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ウソツキ病  前編

 それを、深山高明(みやま・たかあき)が見たのは、偶然だった。
 はかどらないテスト勉強を、ファーストフード店でのんびりとしていたときだった。冷めかかったポテトを齧りながら、読むと言うより眺めると言ったほうがいいように、教科書を捲る。それだけで、十分勉強した気になるのだから、自分も馬鹿みたいなことをやっていると思った。
 そんな風に教科書を読みながら、高明は店の大きな窓の外を通る人たちに、その半分くらいの視線を向けていた。そうやって外の景色を見ると、自分がカメラになったようで、高明はよくそんな風に景色を見た。ピントは教科書に合わせられて、外の景色は微かに霞む。
 どうして顔を上げたのかは、わからない。
 知った顔と認識したのか、ただの偶然か。
 目は、合った。
 でもそれは、ごく自然に逸らされ、普段だったら気にもせずにまた自分の世界に戻れば良いはずだった。もし、さっきまでぼんやりと自分の頭の片隅を占めていた人物でなければ。
 何もないかのように視線を逸らしたのは、相手だった。高明の視線は、その姿を追っていた。でもそれは、人込みに紛れて、すぐに見えなくなった。
 空虚な瞳。
 真っ直ぐな視線。
 一瞬だったのに、いやに鮮明に記憶に刻まれて、その姿が何度も何度も振り返る。そして、何度も一瞬だけ目が合う。その顔が、だんだんと笑いを帯びてきている気がして、高明はジュースの残りの氷を噛んだ。シャリシャリと言う音は、高明の思考の新たな支配者となる。それが束の間だとしても、それで十分だった。
 まだ夜には早いなと、高明は呟いた。

 新学期が始まって、二ヶ月が過ぎようとしていた。了(りょう)と高明は一年では違うクラスだったが、二年になって同じクラスになった。3階の廊下の、一番端のクラスを、了は気に入っていた。窓から見えるのは空ばかりで、授業もその空を眺めていれば、退屈せずにすみそうだと了は思った。
 だから放課後もよく、この教室の窓から外を眺めている。
「まだいたのか」
 習慣のように了が外を眺めていると、高明が入ってきた。そう言えば、鞄がまだ置いてあったと、今更ながら思う。
「おまえ、昨日街にいただろ」
「昨日?」
 高明が頷くと、了は首を傾げた。薄茶色の髪が揺れる。衣替えが済んだばかりで、白いシャツが眩しい。きっちりとは留められずに、ボタンをはずしたその胸元からは、シャツの白さより艶かしい白い肌が見えている。
 それを武器のようにしていることを、高明は知っている。だから、いつも目を逸らさず、眩しそうな顔もしない。なるべく了を真似て、空虚な瞳をしているのが一番かもしれない。でも今は、この鈍感な了にも分かるように、精一杯怒った目をして見せた。了と対峙するには、こんな風にはっきりとした感情があれば楽だと思いながら。
「とぼけんな。目が合っただろ」
「それなら俺が素通りするわけないじゃん」
 屈託なくそう笑う了の顔は、やましさがない。こんな純粋そうな笑顔が、一番の曲者だった。この顔を見るたびに、高明は自分がひどく傷つくのが分かる。
「連れがいただろ。金持ちそうなオジサンが」
 その言葉に、了はため息を吐きつつ、居直ったようにまたにやりと笑った。
「何が言いたい?」
 攻撃的な目をして、了は高明を見た。お前には、関係無いだろう?……そう、瞳が語る。
「友達として説教する権利があるなんて、言うなよな」
 いい迷惑だ、とでも言いたげなその言葉に、高明も唇を噛み締めた。それならば、どんな立場なら、いいのだろう。
 了がこのことに口を出されるのをひどく嫌がっているのは、知っている。それは、この行為に対する後ろめたさや嫌悪から来る以外の、なにものでもない。
 高明が了の援助交際を知ったのは、一年の終わりの頃だった。了の幼なじみの都と仲が良くなったのをきっかけに、学校ではよくつるんでいた。
 確かに、容姿は綺麗だった。
 高校生の幼さをしっかりと映す面影は、まだ少年の残酷さと柔らかさを保っている。華奢な体、細い腕。わざと色素を薄くした髪。
 それを商売道具だと言い放った了を、高明は思いきり張り倒した。
 了は、授業もたいして聞いていない風で、興味のあることには真剣な目をしている。成績は中の下でも、かばんの中にはいつも文庫本が入っている。授業をさぼって、本を読んでいたりするのだ。
 それなのに、了は「高校生」と言う看板さえも、商売道具だと言ったのだ。
 その自分を誤魔化すような了の言い方に、高明は無性に腹が立った。いつもいつもそうやって、自分の気持ちさえ湾曲された見方をする。それが了にとって、大切な真実であればあるほど、なんとかしてその事実を裏切ろうとする。
 そして、あの時は……
 そう、もう一つ、高明の記憶に残るものがある。
「何だよ」
 じっと見つめると、了がため息をついた。そのため息が、微かに教室にこだまする。テスト前の教室には誰も残っていなくて、大きな空間がぽっかりと二人の傍にあった。
了はどうして、そんな風に自分を傷付けるのだろう。ふと、高明はそんなことを思いながら、了を見つめた。
「言いたいことあるなら言えよっ」
 真っ直ぐな高明の視線に毒されるようで、了はそう叫んだ。何か得たいの知れない苛立ちが、ふつふつと湧いていた。
 こんな無言の視線は、嫌いだ。
 落ち着かなくて、どうしたらいいかわからなくなる。非難なら、非難の目をして欲しい。怒るなら、怒鳴って欲しい。それなのに、高明は時々こんな目をする。
 高明は、そのままの視線で、了の頬に手を伸ばして触れた。
「たか…あ…き?」
 了は、目を見開いたまま動けなかった。真っ直ぐに、自分に向けられた視線と手に。柔らかく、心地よく吹いていた風がやんで、ほんの少し、体温が上がった気がした。
「お前が好きだよ。だから、もうやめてくれ。俺のものになれ。そう言ったら、やめるか?」
 高明の指が、するりと顎に触れて離された。了は何も言えずに、ただ、立っていた。
と、高明が吹きだした。
「冗談だよ。冗談。ちょっと仕返ししたくって」
 にやにやとそう笑う高明に、了は大きく息を吸って、睨みながらため息をついた。
「趣味悪いよ」
「最初にそうやって俺をからかったのはおまえだろう?」
 高明がまだ笑いながら、そう言った。確かに、援助交際のことを激しく非難されたとき、了はそれを逃げ場にしようとしたのだ。

「高明が好きなんだ。でも、高明は俺を抱けないだろう?」
「抱くって…」
「抱ける?」
 挑発的にそう見つめてきた了は、確かに色っぽいという言葉に嵌っていた。でも、高明が抱けるはずがなかった。
 了は、自分が了の唯一の友人だと、高明が思っていることを知っていた。人を寄せつけない了の、傍らにいられる人物。
 その友人という関係を、高明が壊すはずがなかった。それを、どれだけ了が望んでも。
「男相手じゃ、たたねーよ」
 そう言った高明を、了がほっとした顔で見ていたことを、了自身は分かっていない。
 高明は、自分が了の傍にいられるのは、この友人というスタンスを決して超えないからだと信じていた。こんな風に高明を誘うのは、試しているだけだと。
 少し怯んだように呟いた高明に、了は思い切り声を出して笑った。おなかを抱えて、手を叩いて笑っている。
「嘘だよ嘘。あんま深刻な顔すんなよ。気持ちいいことして金貰えるならいいじゃん。それだけだよ」
 そう高明の肩を叩く了は、まだ笑っている。高明は大きくため息をついた。
「お前、みんなにそういうこと言ってるだろう。だから変に誤解されるんだよ」
 多分、先生にも。だから、色眼鏡で見る生徒も先生もいるのだ。にやにやと、いやらしい目つきで舐めるように了を見る。そしてそう見られる自分を、了は嫌悪しながら、必死に保っている。そうしなければ、生きていけないかのように。
「誤解じゃないからなぁ」
 くっくっと小さく堪えきれないように笑いながら、了は呟いた。高明は、自分が真剣に授業を受けている最中に、了が同じ校舎の中で喘いでいるなど思ってもいないのだろうか。
 そんなことはないだろうと、了は思う。
 そんな純潔なイメージはないはずだ。ただ、認めようとしないだけで。
「笑いすぎだよお前」
「だって…」
「こういう冗談、俺だけにしろよ」
 ため息を吐きつつ言われた高明の言葉は、思いのほか真剣に響いて、高明も了も、ほんの少しどきりとした。

「いつの話だよ。ったく」
 了はそう言って、にやりと笑った。どうしてこんな風に笑えるのか、自分でも分からないと思いながら。高明は笑いを止めて、真剣な表情を作った。
「やめろって、言ったよな」
「言ったね」
「じゃぁなんで」
 金がほしかったんだよ……そう呟く了の声は、不機嫌さに満ちていた。高明はそれに気づかないように、ため息をついた。
「バイト、どうしたんだよ」
「やめた」
「何で?」
「つまらないから」
 もう一度、高明のため息が教室に響く。
「俺さぁ……やっぱりああいう風に笑うの、合ってないんだよ。勝負って言うかさぁ、そう言う駆け引きがないと」
 騙し、騙され、サービスで笑顔など見せない。これは、獲物を捕らえるためだけの道具なのだ。了は笑顔を作ることを、そう言う風にしか思っていなかった。
「もう、やめろよ」
 お金の為だけではないことを、高明は分かっていた。それならば、何のためかと言う問いの答えは、見つけていない。
「……わかった」
 そう、高明に微笑む了の顔は、儚く、美しく、そして、狡猾だった。


「なぁに?またやってんの?」
 都はそう言うと、大げさなくらいに大きく、ため息をついた。切ったばかりの髪が、小さくゆれる。
 夏になると、都は髪を短く切る。かわいい顔をしているし、スカートを膝丈くらいの長さにしているし、決して外見にこだわらないというわけではないが、夏は暑いからと髪を切るのだ。毎年、そんな理由で。
 でも、そんな所が了と長く続いている理由なのかもしれなかった。
「一昨日、男と歩いてるの見ちゃったんだよ。金が無いって言ってさ。まったく……それなのにバイト、辞めちゃうんだもんな」
 高明は、手のひらでパックのジュースを弄びながら、呟いた。小さく、液体の跳ねる音がする。
「お金ねぇ……」
 了は、辞めた理由をちゃんと高明に話したのだろうか?ふとそんな疑問が頭に浮かんだが、都はそれを、口には出さなかった。
「あいつが大変なのはわかるけど、あんなんで稼ぐのはなぁ」
 高明は、決して了がやりたくてやっているわけではないことを知っているのだろう。でも、都にはその優しさは、少し酷な気がした。
 日の落ちかけた外の空気は、ほんの少し湿り気を帯びて、二人を撫でていた。雨が降るかもしれないと、都は視線を空に向けた。
 確かに雲が、多い気がする。
「大変、って?」
「え?だってあいつ、両親ともに事故で亡くなったんだろ?引き取ってくれるような親戚もいなかったから、一人で生きてきたって……」
 都が面白そうな顔をして自分を眺めていることに気がついて、高明は眉根を寄せた。
「ご両親がいないのは本当だけど、生きてらっしゃるわよ。どこにいるか、わからないけど」
 ある意味その方が悲劇よね、と都は続けた。
「また騙されたか……」
「最初、了のこと『さとる』って読むって言われて、しばらくそう呼んでたもんね」
 都はほんの一年程前のことを思い出して、楽しそうに笑った。
「お前も何も言わないんだもんなぁ。ったく。二人して人が悪すぎなんだよ」
 だって面白かったんだもの。都はそう呟くと、視線を窓の外へ向けた。そろそろ日が暮れ始めたようだったが、晴れていない空は暗い。都は自分の好きなすみれ色の空が見られないことに、がっかりした。
「了のお母さんは未婚の母なの。了が物心ついたときには、結婚していたけど。でも、お母さんは了とその男を置いて、違う男と逃げちゃったのよ。それが、小学校3年生ぐらいかな」
 都は自分の腰掛けている机の上に置いたイチゴミルクをごくりと飲んで、再び口を開いた。ほのかな甘い匂いが、ふわりと漂う。
「よく聞いてね、複雑だから。親戚は、本当にいなかったみたい。でもその男は、了を追い出すことなく違う女を家に入れたの。まぁ家のことは了がやっていたから、いると便利だったのかもしれない。それから一年もしないうちに、他の女がやってきたの。でもね、その女が凄くて、今度はその男が追い出されて、違う男が入ってきたのよ」
「はぁ?」
「了をうちで引き取ろうかって話も出たんだけど、了自身が嫌がったのよねー……」
「……」
「それで、その男が変なヤツで、了を気に入っちゃったのよ。多分、了はそのときに自分の容姿がお金になるって分かったんだと思う」
 都の話に、高明の頭はついていけない。結局、とにかく、了は他人の中で育てられたのだ、ということしか分からなかった。
「その男は結構な資産家で、若くして亡くなったんだけど、了には多額の財産を残したらしいのよね」
「え?」
「そ。私は、了はお金を稼ぐ必要なんてないと思うんだけど。そんなお金は使わないなんていう殊勝なことは言ってないし」
 なんだか、高明にはさっぱり分からなかった。
「どういうこと?」
「だから、今説明した通り」
 一度で分かる内容じゃないことをわかっていて、都はそう言った。くるくると変わるお隣さんの大人の中で、ずっと一人でそれを受け入れ、見送っていた了を思い出すのは、つらい。確かに、了が屈託なく、子供らしい笑顔でいたときがあったはずなのに。
「……で、今は?」
「知らないの?今は一人暮し。もう誰もあの家にはいれないつもりじゃない」
 ずっと、その家で暮らしてきた了は、今はたった一人。幼い了は、父や母の幻影を、ずっと誰かに見ていたのかもしれない。でもそれは、叶わなかった。
 訪れては、消えて行く人々。
 目の前を通り過ぎるだけで、誰も了と留まる人はいなかった。期待しつづけた、親子と言う関係は、得られなかった。
 都合のいい愛情は、了を混乱させ、愛情の不確かさを教えた。入れ代わり立ち代り現れる大人たちも、愛情はうつろうものだと、教えていた。
 まるで、水に映る光のように。
 都は、了がよく、水溜りやプールの水を眺めていたことを思い出す。あれは、水ではなくて光を見ていたのではないだろうか。
「ねぇ高明。約束の定義、知ってる?」
「約束の定義?」
「そう。了に、聞いてみなよ」
 都はそう言って、おもむろに高明に口付けた。ほのかに甘い、イチゴミルクの味がした。

 一人教室に残されて、高明は無意識に唇に触れた。
 甘い、香り。
 都はこうやって時々、高明に口付ける。でもそれは、悪戯のようで、高明に真意を見せない。もちろん、好きだと言ったこともなければ、付き合っているわけでもない。
 高明には、最初わからなかった。
 都の口付けの意味。
――約束の、定義。
「よっ、色男。やるときゃまわりを確認しな」
 そう言いながら笑って入ってきたのは、了だった。
「覗きなんて、趣味悪いな」
「タイミング、逃がしたんだよ」
 苦笑に近い笑みをみせた了から、高明はふいと視線を逸らした。外はもう、暗くなり始めている。その薄暗い空気の中で、了の白さがぼんやりと浮かんで、高明はそれを直視できなかった。
「話、聞いてた?」
 ジュースの残りを、音を立てて吸い込むと、高明はそのパックをごみ箱に投げた。緩やかな曲線を描いて、パックは小さく音を立ててごみ箱に吸い込まれた。
「途中からね」
 了は高明を見ずに、窓に近寄った。鍵を上げて窓を開けると、空を見上げる。
「雨、降るかなぁ」
 外の風は強く、冷たくなっていた。突風のような風に、了は顔をしかめる。
「――俺と都、なんでもないから」
 言うだけばかばかしい気がしながら、それでも高明は言わずにはおけずに、呟くようにそう言った。
「なんでもなくてキスとかしちゃうんだ、高明は」
 了がからかうようにそう言って、普段、了の不真面目さを咎める高明は、何も言えずにため息をついた。
 都が好きなのは自分ではなくて、了だと高明は思っている。それでも自分に口付ける都を、高明は切なく思う。
 了の気持ちが、どこに向いているのかわからない。それが、自分の方を向いてはいないとわかるだけで。それが、たまらなく切ないと、高明にはわかる。
「都はさ、お前が好きなんだよ」
 了が、そう言う。それが、都の逃げ道なのに。
 気付かれたくない思いを誤魔化すために、都は高明に口付ける。きっと、そこに了がいると分かって。口付ける一瞬の、その閉じられた瞼に浮かんでいるのは、自分ではないと高明は思っている。
「違うよ」
「……都が、そう言った」
 言ったかもしれない、と思って、高明はそれ以上反論しなかった。
「都は、いい女だよ、高明」
 そう笑う了の顔が切なく泣きそうなことに、薄暗がりの教室の中では、高明は気付くことが出来なかった。
 真実を阻むものは、たくさんある。
 こんな夕暮れも、自らの、言葉でさえも。

「約束の定義?」
「そ。さっき最後に都が言ってただろ。了に聞いてみなって」
「約束ねぇ……俺の辞書では、パイの皮って変換されてる」
「パイの皮?」
「でかいやつな」
 高明がわからない顔をしていると、了が楽しそうに笑った。それから、少し遠い目をする。懐かしい匂いが、漂ってきた気がした。
 バターを包んで幾重にも重ねたパイの皮は、ナイフを入れると、さっくりと薄く小さな破片を落とす。小さな了は、はらはらとお皿に落ちるその破片を、いつもそっと指にのせる。
 小さな了の、微かな吐息にさえも、その破片は飛ばされそうで、じっと息を詰めていたのを思い出した。
「うまいぜ。アップルパイ。ただし、シナモンなし」
 思い出す匂いには、シナモンの香りはない。
 パイの皮は、破られるもの。
 でもそれは、甘くて、おいしい。



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