* 02




椿古道具屋 第一話

懐中時計の神さま 01


 椿虎之助が永遠の眠りについたとき、外では雪が降っていた。庭の赤い椿の花にそっと降り積もっていく雪は、「まるで天からお布団を掛けてもらっているみたいね」と彼の末の娘が言ったほど、優しい綿帽子のような形をしていた。ゆっくりお休みなさい。天は泣く代わりに、そう言っておじいちゃんを迎えてくれたのね、と続けた彼女の言葉に、親族一堂頷いて、どこか安らかな気持ちになった。
 実際、葬式とはこれほど穏やかなものかと、史朗は思ったものだ。ドラマで良く見る、もっとドロドロした親族の争い、なんてものとはほど遠く、みんな始終和やかな、不思議な葬式だった。
 それもこれも、史朗の祖父、虎之助の人柄があってのことだろう。最後まで一人で暮らし、誰にも迷惑をかけなかった。好奇心旺盛で、どこにでも出かけていっていたし、毎日が楽しいと、史朗が羨ましくなるようなことを言っていた。そして、「元気に上手いもんでも食って、酒飲んで、ぐっすり寝てる間にぽっくり逝きたいもんだ」と本人が望んだとおり、前日まで元気だったのに、ぽっくりとあっけなく、この世を去った。苦しんだ様子も見えなくて、穏やかな死顔は、残されたものたちに、悲しむことはないと言っているようだった。
 唯一、親族たちが緊張したのが、遺書を読むときだった。そんなものを残していたこと自体、誰も知らなかったのだ。あれだけ元気だったのに、用意周到なところがおじいちゃんだわ、と長姉、春子は感嘆の溜息をついた。
 遺書は、長々と書いてあるようで、ただ一つ、彼が最後まで道楽だと言っていた、椿古道具屋の今後についてだった。道楽とは言うものの、この古道具屋と家屋を彼がとても愛していたことは、親族の誰もが知っている。だからこそ、葬式もここで行うことになったのだ。
「は? 俺?」
 ――椿古道具屋は、土地、建物、置いてある古道具その一切を、椿史朗に譲るものとする。
 読み上げられた遺書に、史朗は目をぱちりとさせた。虎之助の三人の娘も、その夫や子供たちも、史朗を見ていた。
「なんで?」
 格別、祖父と親しかったわけではない。隣町に住んでいたから、県外に住むいとこたちよりは親交はあったかもしれないが、わざわざ遺産を残してもらうほどではなかったはずだ。
「あんたがわかんないのに、私たちにわかるわけがないわよ」
「えー? 娘だろ? わかんないの?」
 史朗は首を振る母に抗議をしてみるが、末娘である母冬子も、他の二人の叔母も、肩を竦めただけだった。
「なんかね、細かい指示が書いてあるわよ。一つ、史朗がよほど店の維持に困ることがない限り、決して売ったり貸したりしないこと。一つ、建物を改築しないこと。一つ、古道具は、しかるべき主(あるじ)があらわれるまで、売らないこと。まあ、どういうことかしら?」
 娘三人が遺書を覗くが、首を捻っている。だが、一番首を捻りたいのは、史朗だった。
「しかるべき主ってなんだよ……」
「ふさわしいお客さんってことかしら?」
「どうやってわかるんだよ、そんなの」
 さあねえ、とみんな他人事のように首を傾げるだけだ。
「まあ、これで良かったわ。あの店が一番気がかりだったのよ」
「本当よねえ。勝手に処分なんかしたら、怒られそうだったし」
「死んじゃった人に怒られる、もないけどね。でも、祟られそう」
「あー、ありそうね。おじいちゃん、散々言ってたものね。ここを粗末にしたら、末代まで祟られるぞ、って」
 次女の夏子が虎之助の声色を真似て、三人がきゃらきゃらと笑った。この三人は、集まるとすぐ、昔の娘に戻ってしまう。
「えー、お母さんたち、そんなこと信じてるの?」
 春子の娘、今年大学を卒業する果穂の呆れ声に、史朗も他の従兄弟も頷いている。三人娘の夫たちも、少々呆れ顔だ。
「末代っていったら、あんたたちも入ってるのよ。それにね、あながち嘘でもないんだから」
「そうよー。この家、結構色々あるんだから」
 どんな? と好奇心丸出しなのは、中学生になりたての隆介だ。夜中にトイレにいけなくなっても、起こすなよ、と隆介の兄、恭介がにやりと笑う。隆介は顔を真っ赤にして、「そんなこと言ったことない!」と怒鳴った。
「怖い話はそんなにないわよ。隣が火事になっても、奇跡的に無傷だった、とか、洪水になっても浸水しなかった、とか。有り難い話が多いんだから」
「でもねえ、あれ、覚えてる?」
 夏子の含んだような声色に、姉妹はもちろん、と頷いた。「なになにー!!」と隆介が身を乗り出す。
「あんたたちのおばあちゃんが亡くなったときの話よ」
 怖いわよ? と目で隆介を脅しているのは春子だ。自由奔放、豪傑な春子は、まだ子供の隆介相手に、まるで同級生のような意地悪をすることがある。よしなさい、と言葉ではなく手で密かに窘めるのはその夫だが、彼女はもちろんそんなことは意に介さない。
「あれ、私が小学校三年のときだったかしら」
「そうそう、あんたが三年、私が五年、冬子はまだ小学校に上がる前だったわね」
「あの日は、雪じゃなくて雨だった」
「冷たい雨でねえ。部屋の中で凍えてた」
 冬ちゃんの手、冷たくて、握り締めてやったわね、と夏子が懐かしそうに目を細めた。
「なんかもう、ただでさえ哀しくて、心細くて……それなのに、お父さんたら、私たちのことなんか忘れたみたいに、寝室に閉じ篭っちゃって」
 春子が「おじいちゃん」から「お父さん」と呼称を変えた。これは本格的に、思い出話に花が咲き乱れるのだと、史朗以下、覚悟を決めなければならなかった。
「あれも、冬だったわねえ……」
 春子がふいっと、広縁越しに外を見る。思い出話も、おじいちゃんの供養だと囁いたのは、史朗の父だった。


 ――あれはまだ、十二月に入った頃だった。
 春子の声は、静かに部屋に満ちていった。石油ストーブの上の薬缶だけが、湯気の音を立てていた。
 寒い冬だったけれど、雪は降らなかったわね。その代わり、雨は冷たかった。あともう少しだけ気温が下がれば、雪になっていたかもしれない、そんな雨だった。
 お母さんは半年くらい、もうずっと寝たきりで、年は越せないって言われてた。だから、少なくとも私は覚悟してたのよね。一番上の姉だし。それでも、ひっそり、眠るように息を引き取ったときは、哀しかった。白くて、細いあの手が、もう二度と私の手を撫でてくれないんだなあって思ったら、なんだか無性に淋しくてね。
 でも、その淋しさにどっぷり浸かれなかったのは、お父さんのせいよ。私もわんわん声を上げて泣きたかったのに、それより先に、泣き喚いてる二人の妹の面倒をみなきゃならなかったから。もう途方にくれちゃって。頼みのお父さんは、それこそ、お母さんの穏やかな死顔よりずっと、魂が抜けたみたいな顔しちゃって、役に立たなかったんだもの。挙句の果てに、部屋に閉じ篭っちゃうし
 おばあちゃんのこと、愛してたのねえ……と感心したように呟いたのは果穂だ。少し夢見がちな目をしていた。
 そりゃあ、端から聞けば美談かもしれないけど、子供にとっちゃ大変だったのよ。そのうちお腹もすいてくるし、寒いし……。当時――今もこの家にはないけど――エアコンなんてなかったからね。石油ストーブは、一人で点けるなって言われていたし、三人で寒さとひもじさに凍えてたんだよ。それも母親が亡くなったばかりで淋しくて仕方なかったしで、私もとうとう泣き出した。それでも、お父さんは出てこなかったんだよ。
 でも、どれくらい泣いたかねえ……。大して泣いてないと思うけど、突然、部屋にあったストーブが点いたんだよね。あれ、今この部屋にあるあのストーブ、あれじゃなかったかなあ。
 ずっと使ってるもの、そうじゃない? と冬子も頷く。隆介は、ぎょっとした顔でそのストーブを振り返った。
 誰も、近づいてさえいなかったんだよ? それなのに、ちろちろと火が燃え始めた。最初に気付いたの、冬子だっけ? ストーブが点いたって言うから、馬鹿なこと言わないでよって、泣きながら怒鳴ったよね。
 でも、ストーブは確かに点いていた。見たらわかるけど、自分で芯を出して、火をつけなきゃならない旧式のストーブだからね、タイマーなんてものもなかったよ。
 びっくりして、涙がちょっとひっこんだ。だんだん部屋も暖かくなってきて、少なくとも寒さで凍えることはなくなってきたしね。そうしたら、今度はすうっと襖が開いた。
 ほらそこの、と春子が指差したのは、台所に通じる廊下がある、襖だった。隆介は、今度は肩をびくりと震わせた。
 恐る恐るそっちの方を見たら、台所のちゃぶ台が見えたの。ここ、両方の戸が開いてたら、ぎりぎり見えるでしょう?そしたらね――。
 春子はもったいぶるように、その場にいた人たちの顔を見渡した。
 ちゃぶ台の上に、ご飯がのってたの! おむすびとみそ汁――あれは私の好きなお豆腐のみそ汁だった、と夏子が付け足す――それとお新香。湯気が立っててね、美味しそうだった。実際、美味しかったのよ
 そうそう、と冬子も頷く。私の好きだった甘い味噌のおむすび、夏子ねえの好きだった鮭のおむすび、春子ねえの好きだった梅干のおむすび――みんなちゃんとあったの。そう涙ぐんだ。
 美味しくて、温かくて、お母さんの味がした。それで、夢中で食べながら、やっぱり泣いちゃったのよね、私たち。
 あれは、生涯忘れられないご飯だった――。


 三人娘が、その時のことを思い出したのかくすくすと笑った。なんだ、全然怖くないじゃないか、と不満の声を上げたのは恭介だ。
「どうせ、おじいちゃんが作ったんじゃないの、それ」
 馬鹿馬鹿しいとばかりの声に、三人は顔を見合わせた。
「ないわね、それは」
「ないない」
「おむすびくらいなら……って、お米炊かないといけないし。ましておみそ汁なんて、ねえ?」
 くすくす笑いに温かくなった部屋の空気が震える。
「おじいちゃんが作れたはずがないのよ、恭介。あの人、なにしろ家事はまるっきりだったから。大変だったのよ、おばあちゃんが寝たきりになった後は」
「そうそう、鈴音おばさまがいなかったら、私たちなんて餓え死にしてたかも」
 史朗の知る限り、祖父の虎之助は家事は完璧だった。食事だって、きちんと作っていたから、米も炊けないなんて想像もできない。
「それに、言ったでしょ? おじいちゃんは、あの時ずっと隣の和室に篭ってたの。私たち、寒いしひもじいし淋しいしで、早くおじいちゃんが出てきてくれないかって、ずっと聞き耳立ててたのよ? まあ、部屋からこっそり出たのはわからないにしても、台所で何かしてたら、さすがに気付くわ」
「外の細かい雨音も聞こえてたものねえ」
 なっちゃんの歯がカチカチなってたのも覚えてるわ、と春子が笑う。
「じゃあ、誰が作ったんだよ」
 怖々、隆介が言う。三人は銘々首を傾げた。
「さあ、ねえ」
「誰が作ったかもわかんないもの食べたの?」
「あのときは、お母さんが作ってくれたんだ、って思ったのよ」
「死んじゃってたのに?」
 そうなのよねえ、と三人は今度は頷いた。
「私は、お母さんが死んだなんて、またお姉ちゃんたちの嘘だと思ったわ。ひどいって、腹立てたわよ」
「ああ、冬ちゃん、なんか機嫌悪くなってた、そう言えば。泣いてたと思ったらほっぺた膨らませて「嘘つき」って叩かれて訳わかんなかったわ」
 春子おばの性格は、昔から変わらないらしい。普段から、末の妹を騙して遊んだりしていたのだろう。それが想像できて、史朗は小さく頭を振った。
「まあ、そんなわけで、色々あったのよ。それからも、あれがない、これがないって騒いでると、ひょっこりテーブルの上に乗ってたりしたし」
「私は靴下が繕ってあったことあった」
「ハンカチにアイロンが掛かってたりね」
 それには「おじいちゃんがしたんだろう」と夫たちも苦笑する。
「もちろん、おじいちゃんに訊いたことあるわよ。やってるとこ、見たことなかったから。ハンカチは、友達に『なっちゃんのハンカチはぐちゃぐちゃね』って言われたのが悲しくて泣いた翌日だったのよね。でも、おじいちゃんには言わなかったのよ。頑張ってるのはわかってたから。アイロン掛けて、なんて我侭いえなかった」
「私の靴下も。上手く繕えなくて、針で指刺しちゃって、放り投げたのが次の日起きたら、綺麗に縫ってあった」
「それで、おじいちゃんに言ったら、おじいちゃんたらにやにや笑って言ったのよ」
『それは神様の仕業だ』
 三人の声がハモった。恭介は相手にしてられないと、首を振っている。
「ちゃんとお礼しなさいって言われたわねー」
「春ねえはしなかったでしょ。で、お気に入りの筆箱が壊れた」
「なっちゃんだって、買ったばっかりの傘、飛ばされちゃったでしょ?」
 上の姉二人が言い合っているのを、末の冬子は呆れたように見ていた。
「母さんは? 何かなかったの?」
 史朗の質問に、母はにっこり笑って首を振った。
「私は必ず、忘れずにお礼したもの。お礼って言っても、ささやかなものだけどね。貰った飴玉とか、デザートに出た葡萄一粒なんてこともあったけど、感謝を込めてありがとうございますって頭を下げるのは忘れなかった」
 冬ちゃんは素直だったものねー、と夏子が笑う。ある程度年が上だった二人は、虎之助の言うことを信じていたわけではないのだろう。
「そういえばお義父さん、俺が酒だの土産だの持ってくると、必ず神棚にあげてたな」
「お義兄さんのときもですか? 私のときもです。酒のときは、必ず外のお宮にも」
「綺麗に掃除してましたよね」
 義理の息子たちも、懐かしそうに目を細めた。義父と飲む酒は上手かった、と三人が頷き合っている。
「おじいちゃんが本気だったかどうかはわかんないわね。そのうち、大きくなるにつれてそんな不思議なこともなくなったし」
「でも、お宮や神棚を大事にしてたのは本当よ。ほら、ここにもするべきこととして書いてある」
 夏子が差し出したのは、遺書の一枚だった。史朗が覗き込むと、何やら細かく書いてある。
「げー……。面倒だなあ。なんで俺なんだよ」
「一番、暇だから、じゃない?」
「果穂だって暇だろ、大学生」
「偏見よー。そりゃあ暇してる大学生もいるかもしれないけどね。私は忙しい」
「俺は来年受験だし、隆介じゃ小さすぎだしな」
 恭介も頷いている。史朗だって、再来年は受験だ! と言ってみるが、もちろん相手にされなかった。
「まあいいじゃないの。別に、店を盛り立てろって言ってるんじゃないし。ああ、でも、名義変更とか税金とか、どうしようかしら」
 大人たちがわいわい話し合いを始めたので、史朗は溜息をついて広縁に出た。狭い庭は、小さい池もある日本庭園だ。その池の近く、右手奥に、父親たちが言っていた、小さなお宮が見えた。
 ――どうして俺なんだよ、じーちゃん。
 訊いては見たものの、もちろん、答えはなかった。


* 02