って、流れていく。苦痛な表情をしながら、秀は目を瞑り、唇をきつく噛んでいる。栄は、ただただ、自分のこの激情を早く鎮めたくて、がむしゃらに秀を抱いた。
 栄だけが果てた後、傷ついた目をしていたのは、栄のほうだった。栄はのろのろと立ち上がって、悪かった、と呟いた。全てが月明かりの下で、静かに二人を見ているようだった。栄は鞄を持つと、秀をじっと見つめた。ほの暗い教室の中で、ぎりぎりわかる、その距離で。
「思ったことないんだ。本当に、あんなこと思ったことはないんだ」
 栄のその声は、許しを請うわけでも、言い訳がましくもなく、ただ静かに、教室にこだました。
 雪になりそうなほど寒い夜だった。あの日も、確かに寒かったけれど、外は夏だったはずだ。白いシャツ、うっそうと茂る木々のざわめき、目を背けたくなるような、烈しい光。覚えているのは、それだけだ。
 秀は床に座ったまま、膝を抱えて腕を掴む。じっと見つめる先には、机と椅子の足の大群。そうだ。ゆらゆらと揺れ動くその足たちも、覚えている。揺れていたのは自分で、彼らではないけれど。
 獰猛な、野獣のようだった。同じ男だと言うのに、振り解けない腕。泣くことは、決してしなかったけれど、結局最後まで、抵抗し切れなかった。
 馬鹿な奴だと、秀は思う。
 何度も何度も、誘ったのはおまえだなどと言って、自分の行為を正当化して。
 でも、卑怯でずるがしこい奴だった。
 誰にも言う気などないと言うのに、勝手に怯えて、嘘の噂を撒き散らすほどに。
 ――近江秀は、男に抱かれる。援交もしていて、男とあればかまわず尻をふるそうだ。
 あれから一度だって、男になど抱かれなかった。でも、噂だけが一人歩きをして、値踏みするような輩まで出てきていた。愚かだったのは、自分かもしれない。声を上げて否定も出来ずにいた、近江秀だったのかもしれない。
 秀は、自分の腕を撫で上げて、二の腕あたりでまたコートをきゅっと握った。
 堤 栄だけは、いつも変わらなかった。噂の前も、後も。それほど親しかったわけではないが、自分を見る目も、視線も、何もかも変わらずにいた。
 秀には、彼を責める気はなかった。
 信じているのは、このコートの暖かさと、最後の言葉だけだ。あの目は、確かに自分を見ていた。

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