海 の 涯
02
「そんな格好をしていると、本当に祐史が戻ってきたようだな」
事故当日の服装を聞いて、それとほぼ同じ物を揃え、髪も黒く染め直した俺に、高史は今にも泣いてしまうんじゃないかと思った。そんなだから、俺は決して祐史のような笑みを見せなかった。
「1日、俺の成功を祈っててくださいよ」
「ああ。でも君なら大丈夫だろう?社長もそう言ってらした」
「調子がいいんだ、あの人は」
俺がそう苦笑すると、高史も笑った。思ったより緊張はしていない。
「やはり夏井は実家には帰っていないよ。帰るとしても明日、日帰りで帰るだけだろう。あいつの実家はそう遠いところじゃないから。でも、君が現れればそれもない」
「祐史さんの初盆は……?」
「あいつは来ないよ。葬式だって信じられないっていってたからな」
高史はそう苦笑していた。だから受け入れていない、と言ったのだろう。
俺はテーブルにことりと置かれた鍵を受け取りながら、一つ聞きたいことがあったのだ、と高史に言ってみた。
「なんだい?」
「あなたの口ぶりからいくと、お二人のことをあなたは決して認めていなかった気がするんです。それなのに、どうしてこんなに手の込んだことをしてまで夏井さんを助けたいと思っているんですか?」
俺の質問に、高史はしばらく黙ったまま答えなかった。やはり聞いてはいけなかったか、と俺が謝ろうとしたとき、高史が大きなため息を吐き出した。
「別に、助けたいと思ってるわけではないよ。でも夏井は優秀だし、このまま潰れていくのはもったいないと思っている。夏井の仕事ぶりを誉めると誰より喜んだのは祐史だったしね……。それに、これは私の罪滅ぼしでもあるんだ」
「え?西島さんの?」
「君に出会わなかったら、こんなことも考えなかったかもしれないが」
高史はそれだけ言うと、納得などしていない俺を残して立ち上がった。それから、よろしく頼む、と頭を下げて喫茶店を出て行ってしまった。
俺は手の中の鍵を馴染ませるようにしばらく弄んでいたが、覚悟を決めて立ち上がった。喫茶店の窓から見える外はもう真っ暗だった。街灯とネオンに彩られているが、それが余計に闇を闇に見せていた。夏井が眠ってから、俺は彼に会いに行くつもりだった。
今日から明日に掛けて、俺は西島祐史になる。
夏井の恋人だった、そしてその夏井を置いて死んでしまった、西島祐史に。
アパートの部屋を見上げると、明かりはついていなかった。時計はもう深夜をすぎている。迎え盆には遅くなったが、薄明かりの中で出会う怖さを演出した方がいいと言ったのは社長だった。
高史に借りた鍵を使って、そっと中に入る。夏井は寝つきはいいから大丈夫、と言ったのは高史だ。
あまり広くないアパートは思ったより片付いていた。というより、あまり物がない。俺は前もって間取りや棚、テーブルなどの家具の配置や色などを高史から聞いていた。祐史がいたときと、たぶん変えていない、と言った高史と二人、思わずため息をついたのを思い出す。
言われた通り、奥の部屋を目指す。そこからも明かりは漏れていないから、夏井は寝ているのだろう。俺はその扉の前で小さく深呼吸すると、するりとその中へ入った。
暗がりに目が慣れるまで、俺は入り口に立っていた。ようやく周りが見え出して、ベッドの上ですやすやと眠る夏井を見つける。その眉間に微かな皺が寄っているのを見て、眠っているときぐらいは安らかであって欲しい、と思った。
俺はベッドの脇に座り込み、じっとその夏井を見つめた。それから思わず、その眉間を撫でた。
何の夢を見ているのだろう。そんなに、苦しそうな顔をして。
「保(たもつ)」
小さく、呟いてみる。微かに目が動いたのが瞼の上から見えた。
「保、保」
何度か、名前を呼んでみる。「ん……」と覚醒間近の声がして、駄目押しにもう一度名前を呼ぶ。すると、ぱっちりと目が開いた。
固まっていた、というのが正しい。それから、目だけが大きくなっていって、「祐史……?」と漏れた声はひどく掠れていた。
「夢……か」
保はそう言って、切なそうに笑った。それに、俺の心臓が潰れそうになる。
なんて顔をするのだ。
「夢じゃないよ」
俺がそう言うと、ふいっと手が伸びてきた。それを、俺はすんでのところで立ち上がってかわした。これは、俺が決めていることの一つだ。
「祐史……?」
「お盆だから」
「え?」
「我侭言って帰してもらった」
そこでようやく、保はがばりと起き上がった。それから、信じられない、という顔で俺を見つめていた。
俺はゆっくりと、微笑んだ。あの無防備な笑顔。穏やかな笑顔。
愛しい保。
「嘘だろ……?」
「保は嬉しくない?俺に会えて、嬉しくない?」
俺は自分が泣きそうになっているのがわかった。ひどく、胸が切ない。
「祐史……」
ふらり、とベッドから降りて俺を抱こうとした保の腕を、俺は再びかわす。
「駄目なんだ。触ったら俺は消えるよ?今の俺は、実体なんてあってないようなものだから」
そう言うと、またひどく切ない目をした。
酷なのはわかる。でも、抱き合うのを許してしまったら、俺は偽物だとばれない自信がない。そればかりは、誤魔化せないと思うのだ。
「本当に……」
「俺だよ。でも……幽霊なんだ」
ふいに自分まで手を伸ばしたくなって、ぐっと握った。どうかしてる。まるで祐史に同調しているようだった。
保は、立ったまま呆然と俺を見ていた。俺はそれに、もう一度微かに笑いかける。
「会いたかったんだ」
保、おまえに会いたかったんだ。呟いたその声に、保がまた手を伸ばそうとして、途中でぐっと諦めたようにその腕を戻した。
「俺も、会いたかった。祐史、おまえに会いたかったよ」
俺はずっと微笑みながら、今にも泣きそうになっていた。それがどうしてなのか、自分でもわからなかった。
どうしても触れないのか、と保が言うから、俺はシーツを引っ張り出してきて、頭からすっぽり被ることにした。そのシーツ越しに、後ろから恐る恐る抱き締められる。
窓辺の、ベランダに向かって俺たちは座っていた。遠い街のネオンがかすかにその窓に映っていた。
保が本当に俺を幽霊だと信じているのか、正直わからなかった。でも、怖がらずに触れようとさえした保に、胸が痛んだ。
祐史なら、幽霊でも何でもいいのだ。
そんな声が聞こえてきそうだった。
保は俺を後ろから抱き締めたまま、しばらく何も言わなかった。俺も、うっとりと目を閉じて、保の体温を感じていた。
目の前で組まれて緩まない腕に、触りたくなる。直にその感触を味わってみたいとさえ思って、俺は自分に唖然としていた。まるで本当に、恋人に抱かれているようだった。
「どうした?」
ふいに保の声が近くで聞こえて、俺の心臓が跳ねた。ふるふると頭を振ると、顔が見たいな、と呟かれた。
顔を上げると、窓のガラス越しに視線が合った。ただじっと見詰め合って、先に視線を逸らしたのは俺だった。もぞり、と動いて、その胸元に頭を預けた。
「どうして」
「え?」
「どうして、俺のところに?」
心臓の音がしている。とくり、とくり、と緩やかに規則正しい音は、俺をひどく安心させた。ずっと前から、この音を知っている気がした。
「会いたかったから」
答えを考えていたわけではないが、それ以外に理由は見つからなかった。ただ、会いたかった。
それは、俺の感情なのだろうか、それとも祐史としての感情なのだろうか。
一ヶ月近く保を見てきて、初めて会った気はしない。でも、話したい、抱き締めたい、もう忘れちまえと言ってしまいたい、とずっと思っていた。
ずっと―――?
ふいに自分の気持ちを突きつけられたようになって、俺は保の腕の中で困惑していた。そんなことを、思っていたのか、俺は。
「温かいな。実体がないなんて嘘みたいだ」
俺の困惑など知らない保の声に、探るような調子はない。するりと頭を撫でられて、俺は目を閉じた。今は、祐史なのだ。それだけを考えなくてはならない。
「俺はここにいる」
あぁ、と頷く声が聞こえた。直接響くような声は、とても心地いい。俺の声と祐史の声も、そっくりなのだそうだ。骨格が似ているのだから、声も似ているのだろう。
「……ずっと、いろよ」
小さな、本当に小さな声だった。でも、確かにそう聞こえて、俺はぎゅっと一度目を思い切り瞑ってから、ぱちりと開けた。
「明日の夜に、帰らなきゃいけない」
聞かない振りもできたが、俺は敢えて答えた。保は何か心残りがあるに違いない、と俺は思っていて、そのためにも時間制限をすることは有効のように思えた。
俺は保に、祐史の死を乗り越えて欲しいと思っている。高史と同じように、でもきっと違う気持ちから、保が潰れていくのを見たくないと思った。
会社ではなんとか必死に自分を保っているのだろうが、一週間でそれは切れてしまい、週末はいつも浴びるように酒を飲んだり女を抱く。それが、祐史が死んでからずっと続いているのだとしたら、身体だけではなく心もそのうち壊れるだろう、と俺は思っていた。
そんなことは、あって欲しくない。
「どこに帰るんだ。おまえの帰る場所は、ここだろう?」
「そうだよ。いつだって、俺の帰る場所はここだよ」
「それなら」
「でも、俺はもう傍にはいられない。見守ることは出来ても、傍にいて温もりを与えることはもう出来ないんだ」
自分の声が震えるのがわかった。制御しきれない、不安に似た感情が渦巻いていた。
「温かいよ、おまえはこんなにあったかい」
「うん、保が温かいから。……ごめんね」
ふいにそんな言葉が口を出て、俺は軽く唇を噛んだ。言ってはいけない言葉のような気がした。
「どうして、おまえが謝る」
「……ずっと一緒だって、約束したのに」
そんな約束があったのかどうか、わからない。でも、そのとき俺は、確信していた。二人はきっと、二人で歩む覚悟をしていたに違いない、と。
「どうして……」
喉の奥から搾り出すような声が聞こえた。
「どうして、俺を置いていったんだ」
俺は、答えられなかった。置いていきたかったわけじゃない。離れたかった、わけじゃない。
抱き締める腕に力が込められて、嗚咽が聞こえた。
その夜は、ただそうやって、朝が来ることを怖がるように、二人で抱き合っていた。
朝日が昇るのを、ただぼんやりと眺めていた。それが昇り切って、真夏特有の強烈な光が窓から差し込んできても、保の腕は決して緩まず、俺をしっかりと抱いていた。もう、離すまいとしているようだった。
そう出来たなら、どれだけいいだろう。
ともすれば、ずっと傍にいると甘い言葉を囁いて、保にしがみつきそうになる自分を、俺は必死に押し留めていた。俺なら、それが出来るのだ。
でも、保が今抱き締めているのは、俺ではない、祐史なんだ、と何度も何度も自分に言い聞かせる。待っていたのは、祐史であって俺ではない、と。
祐史、と呼ばれて、ふっと顔を上げて微笑むと、保がほっとしたのがわかった。
消えていなくなるわけがない。
そんなこと、出来ないのだ、本当は。俺は実体を持った人間で、幽霊でもなければ、まして祐史でもない。
―――そう言えたら、どれだけいいだろう。
でも、言ってしまえば全ては終わりだ。俺は祐史を騙ったと罵られ、軽蔑されるだろう。そして、保を悲しませるだろう。
「どうした、祐史」
柔らかく優しい声が、頭上から降ってくる。その声が、祐史を呼ぶ。
俺は小さく頭を振って、なんでもないよ、と言った。
「ねえ、公園行こうか」
「え?」
「あの公園。今日は晴れてるからきっと綺麗だろう」
後ろで、保が戸惑うのがわかった。布越しにそっと腕を触ると、ぴくり、と筋肉が動いた。
「外出ても大丈夫なのか?」
「そのまま、夜になったらどこかに飲みに行こう。……ここから行きたくない」
ぎゅっと、抱き締められる。肩に感じる頭の重みが、愛しかった。
俺は、こいつが好きなんだろうか。
祐史ではなく、俺が。
「ちゃんと、今度はちゃんと―――別れよう」
「いやだ」
「保」
「傍にいるって、言っただろう?別れるなんて言葉、使うな」
切なさを滲ませた声に、忘れろと、叫びたかった。もう祐史はいないのだと、それを認めろと叫びたかった。
「保……見てるから。おまえを、見てるから。だから、幸せになれよ。安心して、見ていられるように」
「おまえがいないのにっ、それなのに」
「いるから。俺はいる。……忘れるなんて言ったら、許さないぞ?」
声が震えた。ぐちゃぐちゃの気持ちで、何が哀しいのかわからなかった。
保の気持ちなのか。
祐史の無念なのか。
自分の、どうしようもない感情なのか。
「忘れるわけ、ないだろうっ」
保の声も震えて、湿っていた。泣いているのだろうか、と背中の温かさを自分に染み込ませながら思う。高史が、夏井は泣かないんだ、と呟いていたのを思い出した。それなのに、昨日の夜から保はよく泣いている。
「それでいいよ。それでいいから、同じように―――誰かを愛して、幸せになれ」
俺も泣きたかったが、泣かなかった。それは、俺ではなく、祐史が許さなかったような気がした。
誰かを愛して―――それは、祐史でもなく、そして、俺でもない。
「誰かを好きになるのは、もう……」
「今すぐじゃなくても。でも、そんな時がきたら、躊躇うなよ。俺を、俺と過ごした時を忘れずにいてくれたら、それでいいから」
泣かせてくれ、と俺は祐史に言いたかった。
保はきっと忘れない。一生、祐史のことを忘れないだろう。
今の、このときのことさえ。
保が俺を幽霊だと信じているかいないかなど、問題ではないのだ。保がそう信じたなら、それはきっと祐史の幽霊であり続け、騙されたのでもいいと思っているのなら、祐史の幽霊の代わりとしてあり続ける。でも、どちらにしろそこに俺はいないのだ。
俺という、本荘 誠という人間はいない。保の中には残らない。
そして、二度と会うことは出来ない。
まだ、と保が呟いた。
「まだ好きでいていいか」
「いいよ。いいから―――」
いつかは、思い出にしろ、その言葉は言えなかった。胸が痛すぎて、それ以上声を出したら泣いてしまいそうで、ぐっと唇を噛んだ。
背中に感じる体温も、ずっと抱かれつづけた腕も、しっくりと俺に馴染んでいる。それを離さなければならなかった、祐史を思った。―――こんなに、温かく、強い腕を。
同じ気持ちだと思う。
きっと、祐史と同じ気持ちだ。
保に幸せになって欲しい。潰れていかずに、立ち上がって、歩いていって欲しい。
そのために、俺が出来ることはたった一つだった。
だから、泣けない。
俺が祐史なら、泣かないから。
「公園に、行こうか」
ふっと保がシーツ越しの俺の頭を撫でた。温かい手だった。
俺は頷いて、立ち上がった。
目の前で、真っ赤な眼が、静かに笑った。
保の車に乗って、俺たちは公園に行った。あの、川のある大きな公園だ。いつのまにか日は傾き始めて、きらきらと、美しい夕日が川を輝かせていた。
車を降りて、いつもと同じ場所に無言で歩いていく。夏なのに秋物の服を着た俺は、薄手のコートのポケットに手を突っ込んでいた。
そうしないと、どちらともなく、触れてしまいそうになるから。
大きな桜の木の下、欄干に軽く身を寄せて川を覗きこむ。保つが右で俺が左。いつもの位置。
祐史と保の、無言の習慣。
話すことは、何もなかった。きっと、二人はいつもこんな風に川を眺めていたのだろう、と思った。
遠くに、夏休み中の子供達の声がかすかに聞こえた。それだけで、風もない夏の夕暮れはとても静かだった。
錯覚しそうになる。
こんな風に、保の隣にいたのは、俺なのだと。
いつも、二人でこんな時間を過ごしたのだと。
ふっと保が俺のほうを見て嬉しそうに笑った。いつかの、孤独な背中を思い出した。
誰もいないのに、欄干を撫でつづけていた左手。今も触ることは出来ないけれど、それほど近くにいるわけではないけれど、隣に誰かがいるのは実感できる。その、体温さえ感じそうになる。
隣にいられなくてごめん、と俺は声に出さずに呟いた。
いつもいつも二人で眺めていたのなら、隣にぽっかりと空間が出来てしまうことの寂しさは格別だろう。触れ合っていなくても。ただ、その存在だけが大切で。
どうして、俺が傍にいることが出来ないんだろう。
思わず空を見上げて、祐史に、保を俺にくれと、言いたくなった。
俺なら、傍にいてやる。
ずっと、傍にいてやれる。
そんな、祐史にとって残酷なことを思っていた。そうしたくても出来なかった祐史を、誰も責められはしないのに。
でも、少しぐらい許して欲しかった。
そんなことは、決して言えないのだから、思うことぐらい、許して欲しかった。