椿古道具屋 第三話
枕の神さま 11
ひんやりとした風を感じて、史朗は目を覚ました。昨夜眠りについたついたときには、傍らには温もりがあった。だが、今見えるのは襖から覗く便利水様たちだけだった。
「しろ、がっこ」
そう言って、時計を見せてくれる。もうすぐ8時だ。今から自転車で行けば、間に合う時間だった。
正直、学校に行く気分ではなかった。昨日のことで身体がだるいこともあるが、気持ちが萎えている。昨晩の神さまへのお礼は、身を焦がすような熱と快楽と、悲しい気持ちしか残らなかった。
「凪は?」
「がっこー」
便利水様たちは歌うように言う。それから、しずしずとお茶とおにぎりを持って来た。
凪がいないのは助かった。どんな顔をしたらいいのかわからなかったからだ。昨日の自分の気持ちの整理がつかない。それがどんなものなのかさえ、史朗にはわからなかった。なぜ悲しいのか、名を呼ぶなと言われ、なぜ切ないのか、わからなかった。
わかっているのは、一つだけだ。
凪にとっては、お礼も苦しく辛いことの一つなのだ。抱きたくもない史朗を抱かなければならない。だから、名を呼ばれたくないし、名を呼ばない。そして、顔を見ないような抱き方をしたのだ。
「嫌がることがお礼になる、か」
市松様の言葉を思い出す。その言葉が、ひどく重く煩わしく思えた。
それでも史朗は、なんとか学校に行った。ごろごろしていても、悩み煩うだけだからだ。そんな調子だったから、授業に身が入るはずはなかったが、それでも
気晴らしにはなった。でも、放課後には結局椿屋に戻って来てしまった。しかし、それを後悔することになる。店先に、草加がいたのだ。
「もう終わっただろ」
今更なに? と言う意味を込めて聞いたのだが、草加は「礼を言おうと思ってさ」と意外なことを口にした。
「この間、神鳥が鶴屋に泊まっただろ? そのとき、椿のメールアドレスとか、消せって言われちゃってさ」
だから、携帯では連絡が取れなくなった、と言う。史朗には初耳だった。
「相変わらず、神鳥は椿に関しては過保護だよ」
そう、笑う。長く話をするつもりのない史朗は、店の中に草加を入れるつもりはなく、店先での立ち話となった。
「過保護って……」
「変な虫がつこうとすると、排除するじゃん」
そう言われても、史朗には実感がない。そもそも中学のときなどは、あまり接点がなかった。
「そう思ってるのは椿だけ、ってことだよ。でもまあ、それで良いのかもな」
草加は近くの自販機で、ジュースを奢ってくれた。これがお礼って訳じゃないけど、と言い訳をしながら。
「結局さ、じいさんはあの箱枕を探してたってことだよな。俺たちは踊らされただけ」
前から喰えないじいさんだったけど、最後まで踊らされたなーと言う。ただ、言葉とは裏腹に、さっぱりした表情だった。
「遺産については、納得してるんだろ?」
「まあね。富山のおじさんは面倒見てるのも自分たちだし、こっちには一銭もやらないって勢いだったから」
「お金があるっているのも大変だな」
史朗が正直なところを言うと、草加は面白そうに笑った。
「あの箱枕、結局じいさんと一緒に燃やしちゃったけど、そんなに大事だったのかなって今になって気になってさ」
草加の言葉に裏はないように思えた。今更あの香枕のことに興味を持ってどうするのかわからないが、その目は祖父を懐かしむようだった。
香枕様の話をすることはできないが、昔からのもので、火事で手放した話をすると、草加は「なるほどね」と頷いた。
「俺は知らないけど、ばあさんの形見に似たものだったんだな」
香枕様は姫神様だ。史朗はそんなことは考えなかったが、焼け残ったものが少なかったと聞くと、実際思い出の品だったのかもしれない。
「あれ、あの引き出しには本当はお香を入れるんだろ? 昔、お香はばあさんが選んでたって聞いたことがある。そもそも、あの柄とか大きさは、女の人のものだって」
確かに、あの枕は少し小さかった。それに、紅が使われていて、華やかでもあった。香枕様は、当たり前かもしれないがその依り代と雰囲気はそっくりなのだ。姫神様なのだから、あれは女性向けだったと今更ながら史朗は知ったのだった。
「聞いたところによれば、あれは初代がその奥さんに贈ったものらしいよ。それが代々、受け継がれてる。なんでも、奥さんが選んだお香を入れて寝ると、ときどき良い夢が見られるんだってさ。それで商売が上手くいったこともある、なんて嘘か本当かわからない話も残ってる」
夢告げだ。女性用なのに、男主人の夢にしか現れていなかったとしたら、面食い好きの香枕様らしい、と史朗は思った。
「そんなことなら、ばあさんが選んだって言う、お香を入れてやれば良かったな」
ふとそう呟いた草加に、史朗はようやく胸のつかえがおりた気がした。遺した財産だけを見ている草加たちに、あまりに喜三郎が哀れに思えたからだ。少しは、草加も祖父のことを考えたらしい。
「ま、じいさんの最後の願いを叶えてくれたんだ。ありがとう」
ぽんっと肩に手を置かれた途端、「手を離せ」と尖った声が聞こえた。振り向かなくてもわかる。凪だった。
「怖いなあ。ほら、過保護だろ?」
草加がそう笑う。最初から、凪は草加を信用していなかった。確かに祖父が死んだなどとひどい嘘をついたが、良いところもある、と史朗は思う。
「神鳥に嫌われたいわけじゃないから、帰るよ。今度は純粋に、ここの骨董品を見せてよ」
草加はそう言って、帰っていった。凪は最後まで、そんな草加を睨んでいた。
「そんな怖い顔しなくても。草加、香枕のこと調べたみたいだ。おばあさんの、つまり喜三郎さんの奥さんの形見みたいなものだったんじゃないかってさ」
史朗はそう言って、椿屋の中に入るよう凪を促しながら、さっきの話を繰り返した。
「だからさー、草加もそんなに悪い奴じゃないって」
言うと、呆れたようなため息をつかれた。
「あんなことに巻き込まれたのに、まだそんなこと言うのか」
「まあそうだけど……」
今回のことで一番「巻き込まれた」のは、凪だろう。史朗は昨晩のことをまた思い出して、口を噤んだ。
凪は昨晩のことなどなかったかのように、お茶を飲んでいる。今日もおやつは羊羹だ。
これが正解なのだ、と史朗も思う。凪ひとりの肉体的な苦しみや痛みを避けるためには、あのお礼はしなければいけない。神馴らしを正しく行う、ということを考えると、やらなければいけないことなのだ。
あれはただの儀式だ。神さまへのお礼なのだ。済んでしまえば、なかったことにすれば良い。
痛むのが自分の胸だけならばそれが正解なのだと、史朗もあらゆる気持ちに蓋をして、なかったことにすることにした。
そんなことは、出来ないとわかっていても。
第三話 完