web electro index * 02
□ibuki 01:http://recipe.electro.xx
呼び出されて部屋に行ったとき、彼女は、今にも泣きそうな顔をしていた。途方に暮れて、まるで今にも世界が終わってしまうかというような、悲壮な表情だった。
イブキはあまり広くないキッチンの惨状をちらりと見て、彼女のその顔のわけを悟った。固まりかけたチョコレートが、色々なところに飛び散っている。そして、それと見分けがつかないほどの物体が、テーブルには鎮座していた。
「ご利用ありがとうございます。web electro料理担当、イブキです」
たぶん、キャリアウーマンと言っていいだろう。呼び出した客はすらりとした美人だった。いかにも仕事が出来そうな雰囲気だ。だが、イブキの挨拶にすぐには答えられずにいる。彼女はエプロンこそ付けていたものの、着ていたのはスーツで、仕事から帰ってきて大急ぎで支度に掛かったのがわかった。でも。
キッチンの惨状が、彼女の努力の結果を物語っている。そして何より、その泣きそうな顔が。
「――助けて。時間がないの。今日中に、どうしても渡したいの」
悲痛な声だった。時計は午後八時を回っている。今日は世間が浮かれる、二月十四日、バレンタインデーだった。
とにかくチョコレートだらけだった手を洗わせ、使った道具もキッチンも綺麗にして、落ち着いたところでイブキは彼女の名前を尋ねた。そんなことも言い忘れていたのかとひどく恐縮しながら、彼女は鈴野と名乗った。
「さて、大丈夫ですよ、鈴野さん。まだ時間はあります」
イブキがにっこりそう微笑みかけると、鈴野は不安げな視線ながら、縋るような目をした。もう一度、安心するように頷きかけると、やっと少しほっとしたようだった。
「さあ、何を作りますか?」
「あの、できれば、ケーキみたいなものが良いいの」
イブキはテーブルに置いてあったものを思い浮かべた。確かに、チョコレートケーキらしいものではあった。
「では、そのままずばりのチョコレートケーキにしましょう」
足りない材料は、web electroで買ってもらうことにした。何が必要か挙げるイブキの声を、鈴野はとても真剣に聞いている。イブキも今日この日の手作りチョコレートケーキが意味するところは十分にわかっていて、口は出すが手は出さないことにした。
鈴野はとても謙虚に、わからないことはすぐに訊いてきた。そして、なんとか出来上がったケーキを見て、心底嬉しそうな顔をした。
「ありがとう、イブキさん。本当にありがとう」
デコレーションのない、素っ気ないケーキではある。でも、色艶も美味しそうだったし、何よりこれほど愛情かけて作られたのだ。きっと美味しいに違いなかった。それをイブキが言うと、鈴野は恥かしそうに微笑んだ。
「そうよね。本当は、それが一番大事なのよね……。私、なんだか見栄張っちゃって、すごいもの作ろうとしてたから悪いんだわ」
それから鈴野は、ぽつりぽつりと自分のことを話した。
イブキの想像どおり、鈴野は広告会社に勤めるキャリアウーマンであり、ケーキを渡す相手はその部下なのだと言うことだった。日頃の上司としての完璧なイメージを壊したくなくて、料理が全く出来ないにも関わらず、チョコレート作りに挑戦してしまったのだ、と鈴野は自嘲気味に笑った。
「それと、人の噂って言うか、そう言うのを聞いちゃったこともあるんだけど。私、全然家庭的じゃないって」
仕事場なのだから当たり前だ、とイブキは思った。鈴野も「そうなのよね。でも、すごく悔しくて」と言った。
「私も馬鹿みたいに負けず嫌いだから。それに、やっぱり好きな人には女らしいところ見せたくなったのよね。女だからって言われるの、すごく嫌いだったのに」
ほんと、人の気持ちってままならないわねー、と鈴野は笑った。
「今日もね、その部下の男には残業言いつけて帰ってきたの。もちろん、必要な残業だったんだけど、でも、手助けもしないで帰ってきちゃった。バレンタインなんて忘れてたのに、義理でもその子がチョコレート貰ってるの見たら、なんか、居ても立ってもいられなくて」
はにかむ鈴野は、とても可愛らしいとイブキは思った。多分まだ残業してるだろうから、今から夜食変わりに持っていくのだという。時計はもう、十時を過ぎていた。
「じゃあ、早く行かないと。きっと待ってますよ」
それはないだろうなあ、と鈴野は笑いながらも立ち上がった。
「きっと鬼上司! とか罵られてるのよ、今ごろ。でもいいの。凄く久しぶりに、誰かに何か作りたいって思ったから。向こうはきっと私のことなんて嫌な上司としか思ってないかもしれないけど、それでもいいってなんだか思っちゃったのよね、今晩は」
仕事での鈴野などわかりようがないから、イブキは何も言わなかったが、嫌な上司とはきっと思われていないだろうと思った。ほんの少し、ケーキ作りを教えただけだが、彼女は謙虚で人の話はきちんと聞く人だとわかった。そして、心から感謝の意を述べられる人間だとも。
「鈴野さん、すごく慕われてそうですよ?」
「はは。そんなことないわ。やっぱり、男に負けられるかって思ってるところあるし、だからきついこと言うときもある。今日だって、これ持っていったら、仰天されると思うわ」
鈴野はそう言ってから、ふいに迷うような表情になった。
「そうよね……。手作りケーキなんて私の柄じゃないわ……」
綺麗に整った爪が、ケーキを入れた箱を軽く弾いた。
「柄とか、関係ないでしょう? 作ってるとき、鈴野さん、すごく真剣だったじゃないですか。そっちの気持ちの方が大事だと思うけど」
あの鈴野の表情を見ていたイブキは、率直にそう言った。二人の関係は鈴野の話だけではわからない。でも、そうしてできたこのケーキを相手に渡さないのは、もったいないと正直に思った。
「そうね。柄とか言ってるのが悪いのよね。私、ずっと、なんで仕事場で出会っちゃったんだろうって思ってたの。そうじゃなかったら、もっと素直になれたのに、とか。でも、仕方ないのよね。出会わなかったよりいいわ」
鈴野は何か決心したように、頷いた。こう言うときの女性の顔は、ひどく輝いているとイブキは思う。料理担当をしていると――中でも菓子作りはイブキの得意とするところだ――こう言った女性に会うことは良くある。それがイブキをいつも励ましてくれた。
「よし、行って来る」
鈴野がケーキの箱を手にした。イブキは激励を込めて、頭を下げた。
――本日は、ご利用ありがとうございました。
最後の客となった鈴野のところからweb electroの担当控え室に戻って来たときは、時刻は十時半を過ぎていた。昨日今日は、料理担当はいつもより忙しい。出来るなら残業を、とスケジュール担当にも言われていて、イブキは昼からずっと仕事をしていた。
「はい、イブキです」
帰ってきた途端にスケジュール担当から連絡が入る。お疲れさん、と労わる声に、イブキもほっと息を吐いた。
『いやー、助かったよ。やっぱりこの近辺は忙しいな』
「クリスマス、お正月って忙しかったのが終わったと思ったら……ですもんね」
『そうだな。これで少しはゆっくり出来るんじゃないか? とにかくお疲れさん。今日はもうあがっていいよ』
イブキはちらりと時計を見て、一瞬答えに詰まった。
――まだ今日は、あの男から呼ばれていない。
別に毎日呼ばれるわけではない。だが、前回からもう一週間以上経つ。そろそろ呼ばれてもおかしくなかった。
今日この日ってことはないか……。
あの男は、愛想はないがもてそうな顔はしている。身長もあるし、身体も鍛えているようだったから、女は放っておかないだろう。そう言えば、最中に何度も電話が掛かってきたり、女らしき訪問を受けたこともあった。そのどちらも、男は無視していたが、それだけ慣れているということなのかもしれない。
イブキは何か期待したような自分に自嘲して、「わかりました。ありがとうございました」と頷いた。
「イサさんもあがり?」
『ああ、もうしめようかと思ってる。駆け込みはあるかもしれないけど、あとは夜勤で何とかなるだろ』
「じゃあ、お疲れ様でした」
お疲れー、とイサが言って、通信が切れる。バレンタインデーもあと一時間少し。これからチョコレートを作ろうと言う人もそういないだろう。
――バレンタイン、ね。
一週間前辺りから、呼び出される理由の大半がこの日のためだった。美味しいチョコレートはどれか、という相談から色々なチョコレートの作り方まで、毎日甘い匂いに囲まれていた気がする。だが、イブキ自身には関係ないことだった。
毎年、この時期は他人のためのケーキ作りに手一杯だ。バレンタインデーは仕事。それがここ数年の、イブキの過ごし方だった。
「あ、イブキ。お疲れ様」
控え室から出てロッカールームに入ったところで、声を掛けられた。イブキは出かかったため息を飲み込んで、顔を上げた。同じ料理担当のユーゴだった。
「ユーゴもお疲れさん。同じシフトだったよな。って、あれ? あがりじゃないのか」
「え、あ、うん。もうあがるけど……」
少し顔を赤らめたユーゴに思い当たることがあって、イブキは微笑んだ。
「例の人のところに行くのか。で、そのままあがり?」
人見知りが激しくて大人しかったユーゴが、最近明るくなって積極的に色々な分野の勉強をしているのは、とある一人の客のおかげだと、料理担当なら誰でも知っている。
ユーゴはもっと赤くなりながら、こくりと頷いた。
「で、これからチョコでも作るの?」
腕に抱きかかえたチョコレートの束を指差すと、ユーゴは「あ、これは違うんだ」と首を振った。
「あの、お客さんが買いすぎたからってくれたというか……その、その人自身は甘いもの嫌いとかで」
押し付けられた、ということだろう。ユーゴらしくて笑ってしまう。
「あ、ねえ。イブキも少し持ってかない?」
「みんなに配れば?」
「それがさ……」
困ったように見せられたチョコレートは、菓子用だった。普通に食べられないことはないが、ここweb electroでは美味しいチョコレートはたくさんある。せっかくなら菓子を作った方がいいだろう。イブキはなるほどね、と頷いた。
「厨房にあげるには少ないし。だから貰って?」
差し出されたチョコレートを、イブキは苦笑しつつ貰った。正直、今日はもうチョコレートは勘弁、という気分ではあった。それはユーゴも同じだろう。
ユーゴは良かった、と言いながらロッカーにそれを置いた。控え室に戻る背中は幸せそうで、思わずイブキはため息を零しそうになる。
正直、羨ましい。
ユーゴを見ているだけで、相手がどれほどいい人なのかわかる。噂でも、包容力も優しさもある、大人の人だと言うことだ。
そんな相手を望むわけじゃない。完璧な恋人が欲しいなんて、贅沢は言わない。
ただ、辛くない恋がしたい。
例え片想いだとしても、振られるにしても、身を引き裂かれて壊されるような思いばかりを抱く今の恋は、イブキには辛すぎた。
一体それを、恋と呼んでいいのか――。
イブキはその男の名前さえ、知らなかった。
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