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未来永劫 後編


 先に食べ終わった一史は、さっさと片付けてアイスを持ってきた。酒を飲む大人と言うのは、どうしてこうものんびりと食べるものなのだろう。一史は父親を思い出して、武紀も立派にその大人に分類されるのだと思った。
「溶けてる?」
「周りがちょっと溶けてたみたいだけど」
 一史は、袋に一緒に入っていた木のスプーンをアイスに突き刺した。少しかためだから、本当はちょっと溶けたくらいでもいいのかもしれない。ぱくりと食べると、武紀が「うまい?」と微笑んだ。
 一史は「ん」とだけ答えて、テレビに視線を移す。義兄のそういう顔が、苦手なのだ。
 本人が食べているわけでもないのに、なんだかひどく幸せそうな顔が。
 だいたい、クッキー入りのアイスが好きだと言った覚えが、一史にはなかった。それなのに、どうして自分が一番好きなものを買ってくるのだろう。スプーンをぐっと噛んだ途端、一史はふと思い出した。
 好きだと言ったことはない。だが、買ってもらったことがある。初めて抱き合った後にぐったりとしていた一史のリクエストが、このアイスだった。痛い思いをした腹いせに、値段が高目のメーカーを指定した。
 武紀は驚くほど、一史の好みを覚えている。決して言わなくても、好きなものや嫌いなものを探り当てて記憶している。
 一史はぼうっとテレビを見ながらアイスを掬い上げた。テレビでは政治家の一人が何やら不機嫌そうな顔で記者たちの質問に答えている。そんなニュースに興味があるわけではなかったが、一史は視線の置き場に困っていた。
 掬い上げたアイスを食べようとしたら、手首が急に握られて持っていかれる。驚いて顔を動かしたら、武紀がぱくりと美味しそうにアイスを口に含んだところだった。掴まれたままの手首を引くと、それは思ったよりあっさりと一史のもとに戻って来た。
「食べたいわけ?」
 訊くと、ふるふると首を振られた。これで十分、と笑う。
 一史はぐるりとアイスを抉り取って食べる。空気が甘くなった気がした。
 いたたまれない。
 一史は、困惑するほどに、いつもそう思う。目の前にいるのは兄なのか恋人なのか――本当はそのどちらでもあることに、いたたまれないような気持ちになる。
 最後の一口を口に入れたところで、また手首を掴まれた。そのまま引っ張られて、スプーンを口に咥えたまま離すと、武紀にくすりと笑われた。反対側の手が、そのスプーンを取る。武紀が望むことなど、一史だってわかっていた。
 唇が重なって、口の中を散々に掻き回される。一史は掴まれていない左手で、肩を押し上げて抵抗した。
「やだ。嫌だって――っん」
 足もばたつかせる。多分最初から本気ではない武紀は、最後に唇を一舐めして、身体を起こした。
「部屋ならいい?」
 訊かれて、一史は立ち上がる。
「シャワー浴びてくる」
 ぐいっと唇を拭って、一史はそう言った。


 風呂から上がった一史は、自分の部屋に直行した。多分武紀は風呂に入ってから来るだろう。それまでに宿題でもやっておこうと思った。
 頭からタオルを被ったまま机に向かったところで、ノックの音が響いた。なに?とぶっきらぼうに言うと、「開けるよー」という呑気な声と共にかちゃりとドアが開いた。
「やっぱり。髪は乾かさないと駄目だって言ってるのに。風邪引くよ?」
 遠慮なく入ってきた武紀にがしがしと頭を拭かれて、一史は「わかった、わかった」と立ち上がった。
「この間、うっかり髪を乾かさずに寝たら風邪ひいてさー。やっぱり冬場はちゃんと乾かさないと……」
 洗面所に向かう一史の後ろを、武紀がそう言いながら付いてくる。思わず振り返ったら、武紀はなに?とでも言うように首を傾げた。
 一史は何も言わずに、洗面所に入っていく。戸棚からドライヤーを出してコンセントを差し入れてようやく、武紀は安心したようだった。かちゃかちゃとベルトを外す音がする。一史はその音に重ねるように、ドライヤーのスイッチを入れた。
 風邪を引いたなんて、聞いていない。ほとんど毎晩のように武紀から電話が掛かって来るのに、そんなことを言われたことはない。気付きも、しなかった。
 武紀はすぐに「元気ないな」とか「何かあった?」とか聞いてくる。自分の方がずっと言葉が少ないのに、と一史はため息を吐いた。
 ばさばさと髪を掻き揚げながら乾かしていると、かちゃりと後ろの扉が開いて、目の前の鏡が曇った。いくらなんでも早すぎる、と振り返ると、にっこりと笑った武紀の顔が覗いていた。
「なあ、一緒に入る?」
 あまりのことに、一史は一瞬言葉を失った。
「ばかじゃねーの」
 しみじみ言うと、武紀がくくくっと楽しそうに笑って、「ちゃんと乾かして、ベッドの上で待っててねー」と言いながら扉を閉めた。
 ときどき、武紀は救いようがない、と思う。


 一史が武紀の言うことを聞くはずがなく。風呂から武紀があがってきたとき、一史はやはり机に向かっていた。
 それを咎めることなどもちろんせず、武紀は後ろから覗き込みながら、邪魔とも手伝いとも言えるちょっかいを出していた。
「ん……」
 武紀みたいな大人をずるいと一史が思うときは、いつの間にか、雰囲気が出来上がってしまっているときだ。さっきまで英語の訳の宿題をしていて、武紀も助けてくれていたはずなのに、いつのまにかベッドの上で重なり合っている。絡まる舌も押し付けあっている下半身も熱くて、一史は喘ぐように喉をそらした。
「あのさ、ちょっと気になってたんだけど」
 その喉元を舐め上げながら、武紀が囁いた。
「一史って、一人でするとき、ちゃんと俺で抜いてる?」
 ちゅ、と音が耳に響いた。一史は思わず、ぺちりとその頭を叩いた。
「あほか」
 内容も内容なら、声も表情も真剣なところが呆れてしまう。すっかり身体が冷えた気がして、一史はため息を吐いた。
「うーん。してるのか。そうか」
 武紀は一人納得したように頷いた。
「あのさ。俺、何も答えてないけど」
 言ったとしたら反射的に出た言葉だけだ。それをどうしたら、そんな結論になるというのか。
「ああ。俺の耳は、おまえの口癖をきちんと変換してくれる便利な耳なの」
「変換?」
「そ。ばかじゃねーの、は好きだよ、だろ?さっきの「あほ」のほうが珍しいから、愛してる、だよな」
 ちなみにもう一つ、こどもじゃねーんだから、は早く追いつきたい、なのだと武紀は思っている。
 一史は「ば……」とその口癖を言いかけてすぐ、薄っすらと顔を赤くして黙った。武紀が、ゆっくりと覆い被さってくる。
 自分が明確な言葉を与えたことがないことを、一史は知っていた。自分は言葉がなければ不安になるのに、欲するばかりで言うことが出来ない。唇を舐められて、一史は大人しく口を開いた。武紀の頬を両手で挟むと、口の中の舌がぐるりと動いて、奥歯を舐めた。
 一史がゆっくり目を開くと、優しい目が見えた。それに微笑むと、武紀の表情も緩んだ。
 一史がこの家で、特に自分の部屋以外の場所で抱き合うことを嫌がるのは最初からだ。部屋の中だとしても、快楽に意識が囚われるまでは、ちらちらとドアに目線が行くことを武紀は気付いていた。一史自身は、無意識にしていることだ。
 自分は逃げてしまったけれど、一史は二人の関係を秘密にしたまま、親と一緒に暮らしている。辛いことを強いていると、武紀も思う。
 それでもときどき試すようなことをしてしまうのは、武紀も不安だからだ。ときどき、一史は自分の気持ちに流されてしまったのではないかと考えることがある。そう疑うことは、一史を侮辱すると思っても。
 武紀にとっては、義兄弟よりも恋人という関係に重きがある。だが、両親と一緒に住んでいる一史は、義兄弟と言う関係に囚われる。
「なあ、一緒に住もう」
 キスの合間に武紀が囁いても、一史は小さく、頭を横に振った。
 大学生になったら、一史も家を出るつもりだ。便利なら、武紀と一緒に住んでもいい。でも――遠く離れたいと切実に願うときもある。この家族から。
 武紀の家に泊まりに行くことは良くあることだ。最初は互いを無視していたような義兄弟だったから、両親は今の仲の良い状態を喜んでいる。だが、それが彼らの想像外のことだとしたら。男手一つで自分を育ててくれた父親と、まるで本当の母親のように優しい季絵に嘘をついていることが一史には我慢ならない。
 武紀の手が、何度も一史の顔を撫でた。瞼や鼻に落ちてくるだけの口付けに焦れて、一史はその首に腕を回して、上半身を浮かせた。
 貪るように唇を合わせると、武紀もようやく本気になったようで、その手がパジャマを脱がしにかかる。
 好きだと言う気持ちを自覚したのがいつだったのか、一史は覚えていない。第一印象は良いものではなく、軽薄そうな男だと思った。どことなく自分を小学生の子供扱いしているような視線が、嫌だった。だが、大して関係ない、とも思った。一緒に住むわけではないのだから、適当に合わせていればいいのだと。
 淋しさを見抜かれたのかもしれない、と思う。実際に淋しい淋しいと言うのは武紀の方だが、一人でいることに慣れたと強がりを言っているのは一史だった。それを強がりだとわかって、それごと包み込んでくれたのが武紀だ。今と少しも変わらない口の利き方をしていたが、武紀は根気強く手を伸ばし、抱き締めてくれた。
「こら。余計なことを考えるな」
 言われて、更に露わにされた下半身の勃ち上がったものを握られて、一史はびくりと身体を揺らした。武紀はにやりと笑っている。自分の言葉が少なくなるのは、武紀のせいかも知れない、とふいに一史は思った。何も言わなくても、わかってくれる。欲しい言葉を与えてくれるし、こうして優しい目を崩さずにいてくれる。だから、一史は安心してしまう。
 こうして抱き合っているときも、一史は怖いと思ったことはない。初めてのときでさえ、驚きはしたが不安はなかった。武紀に任せておけば大丈夫だと、どこかで思っていた。
「一史、あのさ。ごめん、今日はちょっと焦ってもいい?」
 ゆっくりと後ろを指で撫でられて、ひくりとそこを蠢かせる。一史はそれだけで恥かしく、口を開くどころか唇をきつく噛み締めた。そもそも、そんなことを訊かれても答えに困る。武紀はそれでも、一史のその表情を了承と受け取ったようだった。
 焦ってもいいかと武紀は訊いたが、後ろを解すことに関しては、時間を惜しむつもりはないようだった。いつもなら一度解放されてから準備を施すのに、それがないままの今日は、熱が溜まりやすい気がする。ついでに意識もいつもよりずっとはっきりしていて、一史はどうしたらいいのかわからなくなっていた。
 武紀が欲しい。でも、そんなことを言えるはずがない。
 丁寧になぞるように指を入れている武紀は、そこがもの欲しそうにひくひくと動いていることをわかっているはずだ。それなのに、武紀は勃ち上がった一史自身をゆっくり舐めたりしている。
 一史が胸を撫でている手を叩くと、武紀が顔を上げた。どこか楽しそうな顔をしているから、一史の言いたいことなどわかっているのだろう。それでも「何?」と首を傾げる意地悪さに、一史は顔を真っ赤にして吼えた。
「焦るって言っただろ!」
 武紀は僅かに目を見開いてから、堪えきれないようにくすくすと笑った。
「ごめんごめん。そんなに待たせてるとは思わなかった」
 指を入れたまま言う武紀の頭を一史が叩く。
「欲しい?」
 欲しい。だが、一史は顔を赤くしたまま枕に頬を押し付けた。言えるわけがない。
 武紀は答えを待たないまま、指をゆっくりと抜くと一史の目の横に口付けた。それがそのまま首筋まで下がってくる。そうしながら手は足を持ち上げて後ろを探ってくるのだから、手際の良さと言うか淀みないテクニックというかに一史は嫉妬さえしそうになる。
 痛みもこの圧迫感も、気が狂うかと思う快楽も、全て武紀が教えてくれた。こうして、繋がり合うことの幸福感も。
 焦ってもいいかと訊いた言葉に大きな嘘はなかったらしく、武紀はいつもより速いピッチで一史を追い上げた。その激しさに息さえままならずに果てた一史は、ずしりと覆い被さってくる武紀を受け止める。駄目だあ……と掠れた声で言った武紀は、珍しいことにそのまま眠ってしまった。
 いつもなら二度、三度と挑んでくるのに、あまりのあっさりさに拍子抜けした感のある一史は、息を整えながら小さく笑った。重たい身体の下から、ゆっくり抜け出す。入ったままで眠られたことなどなかったから、自ら動いて繋がったままの部分を抜いたときは、知らず顔を赤くした。
 いつもは、甲斐甲斐しく後始末をするのは武紀だ。もちろん、一史が動けなくなるまですることが多いから、それは一種、武紀の仕事だと一史も割り切っていた。だが、そっと被っている物を取って、ティッシュで拭いて、布団を掛けて、と世話を焼くのは、結構楽しいことなのだと気付いた。
 すっかり寝ている武紀の顔をそっと撫でる。思い起こせば昨日もその前の日も、いつも会社帰りに掛かってくる電話が慌しく切れていた。それも十時頃のことで、まだ仕事をしているのかと心配したのだった。きっと、疲れているのだろう。
 いつも武紀がしてくれるように、瞼や頬を優しく撫でながら、一史は「馬鹿だな」と呟いた。無理して来なくても良かったのに。
 アイスまで買ってきて。
 宿題まで見てくれて。ちょっと邪魔とも言えたけど。
 ばかじゃねーの。あほだよ。
 自動変換が付いているという耳に、小さく吹き込む。
 せめて大学に入ったら、一緒に暮らすことを考えようかと、一史は思った。


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