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ウソツキ病 後編
ささやき声とか、喘ぎ声とか、どうして微かな音に限って、耳はその音を捉えるのだろう。高明はそう思いながら、ため息を吐いた。
ドアに耳を付ければわかる、嬌声。その声の主が誰かと言うこともわかってしまうのは、どうしてなんだろう。
高明は堪えることができなくて、ドアを思い切り拳で叩いた。
一瞬の沈黙のあとに、誘う声が聞こえる。
「平気だよ…鍵しまってるし。ねぇ、はやく…動いてよ」
甘ったるい声。くすくすと、笑う声。
「ん…あっ、あんっ」
わざと聞こえるようにしているかのような、喘ぎ。
高明の中で、了はこんな風に乱れない。こんな風に、愛撫のすべてに感じているかのように、喘ぎはしない。甘い声は出しても、甘えた声は出さない。
もっと、騙し合い。
違う、もっと…
高明はその白い肢体が浮かんで、頭を振った。それから、いやに重い腕をドアから引き剥がすように離して、歩き出した。
了が、どんどんセックスに嵌っていっているのは分かっていた。
そしてそれを、自分はどうにもできないことも。ただ、言葉で言うしかないのだから。
正論のような、薄っぺらな言葉しかもたない高明は、その言葉が社交辞令のようになっていることもわかっていた。
――届きは、しない。
真実をごまかす言葉は、どうしてこんなにも簡単にもろく崩れるのか、高明には分からなかった。強固にしようとすればするほど、言葉は意味を失い、高明を動揺させる。
「相手、誰か知ってる?」
「都……」
暗い廊下で、ぼんやりとした明かりの下に、都は腕を組んで壁に寄りかかっていた。全体が影に覆われていて、そのせいかひどく疲れているようだった。
あの教室に了がいると教えてくれたのは、都だった。逸らされず、挑むような視線に、確かに違和感を持った。でも、気のせいで済まされることだった。
「科学の武本」
「前からか?」
「……たぶんね」
都はそう言って、諦めたように笑った。
「良いお友達も、いい加減疲れたんじゃない?」
「どっちが?」
何度やめるように言っても、その言葉は届かない。友達だからと、干渉するなと言う。
「私は友達なんかじゃないわよ。どっちかって言うと、お姉さんとか思ってるんじゃない?」
「好きなんだろ?」
「誰を?」
「了だよ」
節目がちに視線を漂わせていた都の目が、上目遣いに、でも睨むように高明を見た。そして、もう一度、諦めたようなため息をついて呟いた。
「本当のことなんて、あるのかなぁ……」
目の前に見えていることも、自分の気持ちも、聞こえてくることも。
全てが偽りでも、驚きはしないと、都は思った。真実も、嘘も、その姿は同じで、区別なんてつくはずがなかった。分かるはずが、なかった。そして、その姿が暴かれなければ、それは、いつまででも同じ――
目に見えて壊れていっているのは了であっても、都も、高明も、僅かであってもどこか壊れていっている。でも誰も、そんなことには気づかない振りをする。
もう誰にも、本当のことなど分からないのではないかと、都は思う。最後に残ったものが、真実になる。それが真実でも偽りでも、もう、どちらでも良くなるのではないか。
疲弊した鉄がある日突然折れるように、どこか嘘が―――または真実が―――耐えられなくなって、そこから折れてしまったら、残ったものが真実か嘘か、一つ一つ検証していくことなど出来ないだろう。
もうそこで、終わりにしたい。
そうなったらそこで、全てを終わりに。
そんな時がくるだろうかと、都は校舎の白い壁を眺めた。
終わりにしたい。
その思いは、祈りにも似ていて、都は自分の気持ちにため息をついた。
「こんな茶番、いつまで続けるの?」
最近のどんよりした天気が嘘のように青空が広がっていて、都は眩しそうに空を仰ぎ見た。小さな雲が一つ、ゆったりと流れている。
屋上には、都と了以外に誰もいなかった。
「授業、どうしたんだよ」
「美術で、校内写生。了の分も持ってきたわよ」
白い紙と12色の絵の具、それから屋上へくる途中で買ったパックのコーヒーを、都は了に手渡した。了はそこから青色を取り出して、その画用紙に塗り始めた。
「茶番って?」
「……聞いてたの」
「聞こえた」
「てっきり聞こえない振りでもしてるのかと思った」
座り込んで絵の具を塗っている了の傍らに立って、都は金網に背を預けた。かしゃり、と小さな音がして、スカートが微かな風に揺れるのが、了の目に映った。
「都だって立派な登場人物じゃないか」
了が、チューブから絵の具を出す。相変わらず、青一色だ。都はそれを眺めながら、ジュースのパックにストローをさした。
「あんたたちに付き合う気なんてなかったのにな……」
最初、初めて高明と会ったときは、こんなことになるとは思っていなかった。確かに、了には良い友人になるかもしれないと思った。
でも――
約束の定義を、了はアップルパイの皮と言った。そう高明から聞いて、都は泣きたくなった。アップルパイは、了の母親の得意なお菓子だった。その母親は、大きな温かいアップルパイと共に了を置いて、どこかへと、行ってしまった。
ママには了しかいない、二人っきりだね、ずっと一緒にいようね、と男に振られるたびにそう言った母親の言葉は裏切られ、了は、一人になった。
どんなに信じた言葉でも、永遠には続かないと、了は知った。
何度も何度も、バターを包んで重ねる。パイ生地を作る母親は、バターと一緒に、そこに何を包んでいたのだろう。
幾重にも。
丹念に、何度重ねても満足できないように、一心に生地を捏ねていた。
自分が嫌いだからとシナモンをふりかけなかった母親のアップルパイは、ひどく、甘かった。
都が、了の隣に座り込んだ。すらりとした足が、投げ出される。
「ねぇ……ウソツキ病、覚えてる?」
「……覚えてるよ」
画用紙の上を、青く染まった筆で何度も何度も撫でながら、了が呟くように答えた。塗り重ねられた色は、もう濃くなっているのか、分からなかった。
中学に入ったばかりの了は、色々な人に、色々なことで嘘をつき続けた。授業をさぼるための仮病から、二股、三股をかけて女の子を騙すと言ったひどく人を傷つけることまで。
それは何かを求めるように必死で、切実な行為だった。少なくとも、了にとっては。
そんなことをして、了のもとに残ったのは、都だけだった。
「了はウソツキ病だから」
都はそう言って、一時期、了の言うこと「全てを」嘘にした。やがて了は都には嘘をつくことを止めた。
「高明には、そう言う人の選別方法はやめろって言われたよ」
了が、顔を上げずに笑った。その横顔がひどく穏やかで、そんな顔の了を見るのは初めてかもしれないと、都はじっとその表情を見つめた。滑らかな顔の線は、どこか少し大人びて、でも、思わず触れたくなるような儚さが見える。人がどんな風に了を抱くのか想像できる気がして、都は視線を逸らした。
了はまだ、筆を動かしつづけている。
高明は、了に何度騙されても、本気で怒り、悔しがり、説教をした。でも、了のもとを離れることはしなかった。
「了」
呼ぶと、了は空を仰ぐように顔を上げて、眩しそうに目を細めた。都はイチゴミルクをごくりと飲んで、そっと口付ける。
ほんの、一瞬。
「高明は甘そうな顔してたけど、了は甘党だから平気ね」
「……お前が一番わかんねぇな」
にっこりと笑う都に、了は眉根を寄せた。でも、それからすぐに、目を大きく見開いた。視線は、都のもっと後方にいっている。都はその了にけげんな顔をして、振り返った。
「おまえら二人してさぼりかぁ?」
呆れたような、高明の顔。
――見て、いたのだろうか。
都と了の中に、その心配がひたひたと侵入した。ドアの音は聞こえなかった。いつからいたのか、分からない。
高明は、変わらない。いつものように微笑んで、いつものように怒っていた。
――気づかなかった振りを、しているのだろうか……
「ちゃんと描いてるよ」
了がそう言うと、高明は近寄ってきて画用紙を覗き込んだ。
一面の、青。
何度も塗り重ねられた、青。
「どれだけ塗っても、下が白いから、どうしても明るい色になっちゃうんだよな」
深い青には、ならない。どんなにどんなに塗りこんでも、紙の元の色は変わらない。
高明は、了のコーヒーを飲んだ。少し、苦い。ただ、漂うイチゴミルクの匂いを消したかった。
それが、甘くて。
とても、甘くて。
「高明?」
今にも降り出しそうな空だった。星は一つも見えず、雲が暗いはずの空をかえって明るくしていた。携帯から聞こえてくるその声も、ひどく不明瞭だった。
遠く、町の喧騒が聞こえている。
「了か?なんだよ」
時計を見ると、今日も終わろうとしている。明日、学校が休みなわけでもない。
「……助けてよ……痛ぇ……」
「え?」
「喧嘩してさぁ。やられた」
「どこにいる?」
俄かに、高明の声のトーンが変わった。その真剣さに、了は満足したようにくすりと笑った。
「なぁんてな。やられたって言っても、男を咥えてただけだよ。痛いどころか気持ちいいことしてただけ」
堪えきれないような笑いが、携帯から漏れた。
「じゃぁこんな夜中に、どうして電話してきた?」
「……真実味があるじゃん」
高明は、携帯を持っていない右手で、前髪をかきあげた。ともすれば泣きたくなる目を、ごまかす為に。
「俺を試すなよ」
こんな電話の頼りない電波に乗せられた言葉を、信じるものかと高明は思った。聞こえてくるのは、微かな息をする音。そして、泣いているような笑い声。
ずっと、こんな風に試され続けた。どこまでいったら満足するのか、わからなかった。それでも突き放せずにいるのは、嘘をつくときの、あの真摯な目を覚えている所為だろうと、高明は思う。今だって、窓の外の遠い闇の中に、はっきりとその目が浮かび上がってくる。
「こんなことで、俺を試すな」
何が真実で、何が嘘なのか。全てが嘘なのか、全てが、本当なのか。
「最後だよ、高明。これで最後にする」
ほんの少しの沈黙のあと、電話は、そう切れた。
窓の外で、雨が降り出した。降り始めの、木々を揺らす一瞬の音がする。
その音に、高明は全てを決めた。
「……馬鹿じゃねぇの」
目に見えるか見えないかと言うほどの細かい雨に、高明はしっとりと濡れていた。その姿に、了は泣き出さないように、言葉を吐き出した。
玄関前に座り込んだ了は、仄かな明かりに見える高明を、見上げた。それから、どうしていいか分からないように、視線をずらした。
その目は少し腫れていて、半袖のTシャツから見える腕にも数箇所の小さなかすり傷がある。座り込んでいるのは立てないからで、喧嘩は本当にあったのだと高明はため息をついた。
「会いたいって、そう言えばいいだろ」
「誰が誰に?」
「了……」
複雑に絡み合っているようで、本当は単純なことだと、高明は雨の中走りながら思った。絡み合っているのは無駄な部分で、大切なところは、きっといつでも真っ直ぐだった。それを隠そうと、了も、都も、高明も、必死になって混乱を招くようなことをした。
一番大変だったのが、自分への、嘘。
見えているのに見えない振りをし、分かっているのに分からない振りをした。それはでも、いつまでも続けられるものではなかった。
ほの暗い廊下は、静かだった。了は立ち上がる気配さえ見せずに、ずっと座り込んでいる。高明は、微かな寒気を感じた気がして、腕をさすった。
「好きだって言ったのが嘘なのか、冗談だと笑ったのが嘘なのか、ずっと考えてたよ」
そう言いながら、高明は了の隣に座った。庇の出た玄関前には、雨は吹きこんでこない。
「……よく家が分かったな」
「都のうちの隣って言ってたからな。都に聞いたよ」
「そっか……」
「もう、終わりにしようって、言ってた」
「……」
「こんな茶番は、もう終わりにしようって」
じっと見つめていると、雨は少しずつ激しくなってきていた。どこかで、雨垂れの音がしている。
了は、家の樋が壊れていたのを思い出した。あれを直すと言っていたのは、誰だっただろう。荒れ放題の庭は、誰が手入れをしていたのだったか……
自分は誰を、待っていたのだろう。
「どっちが、嘘だった?」
「――お前は?」
雨音が、激しい。その音に逃げないように、その音でごまかさないように、二人はゆっくりと、言葉ではなく、口付けを交わした。
都はそっと、窓を閉めた。
「ウソツキの口は、やっと塞がれました」
物語を語るような口調でそう言うと、少し寂しげに笑う。
「二人には、アップルパイでも焼いてあげるかな」
でも、林檎の季節にはまだ早い。奮発しないといけないなぁと、都は呟いた。
了
モドル 前編
こちらは、「ミヤコワスレ」様のオムニバス小説、
嘘の回に投稿した作品です。
他にも色々素敵な作品があるミヤコワスレ様には、リンクからどうぞ!