home モドル * 後編
未来永劫 前編
出会ってしまった。
ただ、そう言うことなのだと思う。
会社から出て息を吐くと、白く舞った。武紀(たけのり)は、首を竦めるようにして歩き出す。雪でも降りそうな寒さだ。ここ数日の深夜帰りのおかげで疲れた身体に、堪える寒さだった。
歩きながら、携帯電話を取り出してアドレスの一番上の番号を表示させる。かじかむ手を気にしつつも、その番号に電話を掛けた。
ここのところ、すっかり習慣のようになっている。おかげで、ボタンを押すときの面倒さに手袋をしなくなった。
――ばっかじゃねーの。
手袋をしていないのは、もったいないからでもある。そう言ったら、あの子はきっといつもの口癖を言うだろう。顔を赤くしながら。
――贈った意味ねーっての。
それから、そう拗ねるだろう。あの冷たく動かない表情を見て、感情を読み取ることを覚えたのはごく最近のことだ。それもときには、読み違えたりもする。
『はい』
ひんやりと冷たい携帯電話から、同じように冷たい声がした。一体友人達にもこの調子なのかと心配したこともあったが、どうやら友人やクラスメートには、もう少し愛想の良い声を出すらしい。たまたま傍にいるときに、クラスメートから電話があったことがあったが、聞こえてくる明るい声に嫉妬するかと思ったことがある。
「よお。寒いな」
電話での世間話に、一史(かずふみ)が乗ることはない。だが、きちんと聞いていることを武紀は知っていた。時計をちらりと見る。もうすぐ七時になるところだった。
「そっちは飯の最中か?だったらまたかけるけど」
言うと、沈黙が流れた。言葉数は多くないが、応答は速い一史だ。武紀が首を傾げたところで、食べてるって言うか、と声が聞こえてきた。
「そろそろ食べようかなってとこ」
一史のその答えに、武紀は足を止めた。無理やり電話を肩と耳で挟んで、鞄の中から定期を取り出す。
「食べようかなってとこ?」
引っ掛かりを感じて繰り返してみたが、一史は何も言わない。鞄を適当に閉じて、電話をまたちゃんと手で持つと、武紀は改札を通った。
「食べようかなって……あれ?お袋と修史さんは?」
ようやく違和感に気付いて言うと、一史からは「いない」という簡潔な返事のみが返ってきた。
「いないって……それを早く言えよ!なんで?」
登りかけた階段で向きを変えて降りる。自分の家とは反対方向の一史の家に向かおうと、いつもとは逆のホームへ歩き出した。
「いや、親父が出張で。季絵さんついてったから」
「出張?どこに?」
「大阪」
武紀は京都好きの自分の母親を思い浮かべた。それは、嬉々としてついていったことだろう。ついでに、二年前に再婚した二人は子供から見ても辟易するくらい仲が良い。
かずふみー、と情けない声を出したら、「なに?」といつもの冷たい声が返ってきた。
「いつから行ってんの?それで、いつまで行ってんの?」
「昨日。帰ってくるのは、明日の夜、だったかな」
ホームに着いたところで、武紀は大きなため息を吐いた。
「そう言うことは早く言えよなー。つーか、お袋も連絡してこいってんだ」
昨日の夜電話したときは、何も言っていなかった。その時点で言ってくれれば、昨晩だって部屋に行ったのに。
武紀は今度は隠れてため息を吐いた。
「別に良いって俺が言ったんだよ。子供じゃないんだし」
そうじゃないだろう、と思いながら武紀は目を閉じた。轟音がして、電車が到着した。
「このままそっち行くから。飯は途中で買う。何か食べたいものとかある?」
別に、と素っ気無い声がした。それじゃあ、と言えば、うん、と切れる。
武紀は電車に乗って、奥の扉に向かった。帰宅ラッシュからは少しずれているが、空いている席はない。いつものように角になっている所に落ち着いて、扉に寄りかかった。
子供とか子供じゃないとか、関係がない。せっかく二人きりで夜を過ごせるのだ。だが、兄弟以外の関係についての自覚を求めると、一史は途端に泣きそうな顔をする。いや、兄弟と言う関係を強調しても、同じ顔をするか……。武紀はこつりと頭をガラスに預けた。けばけばしい看板のネオンがガラス越しに流れていくのが見えた。
兄弟と言っても、二人に血の繋がりはない。二年前までは、他人だったのだ。それが親の再婚で家族となり、紆余曲折を経て、半年前に恋人になった。もちろん、親の知らぬところで。
――おまえ、平気なのか?
大学時代の友人で、武紀の性癖を知っていた長谷部は、再婚の話をしたときにそうニヤニヤと笑った。そのとき、武紀はこう答えた。
――高校入ったばっかりのガキだぞ?趣味じゃないっての。
へーきへーき、と笑った自分を今は笑いたい気分だ。そのガキに惚れて、どうにもならなくなって、手を出して――苦しめて。まったくの馬鹿だ。
二駅ほど乗って、武紀は電車を降りた。それだけ近いのだから一緒に住めばいいのに、と義父となった修史も母親も言ったが、武紀はもう社会人だからとやんわりと断った。今になっては、それが救いだった。一緒に住んでいたら、今ごろひどいことになっていたかもしれない。
駅から十分ほどの距離をざくざくと歩く。途中のコンビニエンス・ストアでビールとおでん、おにぎりを買った。確かこれを好きだと言っていたはず、と小さなカップのアイスも忘れない。クッキー入りなんて、なかなかスタンダードなものを好きだと思ったものだ。
コンビニを出て少し歩いたところの角を曲がると、武紀はいつも少し立ち止まって、マンションを見上げる。それは決して、高層マンションではないというのに。
今の両親が再婚の際に買ったマンションは、なかなか立派なものだった。大きいわけではないが、瀟洒な作りではある。マンション周りに緑を配し、広いエントランスはいつも管理人に綺麗に磨かれていた。その十階建てマンションの最上階を簡単に手に入れられるだけの財力が、修史にはある。ただのスーパー勤めをしていた母親が、どうしてそんな修史と知り合ったのか、武紀には不思議でならない。
滅多に使わないが常に持ち歩いている鍵で、エントランスを開ける。少し不審そうな顔をしている管理人にぺこりと会釈をして、その前を通り抜けた。住人ではないのに鍵を持っている――エレベーターに乗りながら、彼は自分の顔を思い出すだろうか、と考えた。
二年の間、ここを訪れた回数は両手で足りる。酷いときは、半年近くここに来なかった。母親が心配したように、新しい父親が鬱陶しかったわけではない。一史と会うのが怖かったのだ。
ちゃりちゃりと鍵を手の中で弄びながら、一、二、三階と昇っていく小さな明かりをぼんやりと見つめた。
一史と家族でいたいのか、いたくないのか、わからない。少なくとも社会に出て色々見たはずの自分がそうなのだから、まだ高校生の一史が悩んでもおかしくない。
なんだって、と武紀は小さなため息を零した。
なんだって、こんな形で出会ってしまったのだろう。
かちゃかちゃとドアの鍵を開けて部屋に入ると、リビングから一史が出てきた。
「よお」
靴を脱ぎながら顔と片手をあげる。一史は何も言わずに、ちらりとビニールの袋を見た。
お互い、どんな挨拶をすべきなのか、いつも困る。ただいまだとか、お邪魔しますと言うのはおかしいと武紀も思っているし、一史もそう言った言葉で迎えるのはどこか変だと思っているらしい。一番便利なのは「久しぶり」という言葉なのだが――その言葉を言わなければならないほど会えないのはごめんだと、武紀は思っていた。
「おでんとおにぎり。あ、アイスも買ってきた」
袋を渡されて、一史が中を覗く。眉根が僅かに寄ったのが見えて、武紀は一緒に中を覗き込んだ。
「なに?嫌いだった?」
「違う。これ、ぜってーアイス溶けてる」
そろりと持ち上げられたアイスは、ビールと共に別の袋に入っていた。だが、武紀はそんなことは頓着せずに、二つを一緒に持っていたのだ。不運なことに、アイスとおでんが袋越しに隣り合っていたようだった。
一史はそれ以上は何も言わずに、袋を持ってキッチンに向かった。アイスはそのまま、冷凍庫に入れられる。武紀がコートを脱いでいると、「おでんとおにぎり、温める?」と一史が言った。
「風呂も沸いてるけど」
付け足された言葉に、武紀の頬が緩んだ。電話で開口一番寒いと訴えたことに対する返事なのだろう。
「実はもの凄く腹減ってるんだよな。だから先に食べる。そのままでいいよ」
スーツの上着も脱いで、ネクタイも外した武紀がリビングと続いているキッチンに行くと、一史が鍋からビーフシチューを皿に盛っているところだった。
「あれ、まだ食べてなかったのか」
まだ袋に入ったままのおでんとおにぎり、ビールを持つ。一史は何も言わずに、皿とパンを持ってその横を通りすぎた。途中で、冷蔵庫から生クリームを取り出してシチューに垂らし、小皿二枚とスプーンを持つ。
「グラス、自分で持って来いよ」
言われて、武紀はグラスを出した。義父はきっと、必ずグラスでビールを飲むのだろう。ここにいるときは、なるべくこの家の習慣に従おうと武紀は思っていた。
食卓につくと、小皿が置いてあった。芥子まで隣にあって、武紀は口元を緩めた。
「おでんの具、何が好きなんだっけ?餅巾着あるけど、食べる?」
訊くと、頷かれた。小皿にたっぷりと汁を吸った巾着を乗せると、ありがとう、と呟きが聞こえた。テレビからは大きな作り物の笑い声が聞こえてくる。呟きの余韻がそこに消えてしまうのが惜しい、と武紀は思ったが、テレビをつけて食事をするのは一史の習慣だとわかっていたから、リモコンをちらりと見ただけだった。
一史だけではない。自分だって、同じ習慣がある。働くのに必死だった母親と夕食をとることは、滅多になかった。そもそも一人で家にいることが普通で、テレビは常につけていることが多かった。
ビールをグラスに注ぐ。ごくごくとそれを飲みながら、家で誰かと食事をするのは、随分久しぶりなのだと思った。
「うまい?」
そっと餅巾着を齧った一史に訊くと、もぐもぐと食べながら頷いた。一瞬照れたようにその目が泳いだ気がして、武紀は満足そうに微笑んだ。
「誰かと飯を食うのって、やっぱいいよな」
返って来た小皿にちくわぶを乗せて、武紀は独り言のように呟いた。一史は何も言わずに、ビーフシチューを食べ始めた。
一史が何も言わないときは、答えたくないのか、答えを持たないのか、武紀にはわからない。多分こうだろうな、と思うことはあっても、それが本当なのかどうか、確かめる術がない。訊く勇気もない。
スプーンがつるりと出てくる唇を眺めて、武紀は半年前のことを思い出した。
ぐっときつく噛まれた唇。まっすぐな目。きつくきつく握られた手。あのとき、一史は答えを持っていたのだろうか。
好きだと言った、自分の言葉に対して。
伸ばした手は、拒まれなかった。口付けると、血の味がした。唇を舐めると、背中に回った手に力が入った。でも、一史の口からは、けっして言葉は零れなかった。
「冷めるよ。腹減ってたんじゃねーの?」
ぼんやりと唇を眺めている武紀を責めるような声がした。武紀はうんと頷いて、玉子をぱかりと半分に割った。
「お腹も空いてるけど、今はなんか、一史を食べたくて仕方ない」
正直な気持ちを言うと、一史の眉がぐぐっと寄った。武紀が見ている限りでは、顔の中ではそこの筋肉が一番使われているのではないかと思う。
「ばかじゃねーの」
言ってから、一史はばくばくとパンを食べる。さらりと真っ直ぐな髪の間に見える耳の先が赤いことは、絶対に言ってはならない。でも、ゆるりと表情が崩れてしまうのは、許して欲しいと武紀は思う。
テレビはいつの間にか、ニュースに変わっていた。まだまだ寒い日が続くようだと、アナウンサーが言っている。
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