椿古道具屋 第一話
懐中時計の神さま 02
椿古道具屋は、開店休業状態の店である。
旅が好きだった虎之助だから、長期休業も当たり前、ふらふらとどこかへ行きたくなれば店を閉めて出かけていたから、そもそもいつ開店しているのか、わからなかった。店は南側に面した、家屋の一部を広々と使っており、八畳ほどの板張りになっていた。そこに、衣装箪笥や階段箪笥、すりガラスの入った戸棚や文机、櫓炬燵などの大きなものから、様々な形のガラス瓶、茶碗、燭台など細かいものが所狭しと並んでいる。壷などもあるが、手動の鉛筆削り器やアルマイトの弁当箱まであるのだから、これは正しく「古道具屋」なのだった。
一体、採算は取れていたのかと史朗などは思うが、そこは「道楽だから」と言うことなのだった。
好きな人には堪らないのかもしれないが、史朗にしてみれば、降って湧いた困った荷物、である。扱いも知らないし、下手をしたらそれが何であるのか、わからないものもあった。正直、遺産だといわれても嬉しくない。誰かに譲ってしまいたかった。
「あんたのものになったんだから、ちゃんと掃除しなさいよ」と渋る史朗の尻を叩いたのは、母の冬子だった。結局、一週間に一度は、ここに来ることになった。隣町といっても、さほど遠くはない。自転車なら片道二十分。バスなら十分だ。史朗は高校まで十五分、自転車を漕いでいるから、大して変わりはない。その上、隣町にあるはずのその高校からなら、五分もあれば来られることを発見した。「水穂高校は、水穂町の辺境にある」と嘆く級友の言葉も嘘ではなかったのだ。
とりあえずは、家屋の掃除のみをすることにした。店のことなどわかるわけがない。その上、どの商品にも値段が付いていないのだ。あちこち探してみたが、値段表のようなものもなければ、仕入れ伝票なんてものもなかった。
「これで三百円くらい?」
史朗は黒い茶碗を持って、眺めてみた。ご飯茶碗にしては底が丸すぎると思った途端、「馬鹿もんが! 三百円とは何ごとだ!」と大声が耳元で響いた。
驚いて、思わず茶碗を落としそうになった史朗は、恐る恐る振り返った。さっきまで、誰もいなかったはずだ。表の戸も閉めている。客が入ってこられるわけがない――。
確かに、そこには誰もいなかった。だが、空耳であるはずもなかった。何しろ、怒鳴り声だったのだ。
ふと、今度は自分の正面に空気の揺らぎを感じて、史朗はロボットのようにぎこちなく、顔を戻してみる。
そこには果たして、白い短髪に、白い口ひげをもじゃりと生やした、紋付袴の老人が、漂っていた。
そう、漂っていた。足を組んで、手には杖を持っていたが、目線は史朗と同じ高さだったのだ。
「わ、わーっ」
「落とすでない!」
思わず茶碗を放り投げて逃げそうになったところで、一喝される。おかげで、茶碗をしっかりと抱き締めたので、割るという最悪の事態は免れた。
「おまえさん、もうちょっと大事に扱えないかのう。わしは出すとこに出せば、うん千万する、織部じゃぞ。来歴がまたなかなか立派での……」
「おいおい、何千万ってえのは、言い過ぎじゃないか、じいさんよ。その来歴を証明するものがねえってんだから、いっても数百万……いや、三桁やっとこじゃないのかねえ」
また空気が揺れ、今度は屈強な筋肉に覆われた、少々粗野な感じを受ける男が現われた。顔には髭まで蓄えている。だが、下半身は青と白の、市松柄のそば猪口に納まっていた。
「うるさいぞ、市松の。自分が大した金額にならないからといって、僻みは醜い」
「金のことをすぐ持ち出す方が、品がねえと思うが」
「いくらの値がつくか。それも一つの価値じゃろう」
「そうかあ? 虎の野郎は良く……」
「ちょいとあんたたち、そこのお兄さん、腰抜かしちまってるよ。ほら、じいさん、あんたをしっかり抱いてる。どうせなら、あたいを抱いて欲しいもんだねえ」
ちゃらり、とかんざしの赤い珊瑚が揺れた。そこから、するりと赤い着物を着た色っぽいお姉さんが現われる。髪には同じ、珊瑚のかんざしが挿してあるが、後れ毛がさらりと落ちた。白い首筋に、黒い髪が映える。
「とりあえず、お坐りになったらいかがです」
カタカタと史朗に近寄ってきたのは、木で出来た丸椅子だった。黒光りした、手入れの行き届いた椅子だった。
――ああ、もう駄目だ。
史朗は気が遠くなっていくのを感じた。幼い頃、同じような気分になったことを、薄れていく意識の中で、思い出していた。
「あ、起きたよ」
「起きた」
「起きた」
ぱたぱたと、いくつかの足音が聞こえて、史朗は眉を寄せて頭を振った。ゆっくりと、目を開く。いくつかの知らない顔が、自分を覗き込んでいた。
「ああ、ほら、また気を失ったりしないで下さいな」
ひらりと額に白い手がのる。冷たくて、気持ちがいい。長い髪を後ろに束ねたその人は、安心しなさいとでも言うように微笑んで、そっと湯飲みを渡してくれた。
「重湯です」
その言葉に「あら、お酒じゃないの」と言ったのはかんざしの女だった。襟元が少し肌蹴ていて、目の置き場に困る。史朗は俯き加減にずずずとお湯を啜った。
史朗が寝ているのは、店の奥にある客間だった。周りにいるのは、先ほどの白髪の老人と粗野な男、色っぽいかんざしの女、そして先刻は見なかった、重湯を渡してくれた人だった。
「わたしは、薬箱です。お医者様の真似ごとしかできませんが、みなさまに乞われてしまって……」
困ったように微笑むその人に、史朗は「はあ」としか答えられなかった。まるで「俺は史朗です」というように、「薬箱です」と言われても、どう言うべきかわからない。
湯飲みを畳に置いたとき、ふと視線を感じた史朗が横を見ると、障子が僅かに開いていて、そこから小さな頭が五つ、のぞいていた。着物を着ておかっぱ頭の、子供だった。しっかり立っているようだが、身長は三十センチほどしかない。目が合うと、ぴゅっとその頭がひっこんだ。ぱたぱたと、目が醒めるときに聞こえた足音がした。
「おまえさん、本当にあの虎之助さんの孫かい」
白髪の老人は、どこか祖父の虎之助に似ている。こんな風に快活で、だがもう少し――品はなかったかもしれない。
「はあ」
「さっきから、はあ、としか答えてないよ、この子は。ほんとにねえ、あの虎之助さんの血筋かい」
かんざしの女が溜息をつく。そんなところも色っぽい女だった。
「あの、じいちゃんを知ってるんですか?」
ようやく声を出したところで、知ってる知ってる、と四人が頷いた。
「面白い輩じゃった」
「いい奴だったねえ」
「立派な人でした」
「色っぽいところもあったわ」
それぞれ言ってから、「それにしても似てない」と口を揃える。それは、史朗もよく言われていた。高校生らしく、元気有り余るところはあるが、何しろ史朗は臆病だった。この家の話を母親たちがしていたとき、本当に怖がっていたのは、隆介ではなく史朗の方だったのだ。
「あんた、誰の子? 春夏冬のどれ?」
かんざしの女が、しなりと身体を寄せて、史朗の顔をすっと指でなぞった。背筋が、ぞわぞわとする。
「す、末の、冬子が母です」
「あら、じゃあ虎之助さんと似てもいいのに」
すうっと指が離れていった。赤い唇が、にやりと歪む。そして、流し目を寄越す。
「違いねえ。冬は、大人しそうなくせして、一番豪胆だった」
灰色髪の粗野な男が頷いている。確かに、おっとりとした感じなのに、史朗の母の冬子はよく言えば豪胆、つまりは大雑把な性格をしていた。
「ああでも、冬ちゃんのところでしょ? 旦那が婿養子って」
かんざしさん、と「薬箱」と名乗った人が窘めた。だが、史朗は気にしていなかった。
なにしろ、「椿って苗字をなくすのは嫌だわ」と言った母に、婿養子になればいいと提案したのは、父本人なのだ。ちょうど独立して事務所を構えようとしていた父は、平凡な苗字の自分の名より、「椿建築事務所」の方がインパクトもあるし美しい、と言ったのだった。そんなわけで、史朗も椿姓を継ぐことになった。
「だいたい、あの三姉妹の旦那とくりゃあ、誰だって小さくなるってもんよ」
そう笑ったのは髭の男だ。それには、誰も反対意見を述べなかった。もちろん、史朗も。
とりあえず落ち着いてきた史朗は、起き上がることにした。気を失ったのだと思うと、情けなく、起き上がるタイミングを逃していたのだ。
「あの、お世話かけてすみませんでした。ありがとうございました」
布団に手をついて、そう頭を下げると、四人はぽかんとした。それから、にこにこと笑って、
「その律儀なところは、確かに虎之助さん譲りですね」
と頷きあった。
「とにかく、新しい主が決まったってことだよね? 今夜は祝だね」
うきうきと、かんざしの女が立ち上がる。それにつられるように、みんなが立ち上がって、いそいそと台所がある方角の廊下に向かった。「かまど様が美味しいご飯を用意してくださるってよ」「まあ、本当ですか? それは楽しみです」などと、はしゃいでいる。史朗は慌てて、その四人を呼び止めた。
「あのっ、あなた方は一体……」
すっと止まって、紋付袴の老人が振り返った。
「わしらか? わしらはのう、あれじゃ。八百万の……」
「やおろずの?――って、じゃあ、神様?」
老人がにっこりと笑う。その三日月の目もふくよかな頬も、確かに、福の神の笑顔に似ていた。