椿古道具屋 閑話
送り火
縁側に出ると、火照った身体を冷ますというには冷たい空気が漂っていた。だが、身の内にある熱を冷ますには、これくらい冷たい空気が必要だ、と凪は思
う。手足が冷えても、燻る火は炎を消さない。せめて、わずかな熱を持つだけになってくれたらと思うのにーーそれは身を焦がすほどに熱い。
この火は、突然現れたものではないと凪は知っている。いつもは燻っている程度なのに、神馴らしをすると押さえきれないほどの熱になる。だから、凪にとってはやっかい極まりないのだった。
その身の内の火がまるで外に出てしまったように、池の端でぼうっと火が灯った。しかしそれは一瞬で、後には小さな赤い点が残っただけだった。目を凝らす
と、ゆっくりと煙が昇っていっている。それから、甘やかな、だか爽やかさも感じる香りが漂った。灯ったのは、お香だったようだ。
「香枕の供養か」
呟くと、くすりと笑い声が聞こえた。ふらりと、鯉の化身である朱紫さまが現れ、凪の隣に立った。
「察しの良いこと。人間としては、生きにくいでしょうに」
朱紫さまは、いつもの赤い着物姿ではなく、漆黒に近い濃い紫色の着物を着ていた。
凪は朱紫さまの言葉には何もいわず、柱に寄りかかった。
「それほど、あの香枕を知っていたのか」
「いいえ。でも、しばらく虎さまを独り占めにされて、妬いたことがございます」
それなのに、供養か。凪の疑問は、言葉にしなくとも朱紫さまには伝わったらしい。
「これは、あの娘の一途な気持ちに対する贈り物……とでも言えば良いでしょうか」
煙の後を追って、その視線は空へと向かう。つられるように凪も空を見ると、ごく細い三日月が見えた。
「あの香枕を虎さまが手に入れたとき、あの娘は一週間以上、虎さまの呼びかけに答えなかった」
凪は高飛車までのあの娘の態度を思い出す。そうそう簡単に答えるつもりはない、と顎をつんと上げて言う様が見えるようだった。
「自分が枕元に立つのはただ一人……そう、決めていたよう。虎さまは、御霊がいるのに全く答えないことに、何か事情があると不安に思っていらした。なにかとても悲しいことがあるのではないかと、心を痛めていらした。そうしてやがて、荒魂になってしまうのではないかと」
そうなれば、自分がそれを狩らなければならない。だから、虎之介はそうなる前に、香枕を救いたかったのだろう。
「あの高慢ちきな娘が荒魂になるとは思いませぬが。あの頃、虎さまは神馴らしに疲れていたのかも知れませぬ」
朱紫さまはそう言って、少し悲しげに笑った。
「神馴らしとは、それほどに辛いものでございましょう?」
ふいに言われて、凪は朱紫さまを見た。何が言いたいのか、はっきり言えと視線で問いかける。
「それなのに、この度の神馴らしは一人でなさろうとした。本当であれば、史朗さまにも知らせず、ひっそりと。なぜでございましょう?」
「……さあな」
実際、なぜと聞かれても凪は答えなどないと思った。ただ、あの高慢な態度の香枕が、深々と頭をさげた姿が思い出された。お願いいたします、と言った声が震えていたことも。
「凪さまも、あの娘の一途な思いにほだされたのでございましょう? ご自分の思いと重ねられましたか?」
口調は丁寧でありながら、この鯉の化身は嫌なことを聞いてくる。朱紫さまはゆったり笑いながら、言葉を続けた。その笑みがどこか哀れんでいる風なのが凪の気に障る。
「凪さまのおかげで、あの娘は思いを遂げられた。それなのに、凪さまは辛うございますね」
史朗とこれから行うことを「罰」だと言ったのはこの鯉の化身だった。今では、確かにあれは罰と言っても良いと思っている。あまりに甘く辛い、罰。
視界の片隅で、お香が燃え尽きようとしていた。だが、凪の身の内の火は、燃え盛ったままだ。この火を鎮められるのは、ただ一人。
絶対、と言った史朗の決意の籠った目を思い出す。決死の覚悟でこの火を消しにくるとはーーなんと哀しく切ないことだろう。本当に、ひどい罰だ。
「俺が不遜だと言うのなら、俺だけに罰を与えればいい。史朗にまで、辛い思いをさせなくても良いだろう」
この鯉の化身に言っても詮のないことだ。だが、凪は訴える先を知らない。朱紫さまはそれを聞いて、ころころとそれは楽しそうな声を上げた。
「凪さまは、余程史朗さまが大事と見える」
凪はそれには何も言わず、笑われるままにした。この何でもわかっている、という顔をする鯉の化身に、誤摩化すようなことを言っても無駄だとわかっている。朱紫さまはひとしきり笑ったあと、その笑みを残したまま、凪を見た。
「凪さまのおっしゃることも、ごもっともなこと。我らも主が悲しむさまは見たくはありませぬ。さりとて、その主が大神さまに愛でられることを止める術などございません」
いっそ憎らしいほどの涼やかな声だった。しかし、内容が内容だった。
「愛でられる?」
「史朗さまを愛いと思っているのは、凪さまだけではありませぬ。そういうことでございましょう」
凪の目が細められる。それを楽しそうに見て、朱紫さまは姿を消した。ぽちゃり、と池が揺れる。軒下の淡い光の下、赤い鯉が泳ぐのが一瞬見えた。
「風邪引くぞ」
不意に声をかけられて、凪は振り返った。史朗が湯上がりの少し赤い頬をしたまま、近づいて来た。それから、何を思ったのか、凪の足に自分の足を重ねて来た。凪は、思わず息をとめた。
「やっぱり冷たい」
身を焦がすような熱を冷ましたかった。だからこんなところにいたというのに、史朗はあっさりと再び火をつけた。吐息のように吐き出した史朗の名に、微かな非難の思いが乗ったとしても、許して欲しいと凪は思った。
これは罰だ、と思っていた。捧げものというのは、比喩のようなものだと思っていた。しかし、本当に、真の意味で捧げものでもあるのだとしたら、凪には余
計に許せることではない。捧げられている先は、朱紫さまが言うところの「大神さま」なのだ。史朗の身が、ほかの誰かに捧げられるーーそれを許せるはずが、
ない。たとえそれが、神さまだろうと。この身に燃える炎の幾ばくかが、その神のものだということなど。
「懐かしい匂いがしていると思ったら、おまえが香枕の供養をするとは思わなかった」
池のほとりにすらりと立った美丈夫は、市松模様の着物袖から、とっくりを出した。「呑むか」と聞かれて、朱紫は「貰おうか」と姿を現した。
「この香の匂いは嫌いじゃなかったからね。それに、これでもあの娘の高慢ちきな態度が結構気に入っていたんだ」
朱紫はそう笑って、お猪口の酒を呑む。
「あのなかなか出てこない娘をどう引きずり出すか……楽しかったねえ」
香枕は、他の娘神と違って、みんながわいわいと話していても出てくることはなかった。朱紫はそんな香枕を怒らせては、出てこさせるのが得意だった。
「まったく歪んだ愛情表現だな」
市松は呆れたようにため息を吐いた。
「それで、あの斎庭の息子もからかって遊んでいるのか」
とぷり、と朱紫のお猪口に酒を注ぐ。朱紫はその手元を見ながら口の端をくっと上げた。
「なんじゃ、市松こそあの男を嫌っているかと思っていた」
「好いちゃいないさ。でもまあ、史朗の片割れとしては悪くないかと思い始めてる」
ちらりと、背後の障子を振り返る。今頃、二人は閨の中で「お礼」をしていることだろう。
朱紫は自分も同じようにその視線の先を見ながら、ふうん、と言った。
「なんだ? 不満か」
「あやつが不遜なのは変わらぬからな。虎さまが認めていなかったら、斎庭の息子じゃなかったらーーここになど入れてやらんわ」
まして、あんな風に敬ったような話し方もしない。それはひとえに、虎之介の跡を半分だろうと継いでいるからである。
「それで、あんな意地悪か?」
「意地悪? 親切にも教えているだけではないか」
朱紫は心底心外だとでも言うように、笑った。
「だが、全部を教えていない」
「なんでも教えてしまっては、ためにはならん。あやつもまだまだ若いからの」
ころころと、今度は声を上げて笑う。言っていることは立派に聞こえるが、市松にしてみれば、やはり意地が悪いの一言になる。
何も、凪の嫉妬心を煽るようなことをしなくても良いだろう。「罰」というのは良い得手妙だと市松も思う。そうした一面もあるに違いない。しかしーー。
「虎の奴は良く言っていたけどな。大神は、あれでいたずら好きでお節介だ、ってな」
言うと、朱紫は今度はくつくつと絶えきれないように笑いをこぼした。
「しかし市松、それをあの斎庭の息子に言ってみよ。それこそ激しく怒るだろうて」
本当に、本当にお節介だと、言うだろう。
そう言われて、市松は確かに、と笑ったのだった。