web electro index 01 * 03
□ibuki 02:http://recipe.electro.xx
 もうしばらくはチョコレートなんて見たくない。
 そう思ったのに、部屋に帰ってから急にチョコレートケーキを作ろうと思ったのは、ユーゴに貰った板チョコが目に入ったのと、最後の客の、鈴野の顔が思い浮かんだからだった。とても真剣に、でも幸せそうな顔をして、ケーキを作っていた。
 冷蔵庫には卵もバターも常備してあるし、アーモンドパウダーもある。鈴野に教えたのと同じケーキを作ろうと思った。
 材料を量って、お湯を沸かす。オーブンを温め始め、それから、チョコレートを包丁で刻んだ。
 その男と会ったのは、もう一年前になる。珍しく初めてweb electroを利用した客だった。そのサイトの入り口のページには、料理の項目はないから、全く初めての客にはほとんど当たらないのだ。
 それなのに、その男はあまり驚いた様子ではなかった。いつも変わらない、冷たい目を眇めてはいたが、パニックになったりはしなかった。決り文句の挨拶を言ったイブキに、ふーん、と言っただけだった。それから、
「飯、何か作って欲しいんだけど」
 と投げやりな感じの口調で言った。
 最初から、不遜な態度だった。イブキもweb electroに来てもう三年が経つから、それくらいで驚いたり怒ったりはしなかった。サービス担当に尊大な態度を取る客はままいるのだ。
 イブキは「何が食べたいのか」「材料はここにあるものを使えばいいのか」「好き嫌いはあるか」と質問を投げかけたが、男からは「何でもいいから、勝手にやれ」と返事が来ただけだった。そして、男はキッチンにいるイブキを全く無視して、テレビを眺めていた。
 その後男が口を開いたのは、食事が出来て、イブキが帰ろうとしたときだった。それも一言、「まだいろ」と言っただけだったが、イブキは大人しく座って、男の食事が終わるのを待っていた。
 男は無言だったが、食べっぷりは良かった。箸使いが格別綺麗なわけではないが、とても美味しそうに物を食べる。顔は相変わらず無表情で何を考えているかわからないのに、男が食べているのを見ると、自分もなんとなく食べたくなる。不思議だった。
 男は、用意したものを全て、綺麗に平らげた。その食べっぷりが嬉しかったイブキは、つい出来心で「お茶でもいれましょうか」と言ってしまった。男はまた目を眇めて睨むようにイブキを見たが、「コーヒー」と一言返事をした。
 あれが間違いだったのだろうか、と今になってイブキは思う。あの日のことを思い出すたびに、いつもそう考えてしまう。
 それほど固くないチョコレートは、さくさくと刻めた。バターも小さく分けてから、お湯を慎重に大きなボールに入れる。それより一回り小さいボールに刻んだチョコレートとバターを入れて、大きなボールに浮べて湯煎した。
 それをときどきかき回しながら、卵を白身と黄身に分ける。黄身の方に砂糖と一匙の小麦粉、アーモンドパウダーを入れて、混ぜる。そこに、湯煎で溶けたチョコレートとバターを混ぜ合わせた。
 あのとき何故、自分はあんな不遜な態度の男に茶を淹れようなんて思ったのだろう。何故それを、言ってしまったのだろう。
 イブキは残った白身を泡立て始めた。泡だて器で、丁寧に泡立てる。面倒なときは電気のものを使うが、何かを作り上げる実感が欲しいときは、イブキはわざわざ自力で掻き混ぜる。いつもなら一心にできる作業はでも、今夜はイブキの頭を空にはしてくれなかった。
 あの日、コーヒーを淹れた後、カップをテーブルに置いて、今度こそ帰ろうと思っていたイブキの手を男は掴んだ。ひどく冷たい手で、どきりとした。
「細いな」
 男の呟きに、聞き返そうとしたイブキは、瞬間近くのソファーに押し倒されていた。
 抵抗はした。でも、どこかで流された。
 イブキにはその自覚があって、だから男を憎みきれなかった。それどころか、再び呼び出されたときに、拒否することもなかった。
 呼び出される度に、何か食事を作り、コーヒーを淹れ、抱かれ。それでもなお。
 男の客番号を拒否リストに載せることもしていない。
 イブキのシフトの関係で出られなかったときに、男が酷く怒って、呼び出されたこともある。オフの間の呼び出しは非常時であることが多いし、どんな理由であろうと担当に拒否権はあるのだが、イブキはそのときも出て行った。
 なぜだろう。
 泡だて器を持ち上げて、白身の固さを確かめる。角が立つくらいといわれるまで、後少し。イブキは再び白身を掻き混ぜる。
 なぜ、拒否できないのだろう。
 男の抱き方は乱暴ではない。でも、表情はないまま、ほとんど会話らしい会話もなかった。それでも男に触れられると、身体がどうしようもなく熱くなるのは、なぜだろう。しばらく呼び出しがないと、不安になるのは。
 白身が良い固さになったところで、イブキはそれをチョコレートや卵を混ぜたボールに入れた。そっとそれを混ぜて、ケーキ型に入れて、温めておいたオーブンの中に置く。
 ぱたんっと扉を閉めたところで、ふっと息が洩れた。
 しばらくぼーっと、そのオーブンを見つめた。
 男のことは、何も知らない。何をしているのか、年はいくつなのか、名前さえ知らない。だが、洋食より和食が好きで、洋食なら煮込み料理が好きで、ピーマンや玉葱があまり好きではなくて、食後は必ずコーヒーを飲むことは知っている。
 ――意外に、甘いものが好きなことも。
 甘いものは、和菓子より洋菓子が好きなことも。
 全て、この一年間、観察してきたことだ。例え嫌いなものでも、男は出されたものはなんでも食べた。だが、僅かに箸の進み具合が遅かったりして、わかったことだった。
 なぜだろう。
 あの男のことは、そんなことしか知らない。それなのに、なぜ。
 オーブンの中のケーキは、あまりよく見えない。もう何度も作っているが、出来上がりが心配になって、どきどきしてきた。先刻、鈴野が息を詰めるようにオーブンを見守っていたのを思い出す。これでは彼女のことを笑えない。
 ――仕方ないのよね。出会わなかったよりいいわ。
 ふと、鈴野が言った言葉が思い出された。
 イブキはオーブンの中のケーキをじっと見つめた。
 作ろうと思ったとき、これを男に食べさせることなど考えていなかった。でも、作っている間中、イブキが考えていたのはあの男のことだ。
 なぜなのか。
 たぶん、イブキは答えを知っている。
 初めて男がweb electroを使ったとき、検索窓に入れた言葉がずっと気になっていたからだ。たった一言、特別でもなんでもない言葉なのに、その言葉をこの男が打ったのかと思ったら、その孤独を思わずにいられなかった。
 わけもわからない検索サイトで、「手料理」と検索した男の孤独が。
 どうしても、気になって仕方がなかった。


 三十分ほどオーブンで焼いた後、竹串を刺してみたイブキは、ちょうど良い焼け具合にほっとしながらケーキをオーブンから出した。少しすると真ん中がへこむが、このケーキに限ってはそれは美味しそうな状態だと言える。
 時計を見たら、あと三十分で、一日が終わろうとしていた。
 美味しそうだ。食べてみないとわからないが、見た目は上出来だった。だが、これをどうするつもりなのだろう、とイブキは可笑しくなった。こんな真夜中、こんなに甘いチョコレートケーキ。
 行ってくる、と鈴野は出かけていったが、イブキにはそれはできない。相手が呼び出してくれなければ、会うこともできないのがweb electroだった。
「夜勤組にでも持ってくか」
 イブキは一人呟いて、適当な紙パックに型ごとケーキを入れると、私服のまま控え室に向かった。二月になってもまだ寒くて、イブキはファー付きのコートを羽織った。仕事場から離れたい、と遠いところに部屋を借りる担当もいるが、イブキは面倒で近場に小さなアパートを借りている。歩いても五分ほどの場所だ。
 仕事場となっているビルは、いつ来ても明るい。二十四時間体制のweb electroでは、ここは常に動いている。街は外の世界とも変わらないが、ここだけはどこか近未来っぽいとイブキはいつも思う。
 web electroには制服があるが、オフのときは私服でビルをうろつくことも出来る。そもそも、「部外者」はいないと言っていいのだ。
「あれ、イブキどうしたの?」
 顔見知りの担当が、夜中の訪問を不思議そうに訊いて来る。イブキは誤魔化すように紙袋を掲げて、差し入れだと言おうとした。
「イブキ?! 来たのか?」
 ふと名前を叫ばれて、イブキは振り返った。料理担当の夜勤をしていた先輩が、驚いた顔をして立っている。
「え? 来たのかって……」
「いや、何かすごいしつこい客が、イブキ出せって言ってて……お前、すごい残業してたからサービス担当も無視してたみたいだけど――って、おい、イブキ?!」
 しつこい客なんて、イブキには一人しか思い当たらない。呼び出しを掛けて来たのだ、あの男が。
 イブキは慌ててロッカールームに向かった。走りながら、いつも持ち歩きが義務付けられている仕事用携帯電話を取り出して、イブキはその画面を見た。メールが入っている。一応、形ばかりの意向聞きをスケジュール担当が出してきたのだ。だが、イブキは気付かなかった。時間は、ほんの数分前――。
 あの男が、まだごねていたら。
 イブキは急いでスケジュール担当に電話を掛けた。まだ繋がっていれば――。
『イブキ?』
「はい、あの、俺出ます。出られます」
『え? あ、メール見たのか』
「あの、まだ……」
『粘ってるよ。とにかく呼び出せ、連絡しろって。でも、お前、働きすぎだよ今日は』
「大丈夫です。すぐ勤務終了報告になると思うし」
 実際、最近男と会うときは、食事を作り終わった時点で、出せるなら終了報告を出すようにしていた。シフトの時間と合わなくて呼び出しが出来なかったとき、男はシフト表を渡せと言ってきて、今ではイブキのシフトを男はわかっている。会えなくても、イブキは律儀にメールで送ったりしていた。
 ――そうだ。そんなこともしている。
 イブキは、自分の馬鹿さ加減が可笑しくなってくる。すっかり捕まっているじゃないか。
『……わかった。イブキが行きたいならゴーサイン出しとく』
 ありがとう、とお礼を言って、イブキは携帯電話を置くと、急いで制服に着替えた。噂では客のところに飛ばされる時点で勝手に制服になるとのことだったが、それは回線に負担が掛かるらしく、減棒対象になっている。その理由を文書にして提出もしなければならないから、かなり厄介なのだ。
 ロッカールームから、直接ブースに行く。イブキは一瞬悩んでから、紙袋を手に持った。携帯電話には、男のお客様番号が映っていた。すっかり覚えてしまった、八桁の番号。イブキが知っている、男の唯一の固有識別名だ。
 男はまだ待っている。イブキが来るのを、きっと怒りながら待っている。
 ――ちゃんと渡せたら、自分を誉めてあげることにする。
 鈴野が別れる直前に言っていた言葉が蘇る。先のことなんか置いておいて、とにかくこれを渡してみるわ、と明るく笑った鈴野。
 自分は何と言ったのだっけ。
 携帯電話の画面をスキャンさせて、ブースに入る。飛ばされる瞬間、自分が鈴野を励ました声が聞こえた。
 

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