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海 の 涯

01
 じめじめとした梅雨がようやく終わりかけた頃、季節は一息に夏に突入し、爽やかさなど微塵も出さず、今度は鬱陶しいほどの暑い日々が続いた。カレンダーは、真夏と言うには、まだ少しばかり早い。
「は?一ヶ月?」
 その外の暑さなど自分には関係ない、とばかりの涼しげな顔をした社長を、俺は不審を丸出しにして見つめた。客商売と言えど、背広をきちんと着こなして暑苦しさを感じさせないのは、大人だからなのだろうか、と馬鹿なことを考えた。
「どうせ大学は夏休みだろう?まあ、今月の15日からだから、ちょっと夏休みには早いけどな」
 社長はそう言って、ばさりと書類を俺に放り投げた。ホッチキスでは止めきれなかったほどの、分厚い書類だ。今月の15日と言ったら、もうすぐだった。
「……どんな仕事なんです」
 確かに、不定期なこのバイトにおいて、一ヶ月もの間安定した仕事が出来ると言うなら、良い話だ。でも、上手い話には裏がある、というのが常識じゃないか。
 ぱらぱらと書類を捲り始めた俺に、社長が仕事のことを話し始めた。
「人の身代わりというか……まあ、少々変わっているが、その書類さえきちんと読めば大丈夫だろう。おまえはうちの中でも演技力には問題がないしな」
 普段はっきりものを言う社長の奥歯に物が挟まったような言い方に、俺は顔を上げた。
 書類は、俺と同じ年の青年のことが詳しく書いてあるようで、どうやら俺はこの人物の身代わりをしろと言われているらしい、と言うのはわかった。
「少々変わっている……というのは?」
「その男、西島祐史(にしじまゆうじ)二十一歳。大学三年生。おまえと同じだな。専攻も同じ経済。東京都出身。身長175センチ、体重62キロ」
 身長も体重も、怖いくらい変わらない。でも珍しく写真がついていないため、背格好が似ているのか、としか思えなかった。
「その他もろもろの趣味、好き嫌い、友人、子供の頃、わかる範囲のことはそこに書いてある」
「ええ、何かすごい分厚い資料ですからね。それはわかります。それより、俺の質問に答えてください」
 俺がそう言うと、社長はもったいぶるように煙草に火をつけた。事務の谷沢さんがいないからって、ここは禁煙なのに。
「その資料はな、誠(せい)、一年前のものなんだ。西島祐史は、生きていれば二十二歳」
 え……?と俺が驚いて社長を凝視すると、煙草を咥えたままの口がにやりとあがった。
「ちょっと変わっているっていうのはな、人の代役じゃなくて、幽霊の代役をやって欲しい、ってことなんだ」
「ちょっと待ってください。どう言うことですか?」
「実際に仕事をするのは、8月14日の夜から15日まで。その間、西島祐史は初盆に帰ってくる」
「何言ってるんですか?社長、もしかして俺をからかってます?」
「からかってないさ。おまえで遊ぶなら、そんな手の込んだことはしない」
 その言い草にむっとしながら、俺は手元の資料に目を落とした。ぱらぱらと捲ると、確かに詳細な年表のようなものの最後に、死亡、の二文字が見えた。
 それにしても、変な話だ。初盆で帰ってきた幽霊になれ、だと?
 俺はあまり考えることもせず、断ることにした。面倒は嫌いなのだ。
「面白いけど、めんどうだな。他に回してください」
「いや、駄目なんだよ」
「どうしてです?」
「幽霊になってね、とある人の前に現れて欲しいんだそうだ。生前から、よく知っていたという人の前にね」
「……ばれるでしょう、それは」
「いや、おまえなら大丈夫だ」
「お褒めに預かるのは光栄ですが。おだてても嫌ですよ」
 俺が心底嫌そうな顔をしたのに苦笑して、社長はするりと一枚の写真を資料の上に滑らせた。それを見て、俺の身体が一瞬固まった。
 なんだこれ。
 というのが、最初の感想だった。服も、背景も、周りの人間も、何一つ俺は知らない。見たことなど、なかった。
 でも、その中で笑っている一人の男に、俺は寒気すら覚えた。
「気持ち悪いな……」
 思わず呟くと、社長が笑ったのがわかった。
「似てるよな。そっくりだ。最初見たとき、おまえだと俺も思った。まさかおまえ、双子の兄弟でもいた、とか言わないよな」
「いませんよ。馬鹿な妹が一人だけで。それにしても、なんでこんなそっくりなんだ。マジで気持ち悪い」
 自分そっくりの人間が、自分の全く知らない場所で、知らない人に囲まれて笑っている。それは、ひどく薄気味悪いものだった。
 でもそれで、ようやくこの仕事が俺に持ち込まれた訳がわかった。これだけ顔が似ていれば、そんな馬鹿なことも考え付くのかもしれない。
「最近小物の仕事しかしてなかっただろう?」
 その仕事を回しているのは誰だ、と思いながら俺が社長を見ると、いつもの何を考えているかわからない笑った顔があった。
「実際は1日だけだが、準備に時間が掛かるから報酬はいつもの三倍。うまくやり通したら、ボーナスも出す」
「ボーナス……社長、そんな言葉知ってたんですか」
「失礼だな。社員には出してるよ。欲しいなら君も社員になれば良い」
 この就職難に正社員にしてくれると言うのは、とてもありがたい。でも、俺は今のところその踏ん切りがつかないでいた。本当に、ずっとこの仕事をし続けられるのか、わからなかった。
 情熱なんてない。新しいことを始めるのは面倒で、でも刺激が欲しいという我侭な俺には丁度いいバイトだった、というだけだ。社員の先輩方のように、この仕事が好きだ、とは言えなかった。何に対しても中途半端、というのが俺なのだ。
「でも今回は特別だ。どうだ?やってみないか?」
 美味しい話ではある。報酬は三倍、そしてボーナス。何より、少しばかり興味深い話だと思った。幽霊になる、というのが。
「わかりました。その代わり、三倍の報酬とボーナス、忘れないで下さいね」
 俺がそう言うと、ボーナスはあくまできちんと仕事をしたらだ、と釘を刺された。


 PA(プライベート・アクトレス)という言葉が聞こえ始めたのは、いつの頃だっただろう。
 初めてその言葉を新聞記事で見たときは、何か空しいものを感じた。偽物の家族、偽物の友人を金で買う。その虚勢と孤独さに、なんだか世の中淋しくなった、と思ったものだった。
 そのPAに、まさか自分がなるとは当時思ってもいなかった。きっかけは単純なもので、大学の友人がバイトをしていたからだった。わりと良いバイト料と、日程が結構自由に組めることに魅力を感じて、大学一年からこの仕事をしている。
 大半は結婚式の友人の役や、パーティーやイベントのサクラが中心の仕事だったことも、俺にはちょうど良かった。それなら簡単だと思ったのだ。
 でも、時おり個人での仕事が入る。
 偽りの恋人、息子、孫……。
「それでも、そのときの私の気持ちは本当でしょう?」
 戦争で子供を亡くし、それから子供に恵まれなかったそのクライアントは、死ぬ前に一度だけ孫と過ごしたい、と事務所を訪れた。
「空しいとか、思わないわ。あのときあなたは、確かに私の孫だったもの」
 偽りの関係。それでも、人は誰かを求めるのかもしれない、と俺は今では思っていた。
 でも、幽霊と言うのは、さすがに初めてだ。
 取り掛かるのは一ヶ月前からと言われたが、部屋に帰ってから俺は貰ってきた資料を眺めた。
 依頼者はどうやらこの西島祐史の兄で、一流企業と言われる会社に勤めている。数日後には、彼と会って話をすることになっていた。写真では、あまり祐史と似ている感じがしなかった。年が10も離れているせいもあるのかもしれないが、落ち着いた大人の雰囲気で、繊細な感じの祐史とはかなり印象が違う。
 そう思って、俺は窓に映る自分の顔を見た。自分が繊細な雰囲気を持っているとは思ったことなどない。周りからもそんなことは言われたことはなかった。どちらかと言えば堪え性がなく我侭で、大雑把なところがあるのが俺だ。
 後から渡された、大量の写真を取り出す。どんな風に笑うのか、どんな風に話すのか、それを知らなければならないからだ。でも、見れば見るほどそっくりで、俺は思わずため息を吐いた。それでも何枚も見ていると、笑顔は俺よりずっと穏やかで、皮肉交じりの笑い顔しか見せない俺とは違うことがわかる。感情がもっと素直に出るようで、最後の一枚を手にしたときには、これは確かに自分とは別の人物だと安心していた。本人がこれなら、他人はもしかしたらころりと騙されてくれるかもしれない。
 そんなことを思いながら、今度は資料を捲った。ファイルされた二冊のうちの一冊は、今回俺が「化けて出る」相手だった。
 夏井保(なついたもつ)。俺より四つ年上の25歳、男、独身のサラリーマン。会社名を見ると、西島の兄と同じ会社だった。
 俺はいまいち、この三人の繋がりが掴めなかった。どうしてこの男の前に、弟に化けて出て欲しいのか、その説明は西島と会ったときにされることになっていたからだ。
 写真を見ると、西島祐史の映っていた写真にも随分と登場していた人物だった。背が高く、端正な面に少しだけ軽薄そうに見える瞳が嵌っている。二人はひどく親密な雰囲気で、祐史の最も穏やかな顔が見られるのも、この男と一緒のときだった。無防備、と言っていような、俺には絶対出来ない顔だ。
 そうは言っても祐史がそうやって接していたならば、俺ももちろんそうやって接するしかない。演技で、無防備な顔、なんて出来るんだろうか。
 俺はそんなことを考えながら、その晩は資料を読みふけっていた。


 待ち合わせ場所の駅前の喫茶店で、祐史の兄、高史(たかし)は俺を見て固まった。夏だと言うのにきっちりとスーツを着こなした高史は呆然とした顔で、俺は居心地の悪さを感じていた。なるべく似ないように、と服装も髪型も祐史とは違うものを(と言っても俺の趣味は祐史とは全く違った)選んだのに、信じられないという顔をされる。
「お座りになりませんか、とりあえず」
 立ったまま固まっていた高史にそう言うと、ようやく気付いたように「ああ、すまない」と言いながら俺の向かいに腰掛けた。それを待っていたかのようにウエイトレスが来て、コーヒーを頼んだが、まだ動揺が抜けきれていないような声色だった。
「いや、本当にすまない。その、あまりになんと言うか……君、本当に祐史ではないよね?」
 何を馬鹿なことを言っているのか、と俺は思ったが、自分も写真を見たときは信じられない思いで一杯だったことを思い出して、息をついてから「違います」とはっきりと言った。それから、免許証を見せる。バカバカしいが、そうまでしないと信じてもらえそうにない気がしたのだ。
「本荘 誠です。今回はご依頼ありがとうございます」
「え、ああ。いや、自分でも馬鹿なことを言ったとわかっているんだが、どうも本当に生き写しで」
 俺を見る目が、とても柔らかい目になっている。その目もまた、居心地の悪いものだった。俺は祐史でもなければ高史の弟でもないのだ。
「俺も写真を見たときびっくりしました」
 とりあえずの営業スマイルを浮かべると、先ほどの免許証より効いたらしく、はっとしたように「そうだね、やっぱり違うね。申し訳ない」と呟いた。
「それで、今回のご依頼の詳しい内容なんですが」
 俺がそう言ったところでコーヒーが運ばれてきて、それを一口飲んだ高史は、ようやく本当に落ち着きを取り戻したようだった。
「ああ、取り乱したりして申し訳なかった。それに、失礼なことを言ったね。悪かった」
 そう頭を下げられて、俺の方が慌ててしまった。年上の、こんな立派な男に頭を下げられたことなんて数少ない。
「いいですよ、気にしないで下さい。俺も気にしてませんから。それより、仕事の話をしましょう」
「ありがとう。そう言ってもらえると助かるよ」
 高史は改めるようにコーヒーを飲むと、資料は読んでくれたんだね?と聞いてきた。俺がそれに頷くと、じゃあ詳しい話をしよう、とカップをかちゃりとソーサーに置いた。
「簡単に言ってしまえば、君には祐史の変わりに夏井と話して欲しいんだ。初盆で幽霊として帰ってきた、と騙してね」
「話、ですか?」
「弟が事故で急死したのは知ってるね?それから、もう一年近く経つんだが、夏井は少しもそれを認めていないというか、受け入れられないみたいでね。それはひどい生活をしている。私がいるから、会社ではなんとか普通に仕事をしているみたいだが……私生活はそれこそひどいようだ」
「夏井さんと祐史さんは、それほど仲が良かったんですか?」
「それもあるし、事故の責任を感じているようだよ」
 俺は高史の言葉に、資料の中の事故の個所を思い出した。確か、居眠り運転のトラックに轢かれた、と書かれていたはずだ。
「事故と夏井さんって、何か関係があるんですか?」
「直前にけんかをしたらしくてね。飲み屋に二人でいたらしいんだが、けんかして祐史が店を飛び出したその後、事故があったんだ」
 それは後味が悪い。でも、だからと言って夏井に責任はないはずだ。
「夏井も馬鹿で真面目な男だからな……自分のせいではない、とわかっていても自分が許せないんだろう」
 高史のその目はとても哀しく、俺はそれ以上何も言えなかった。所詮、他人の気持ちはわからないのだ。
「あの、お二人はどうやって知り合ったんでしょう?」
 俺は重苦しい空気が嫌で話の方向を変えることにした。
「夏井は私の後輩でね。今は部署が違うが、彼が新人で入ったときの担当が私だったんだ。それで家にも良く来るようになって、祐史とも知り合った。まさか、そのときはあんなことになるとは思わなかったが……」
 高史の言う「あんなこと」が、事故のことではないと感じて、俺は眉根を寄せた。
「これを話さないわけには行かないね。隠していたわけではないんだが、決して大っぴらに言えることでもなくて、中々言えなかった」
 俺はますます眉間の皺を深くしていただろう。それに申し訳なさそうに、高史が口を開いた。
「実は、二人は付き合っていたんだ。その、恋人同士として、ね」


 ちょっと待ってくれ、と俺は叫びそうになったのをかろうじて堪えた。人の恋愛をどうこう言うつもりはないが、それは自分が絡まないときだけだ。でも今は違う。俺はその片割れ、祐史の役をやれと言われているのだ。
「いつ頃からだったのか、私にもわからない。私が知ったのは祐史が亡くなるほんの少し前のことで、二人は私には徹底的に隠していたから」
 そんなことはどうでもいい。問題は、俺がその祐史の役をやることだ。祐史として夏井の前に現れるのなら、恋人として接しなければならない。それを、俺がやるのか?男相手に、恋人の役を?
「待ってください。そんな役は無理です」
 無理と言うより、やりたくない。
「いや、君ならできるよ。それに、君がOKした時点で前金を払ってる」
「前金……それは俺のほうで社長と話をします」
 言いながら、社長はわかっていて俺にこの話を持ってきて、わかっていてそこを隠し、普通ならそんなに急いでもらう必要のない前金を貰ったのだ、と思っていた。よほどの上客なのだろう。報酬を三倍にし、ボーナスを出してもいいというのだから、事務所に入る金はかなりのものなのだ。ボーナスなんぞに釣られた俺が馬鹿だった。
「あの社長はそんなに簡単には折れないよ。それに、身体には接触しないように言えばいい。幽霊だからとかなんとか言って」
 確かに一度引き受けた依頼を(それも上客の)こっちの都合でやめる社長ではない。穏やかそうに見えた高史も、伊達に企業人ではないのだ。社長と組んでいる節がある。
「その幽霊って言うのも……すぐばれますよ」
「いや、やっと落ち着いてきた俺でも君が祐史だと言えば信じてしまいそうだからね。今の夏井なら大丈夫だ。それとも、君は自信がない?」
 にやり、と笑われて、俺は内心むっとした。足掻いているとわかっていて、そして煽られたとわかっていてもそれに乗ってしまう辺り、俺はまだまだ子供だ、と思うのは後になってからだ。このときも、そんなことはありません、と思わず言ってしまった。
「じゃあ、引き受けてくれるね。ありがとう。まだ一ヶ月近くあるんだ。少しずつ祐史らしさを覚えてくれればいい」
 高史はそう言って、何か聞きたいことがあったら電話をするように、と伝票を持ち、その代わりとでも言うように携帯電話の番号を置いていった。
 俺はウエイトレスにもう一杯コーヒーを頼んで、大きなため息を吐いた。とんでもない仕事を引き受けてしまったな、と思ったが、もう後には戻れないこともわかっていた。あの社長が許すはずがない。
 写真で見た、無防備な祐史の笑顔が頭の中でちらついた。あんな風に笑っていたのに、恋人を置いて逝ってしまうなんて馬鹿な奴だ。俺にはあんな笑顔をさせてくれる人はいない。それが、少しだけ羨ましかった。


 資料を頭の中に叩き込みながら、俺は祐史の日常を少し追ってみることにした。俺とは違う大学にも行って見る必要があったし、高史の部屋からその大学への道のりを辿ってみたり、夏井とよく行った場所にも足を運ばなければならない。もちろん、経費は出してもらおう、と俺は思っていた。
 問題は、俺が本当にびっくりするほど祐史と似ていることだった。祐史を知っている人間のところに、変装なしではいけない。
 俺は俺で、祐史ではないのに、なんだか理不尽だと思いながら、仕事のため、面倒を避けるため、と言い聞かせて、俺は写真で見た祐史とはかなり異なる格好をすることにした。祐史はいいところのお坊ちゃま、という格好ではないが、質のいいものを気楽に着こなしている、という感じだった。それは、兄の高史を見てもわかる。カジュアルだが、よく見ると品がいい。
 俺はどちらかと言うと飽き性で、その時々の気分で着るものを選ぶから、ワードローブだけは豊富だった。髪を浮かない程度明るくし、外にいるときはサングラスを掛け、少し軽薄な感じのする服装を心がけた。幸い季節は夏で、サングラスも怪しまれない。
 祐史が住んでいたのは隣の県で、俺の住んでいる街から電車で二十分ほどのところだった。大学のために実家を出て、隣町で働く高史と二人暮しをしていたらしい。高史は偶々仕事で俺の住んでいる街に来て、俺を見かけたのだと言った。
「心臓が止まるかと思ったくらい、びっくりしたよ。それから、失礼ながら君のことを調べさせてもらった」
 どうやって俺のことを知ったのか不思議だったので、高史のその言葉でようやくその謎は解けた。
 俺は高史に言って、祐史の住んでいた部屋を見せてもらい、そこから学校まで、祐史が通っていただろう道を歩いてみた。部屋から駅、駅から学校、とのんびりと歩く。
 何か、とても不思議な感覚だった。
 この仕事をしなければ、俺は一生歩かなかったかもしれない道。でも、祐史にしてみればまだまだ何度も通うはずだった道。
 ふと、墓参りに行っておこう、と思った。


 好きな食べ物はご飯、コーヒー党で、バナナが嫌い。
 結構変わっている。
 ご飯ってなんだよ、と俺は思いながら資料から顔を上げた。日に日に、俺は祐史を知っていった。今なら、大学の友人です、と嘘をつけるくらいの知識はある。
 宵っ張りで、その割にお酒はあまり強くない。酔うと笑い上戸で、ふいに電池が切れたようにことりと寝てしまう。朝は早起き。家事は兄と暮らすようになってから覚え始め、夏井と知り合ってから料理も積極的にするようになった(と思う、と高史は付け加えている)。得意料理はタイカレー。辛いものも甘いものも好き。
 そこまで読んだところで、俺は目的の場所に着いて電車を降りた。
 夏井と祐史の二人でよく訪れていた、という川沿いの公園に行くつもりだった。ここで撮られた写真もかなりの数があった。
 俺には、写真を見たときから不思議に思っていたことがあった。記念写真やスナップとしての写真もあったのだが、隠し撮りではないか、と思った写真も多数あったのだ。夏井の協力なしに、夏井と祐史の行動を把握してある、というのも奇妙だった。
 それを高史になんとなく言ってみると、高史は渋い顔をした。
―――実は、祐史の様子がおかしかったからちょっと探ってみたことが合ってね。まあ、それがこんな風に役に立つとは思わなかったけど。
 高史はそう言って苦笑した。
 あの兄は過保護すぎる、と俺は思う。祐史だって結構息苦しかったんじゃないだろうか。大学生にまでなって、私生活を家族に探られるのは正直冗談じゃない。面と向かって聞かれるならまだしも、あれは誰かを雇って探らせている。
 日が暮れかけた街は紗がかかったように見えた。下町の夕暮れ、という感じで、どこか懐かしさのある街だった。駅から公園までは目の前の道を真っ直ぐ歩けばすぐで、運動公園と書かれた案内図が立っていた。確かに、公園の中にスタジアムと体育館がある、大きなところだった。
 写真を頼りに、二人がいつも川を覗いているのだろうポイントを探した。幅の狭いその川にはいくつかの橋がかかっていて、両岸が遊歩道になっている。そこにはずらりと桜が植わっていて、きっと春には見事な景色になるだろう。
 橋と橋の間、一際大きな桜の木がある辺りに行くと、ふいに人影が見えて、俺は立ち止まった。それから、慌ててその木の幹に身体を隠した。
 夏井がいた。
 ぼんやりと、煙草を吸いながら川を眺めている。でもどうやら煙草は飾りのようで、ほとんど口に運ばれることはなかった。
 ただ、ぼんやりと。じっと一点を見つめて動かない夏井は、ひどく危うかった。今にもその川に飛び込むんじゃないかと思えて、俺は内心ひやひやしていた。
 その目は、思い詰めていると言うより、哀しげだった。そして、その背は淋しそうで孤独だった。
 欄干に乗せていた腕がふいっと動いて、掌が欄干を撫でた。
 写真を見た俺にはわかる。二人はいつも同じ場所に立っていた。夏井が右で祐史が左。見ているこっちが羨ましくなるくらい、穏やかな顔をしていた、祐史。
 夏井の左手が、欄干を撫でつづける。そこに、人の温もりなどあるはずがないのに。握り締める、手もないというのに。


 それから、どことなく気になって夏井の様子を探るようになった。会社にはさすがに行けないが、週末は必ず飲みに行き、女を連れてホテルに泊まることが多いのがわかった。俺が見ていた二週間ともで、慣れた様子にそれがいつものことなのだと俺にもわかった。
 部屋には決して連れて行かない。
 夏井は、社会人になってからずっと引越しをしていないらしい。
 週末の夜、一人の部屋が淋しくて飲みに行くのだろう。そして、祐史との思い出が詰まっているその部屋に、他人を入れたくはないのだろう。
 幽霊として現れる前に、夏井の部屋の鍵を高史から預かることになっていた。祐史の遺品の中の一つなのだ、と小さく高史は笑った。
 引っ越さないのも、あの公園に何度も行くのも、確かに夏井は祐史の死を未だ受け入れきれていないのだろう、と思わせた。
 もう決して帰ってこない人間を、ずっと待っている。
 女々しい奴だ、と俺は思っていた。祐史が亡くなって、もうすぐ一年になる。事故があったのは秋のことで、月の綺麗な夜だったそうだ。
 忘れろとは言わないが、未だに引きずるのもどうかと思う。
 そう思いながら、でも俺は、夏井を見つづけた。見つかったら仕事にならないのに、大学が夏休みに入ってからは、昼間は祐史の思い出の場所を辿ったりして、夜は夏井を家まで見送るのが習慣のようになっていた。
 同情だろう、と俺は自分に言い聞かせていた。
 帰り道、アパートの前でふいに明かりのない窓を見上げる夏井の、ひどく淋しそうな雰囲気や、飲み屋でただ飲みつづける夏井の孤独に。きっと、同情しているのだと。
 そう言い聞かせているうちに、8月14日がすぐ明日にと迫っていた。

 

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