1011  web electro index  *


□Kouhei 12:http://old_books.electro.xx
 真っ直ぐに自分を見詰めてくる晃平に、ミツイは思わず再び手を伸ばした。まだ赤い頬を、そっと触る。思ったとおり熱くて、そっと指で何度も撫でると、晃平が瞬きをした。
 この無防備さが、ミツイは心配だ。目の前の男が、好きだといって、たった今抱き締めたのを忘れたかのような顔が。
 晃平は、ミツイの長い指が冷たくて、気持ちがいいな、と思っていた。さっきされた抱擁は温かかったのに、なぜ手はこんなに冷たいのだろう。
 もしかしたら。あの唇も、冷たいのかもしれない。
「信じろよ。俺は本気で、晃平が好き……」
 ミツイの言葉は、最後まで発せられず、晃平の口の中に吸い込まれた。手を伸ばしていたのはミツイだったはずなのに、いつのまにか、晃平の手がミツイの肩を掴んでいて、唇が重なっていた。
「晃平……」
 そっと離れた唇を、ミツイは呆然として見ていた。これは、どう言う意味にとったらいいのだろう。
「やっぱり冷たい」
「は?」
「手が冷たかったから」
 ぺろり、と晃平が無意識に自分の唇を舐めた。ミツイはもう、あれこれ考えずに、その唇を塞いだ。ぎゅっと抱き締めて、その柔らかい唇も口内も、思う存分味わう。
 もう、ミツイの唇は冷たくなどなかった。それどころか入ってくる舌は熱くて、晃平は頭がくらくらとしてくるのがわかった。
 気持ち悪いどころか気持ち良くて。
 きゅっとあの不思議な色の背広の後ろを握ると、ミツイがふっと笑って、晃平を抱いたまま歩き出した。
「え、あ、おいっ。なんだよっ」
 ずるずると引き摺られるように連れて行かれたのは、ベッドだった。狭い部屋だからすぐ傍にあって、抵抗する間にその上に放り投げられた。
「ミツイっ」
「今さらストップはなしだぞ。誘ったのは晃平だ」
「は?誰がっ」
「その自覚がないところが、俺は本当に心配だよ」
 言いながらも、ミツイはするすると晃平のジャケットを脱がし、ネクタイに手を掛けている。この手の速さは一体なんなのだ。
「ミツイ、こら」
「俺がどれだけ我慢してきたと思ってる?毎回毎回、触ることもできないときだってあって」
 ミツイは口調とは裏腹に真剣な目をしていたが、晃平はひどく不安な目をしてそれを見つめた。
 抱かれたら、終わりかもしれない。
 ミツイの真剣さを、いまだに信じきれていない。でも、それを言ったら、また怒るだろう。
 ふと、今まで買った本を思い出した。薦められた村上龍のエッセイも、野田知祐の本も、どれも自分の気持ちにぴったりだった。緩やかで、大きな世界。それはきっと、ミツイにも通じるものがあるのかもしれない。そして、あの、波の写真集。
 そうだ。あれをもう一冊買おうと思っていた。雑誌形態だから、何度も見ているうちに、どうしても本が傷んでしまうのだ。
「晃平……?何を考えてる?」
 不安そうな目をしたまま、ぼうっと自分を見ている晃平に気付いて、ミツイは問い掛けた。手は止めない。ここは勢いで押さなければ、晃平は落とせないとわかっていた。
「ミツイ……仕事辞めるなよ」
「ん?ああ……辞めたら、晃平に会えなくなるから、辞めない」
 囁くように言って、そのまま耳たぶを齧ると、晃平がびっくりして首を竦めた。さっきよりは抵抗がなくなっていることを考えると、諦めたのかと思う。
「んっ……ミツイっ。な、なんで?」
「何が?」
「だから、辞めたら会えないって……わかんないことが、なんか一杯……」
 うるさい口を塞ぐと、やんわりと抵抗が再び開始された。それでも、なんども啄ばむうちに、晃平もそれに応え始めた。
「説明はあと。大丈夫、まだ時間はあるから」
 口の端に口付けられ、にっこりとミツイが笑う。晃平も、今さら止めるのは辛いと思った。
 手を伸ばすと、ゆっくりとミツイが覆い被さってくる。いつの間にかすっかりシャツまで脱がされていた晃平は、ざわりとしたミツイの服の感触に目を眇めた。
「おまえも脱げ。っていうか、汚すな」
 ミツイのこれは制服だ。これを着て帰らなければならないのだから、汚れたら困るのは本人だろう。
 ミツイがはいはい、と笑って、ばさりと服を脱ぐ。現われた、鍛えられた身体に晃平は息を呑んだ。
「なんかやってんの。スポーツ」
「コミュニティの休憩室にはジムもある。ときどきそこで鍛えてるだけだ」
 仕事と家の往復だけの毎日を送る晃平には、羨ましい話だった。思わず好奇心で触れると、笑われた。
「いいところなんだな」
「まあな。快適な職場ではあるよ。……晃平も、こっちに来れたらいいのにな」
 ミツイは恥ずかしげもなく全裸になっていたが、晃平はその身体に見惚れて、スラックスをはいたままだった。ミツイは片足をベッドに乗せて、再び晃平に口付けながら、スラックスを下着ごと脱がせにかかった。
「ほら、腰上げて」
 断れないように、言ってすぐ、口を塞ぐ。晃平はきゅっと眉根を寄せたが、そろりと腰を上げて、ミツイに協力した。
 ひんやりとした空気を感じて、晃平ははっと意識を戻して、電気!と叫んだ。
「電気、消せよ」
「いいじゃん別に」
「よくないっ。消すからどけよ」
 仕方なく、ミツイは明かりを消しに立った。暗くなった部屋に、パソコンの青白い明かりだけがぼんやりと浮かんだ。こればかりは、消すことは出来ない。
「これはこれで雰囲気があるかもな」
 くすりとミツイが笑う。確かに、ほのかな明かりに浮かんだミツイの顔は、綺麗だった。
 ゆっくりと、重なり合う身体が温かかった。それも執拗なミツイの愛撫に、すぐに熱くさえなっていく。口から首筋、胸へと降りた口付けに、晃平は驚いて声を上げた。
「わわ、ちょっ、くすぐったい」
 言ってみても、ミツイの舌は止まらない。しっとりと舐められて、びくりと自分が反応したのが晃平もわかった。くすぐったかったはずが、気持ち良くなってきている。
「ん…あっ……」
 喘ぐ声が甘くて、晃平は恥ずかしくて口を抑えた。でも、ミツイがすぐにそれに気付いて、ゆっくりと手を外しにかかる。
「声、聞かせろよ」
「あのなぁ……んっ」
 腰の脇をするりと撫でられると、晃平はくすぐったさに身を捩った。でも、同時に背筋に駆け上がる快感に、息が上がる。
 自分も女を抱いたことはあるけれど。
 こんな風に優しく、感じさせてやれただろうか、と晃平は思った。太腿や脛も撫でられ、口付けられ、全身が柔らかく弛緩していく。ゆるゆると導き出される快楽は心地よく、晃平は何度もミツイに手を伸ばした。
 腕を掴んで、柔らかく握るたびに、ミツイが笑う。促すでも止めるでもない晃平の手に、ミツイは好き勝手に色々なところを触った。大きな掌が、するすると肌を撫でる。時には親指がぐっと抉るように肌の上をなぞって、晃平の背筋を震わせた。
 ただ口付けと、弄る手だけで、これほど感じてしまうとは。
 それはミツイにしても同じ気持ちで、晃平のこの感度のいい肌をとても気に入った。
 熱い息が部屋を満たすころに、ミツイはようやく晃平の中心に手を伸ばした。そこはもう、立派に立ち上がっていて、濡れ始めてさえいた。それに微笑んで、するりと掌を滑らせると、晃平が高い声をあげた。
 そのままミツイは、何度も晃平の快感を高めるだけ高めて、なかなか解放してくれなかった。
「ミツイっ……てめ、いか、せろ……」
 手を伸ばしても、遮られる。あとはシーツでも掴んで堪えるしかなく、晃平は悪態を吐きながら何度も身体を小さく震わせた。
 おかしくなる。こんなのは、おかしくなる。
 そう、もう泣きそうな目でミツイを見たら、にやりと笑ったミツイは、ようやくその手の速度を速めて、今度は容赦なく晃平を高めた。真っ白になるほどの快感に、晃平は身体を思い切りしならせて、白濁した液を飛ばした。
 よくよく考えると、晃平はこういうことをしたのはもの凄く久しぶりだった。彼女と別れて結構経つし、ここのところ色々忙しいのと悩んでいたので、一人で慰めることもしていなかった。それが急にこんなに刺激の強いことをして、解放された途端、ぼんやりとしていた。
「え……わっ、え、ちょっと!」
 気持ち良かった……と驚くほどの快感の余韻に浸っていた晃平は、あらぬところにミツイの手が伸びてきて、慌てて上半身を起こして、ずるりとベッドヘッドの方に下がった。
「晃平?自分だけ気持ちよくなって、終わりにするつもり?」
「そうじゃないけどっ。でも、おまえ、何するつもりなんだよっ」
「何って……」
 セックス、と呟いたミツイの声は真面目で、晃平はぐぐっと眉根を寄せた。つまり、どういうことだ、と。
「……わかった。俺もおまえの扱いてやる」
 晃平は何をどうわかったのか、そんなことを言った。今度はミツイが目を眇める番だった。
「晃平。男同士で、どうセックスするか知らない?」
「し、知ってるわけないだろっ。やったころないんだから」
 それは光栄だ、とミツイは笑って、伸びてきた晃平の手を掴んだ。
「じゃあ、教えるから。一緒に気持ちよくなろうな」
「待て待て!それで、もしかして……」
「そう。男同士は、ここを使うんだよ」
 するり、と後ろを撫でられて、晃平は無理無理、と首を振った。
「大丈夫」
 ミツイはそう言って、あの革の鞄をひょいっと持ち上げて中から何やらチューブを取り出した。ついでにとコンドームまで出てきて、晃平は呆気に取られた。
「ミツイ……なんでそんなもん持ってんだよ」
「ん?これはね、魔法の鞄だから、何でも出てくるんだよ」
 もちろん、そんなことは嘘だ。出てくるのは本であって、それ以外のものはポケットに仕舞っておくしかない。
「んなもん出してきても、無理だって。そんなとこ使わなくても二人で気持ちよくなれる方法なんてあるだろ?」
 晃平は必死だ。何しろ、目の前のそれがあんなところに入ると思ったら、恐ろしくてたまらない。でも。
「怖い?もしかして」
 にやり、とそう笑われたら、晃平はむっとして、そんなわけあるか、と言ってしまっていた。
 じゃあ、とミツイは笑いを噛み締めながら言う。全く、晃平は天邪鬼だ。
 それでも、どこか無理をするように顔を顰めながら、指が入っているのを我慢している晃平は、そそりもしたが可哀想にも見えた。ミツイは少しだけ罪悪感のようなものを覚えながらも、だからこそ、傷つけないように丹念に丁寧に、そこを解していった。その間の愛撫も、止めない。
「ミ……ツ」
 だんだん熱くなっていく身体と、その奥でうねる感覚に、晃平はミツイを何度も呼んだ。わかっている。あんなところを使うとは考えたこともなかったが、それでも、ミツイが大丈夫だと言うのなら、大丈夫なのだ。何より、その手は温かい。
「晃平……力抜いて」
 ミツイがそう言いながら挿入を果たしたのは、もう、晃平が頭がおかしくなるんじゃないかと思うほど長い準備の末だった。その間、何度かやっぱり高められては堰き止められて、言われなくても力など入らないと思った。
 でも、それでも、衝撃は凄かった。指とは比べ物にならない質量の熱いものが入ってきて、晃平は「うう……」と思わず唸った。ただ、思ったより痛みはなかったし、その熱さと大きさに、なんだか、とても我慢させたのだと思って、仕方がないな、と思った。
 衝撃に閉じた目を開けると、うっすらと額に汗をかいているミツイがいた。何か耐えているその表情はとても色っぽくて、晃平はそっと、その頬に手を伸ばした。
 もの凄く手が早くて、遊んできた男だ。噂だったけれど、それも本当だと思える、整った顔をしている。その男が。
 これほど丁寧に、大切に、自分を抱いてくれるとは、思いもしなかった。口ではいつも軽そうなことばかり言っていて―――こんなに優しい。
「晃平……?平気か?」
「なわけないだろ」
 違和感も圧迫感もすごい。でも。
「ずるいよな……おまえ、優しいんだもんな」
 キスが欲しくなって強請ると、覆い被さってきた。それが二人の結びつきを深くして、晃平は嬌声を上げた。それがミツイの口の中に吸い込まれると、その腰がゆっくりと動き出した。
 信じるべきなんだな、と晃平は思った。
 この優しさを、自分は信じるべきなのだろう、と。


□Kouhei 13:http://old_books.electro.xx
 すやすやと、安心しきったように眠る晃平の顔を見ながら、ミツイはゆっくりその髪を梳いていた。朝の光が少しずつ差し込んできて、その髪を照らした。
 最初だと言うのに、今までにないほどの濃厚なセックスをした。ずっと我慢してきたのだ、それぐらいさせてもらおうと思っていたが、気絶させるつもりなどなかった。最後の方は、たぶん晃平も記憶が曖昧だろう。
 あんなときに、あんなことを言うのが悪いのだ。
 ようやく一つになって、ひたひたと嬉しさが込み上げてきたところで、晃平が呟いたのだ。
 ―――信じるから。
 その前も、キスをねだってきて。立派に誘っている。
 ああ、とうとう。そうミツイは思って苦笑した。ミツイがどうやら客の一人に本気になったらしいと、コミュニティでは噂になっていた。ユエなどは晃平にも会っているから、二人のことを色々心配してくれたが、他の人たちなどいつまで続くやら、と思っていたらしい。
 まだ、始まってさえいなかったと言うのに。
 手の早さと誑しぶりは確かに有名だった。だからこそ、まだ手を出していないなどとは思っていなかったのだろう。
 ミツイ自身、驚いていた。拒絶されるのが怖いから耐え忍ぶなんて、自分のすることじゃない。
 もぞり、と晃平が動いて、胸に頭を預けてきた。それを緩やかに抱く。
 こんな風に、抱き合ったあとに、ゆっくりと二人で眠ることも、したことがない。終わったら一服して、戻る。それがミツイのスタンスだった。それなのに。
 今は離したくないと思う。離れたくない、と思う。
「ん……?あれ?」
 きゅっと思わず抱き締めたところで、晃平が起きてしまったらしい。ぼんやりとした目でミツイを見上げてきた。
「おはよう。まだ眠れば?」
 休みだろう?と言う声に、晃平は何度か瞬きを繰り返す。それから、ん、とまた頭を預けてきた。それにくすりと笑ったところで、晃平ががばりと起き上がった。
「……っ」
 でも、すぐにふらりと倒れこんでくる。こっそり調べたところでは、後ろは傷ついていないはずだったが、腰に力が入らないのだろうとミツイは苦笑した。
「なんだよこれ……立てない」
「まあ、そりゃあ、昨日あれだけやったし」
「じゃないだろっ!誰だよ、そこまでしたのは」
 はあっと大きなため息を晃平は吐いて、それでも大人しくミツイの腕の中にいた。
「晃平?まだ早いから眠れば?」
「あ、そうだ。そう、俺は休みだけど、おまえは仕事は?」
「なんだ。それで起きたのか。大丈夫。まだ帰らなくても」
 あと四時間はいられる、と言ったミツイに、晃平が不思議そうな顔をした。
「ほら、一回の拘束時間は十二時間だろう?昨日の夜は十時ごろ来たから」
 ああそうか、と晃平は納得しかけたが、すぐに眉根を寄せた。
「ちょっと待て。ってことは、おまえは勤務時間中ってことか?」
「まあね。でも、別に平気だよ」
 平気って、と晃平は思ったが、どうやらweb electroではこういう時間は許されているらしい。
「途中で、勤務の終わりは知らせたし」
「え?そういうこと出来るのか?」
「時間さえ来ればね。俺は昨日は夜中までで、その時点で勤務終了にした」
 いくら自由なweb electroといえども、サービス担当は同じ客に毎日のように何時間もサービスを提供することは出来ない。でも、ミツイのような例は結構あって(つまり、客とビジネス以外の関係を持つ担当だ)今のシステムが追加されたのだ。基本的に、週に数箇所の客の下に行かなければ、本部から注意を受ける。もちろんそれは査定にも関わってくるし、あまり続けて同じ客から呼び出しがかかる場合、その客の優先率が下がることもある。
「ということで、今度、勤務表持ってくるから、それ見て上手く呼び出してくれ。俺の勤務が終わる頃に呼び出してくれればいいから。その時間、なるべく待機状態に出来るように頑張るから」
 ミツイがそう言いながら、晃平の肩に布団をずり上げた。まだ裸で、確かに寒かった晃平は、身体をぶるりと震わせた。
「ああ、それから。飲みに行けないのも、規則の所為だ」
「え?」
「外にね、出られないんだよ、俺たちは。この部屋から外には、ね」
 結構不自由だろ?とミツイが少し寂しそうな顔をする。
 なんだかもの凄く自由そうだったのに、実は色々な制約があるのだ。よく考えれば、わかることだった。これでも仕事だ。
「じゃあ、辞めたら俺に会えないって言うのは?」
 あれだけ酔ってたくせに良く覚えている、とミツイは感心した。
「……辞めたら、web electroのことは記憶から消えるんだよ。もちろん、客のことも」
「消え……る?」
「そう、客のプライバシーの問題もあるだろう?だから、俺たちはコミュニティから出られないし、辞めた時点で忘れなくてはならない」
 もちろん、その他もろもろの事情―――例えば、web electro側の事情―――もあるのだが、ミツイはそこまで言うつもりもなかったし、もともと詳しいわけでもなかった。
「忘れちゃうのか?」
「辞めたらだって。別に今すぐ忘れるわけじゃない」
 ミツイは驚いて、泣きそうにさえなっている晃平の頬を、宥めるようにそっと撫でた。でも、晃平の心配はミツイにも痛いほどわかった。自分だって、怖いのだ。今、晃平と言う人間を手に入れてしまった後は。
 忘れるなんて、出来るはずがなかった。きっとそこは、何か空虚な穴となり、そこを埋められるものを、探しつづける羽目になるのだ。
「辞めないから。仕事は、ずっと続けるから」
 こんな風にならないためにも、ミツイは今まで遊びの関係しか持たなかった。
 馬鹿なお兄さん、と笑う声が聞こえそうだった。
 サービス担当を好きになって、追いかけるようにweb electroに入ることを決めた妹に、さんざん言ったのだ。ここで真面目に恋愛をするなど、馬鹿げていると。それは、しがらみにしかならないと。
 それがどうしたことだろう。結局自分も、客だった晃平に惚れ込んで、そのためにも仕事を辞めないと誓っている。
 仕方ないのよ、と柔らかく笑った妹の顔を思い出した。
 ―――この人の傍にいたくて、そのための努力なら惜しまない。そう思える人を見つけてしまったのだもの。しがらみじゃないわ。私の、これは努力なのよ。
 晃平はほっとしたように、また頭をミツイの肩口に預けてきた。その肩を、ミツイがそっと抱く。
「……ほんとに、辞めるなよ。俺、おまえの選ぶ本は信用してるっていっただろ」
「本だけ?」
「……わかれよ」
「ああ、そう言えば、仕事している俺はカッコイイとか言ってたな」
「……え?え?言ってないっ」
「言っただろ、辞めるんじゃないって怒ってさ」
「言ってないって!」
 真下の耳が赤くなるのを見て、笑いながらミツイは晃平の頭にキスを落とした。
 ―――お兄さんにも、見る目があったんだって安心したわ。
 晃平を見た妹は、そう言った。
 自分も、その点は自分を誉めてやりたいと、ミツイは思った。


 引き戻されて慌てて帰るより、きちんと次の約束をして帰りたいと思ったミツイは、九時ごろには起きて、動けない晃平のために朝食を作り、二人で食べた。これでもう、あと二十四時間は会えない。そう思うと、晃平もなんだか淋しくなってしまった。
「一日一回なんだから、今日も出来たらいいのに……」
 そう言うと、ミツイは苦笑した。
「確かに。長く一緒にいるか、短くても次に会う時間を考えて早めに別れるか。究極の選択だな」
 ミツイは昨晩十二時で終業を知らせているから、晃平のサービス提供時間もそこまでとなっている。だから今晩十二時には会えるはずだが、明日は晃平も仕事がある。それに、今日はミツイの仕事は夜の八時までだ。残業が入らないと、夜中の時点ではもう仕事は終わってしまっている。
「なんか、結構不便……」
「そう言うなよ。なるべく、晃平が休みの日の前日は待機状態を作るから」
「でも、おまえ、人気なんだろ?」
「いくら人気者でも、休憩はあるんだ。そのときはこっちの意思で出るか出ないか決められるから」
 ともかくは、上手いシフトに潜り込むしかない。それこそ、努力、なのだろう。
 そう、これはしがらみではない。
 時計の針が動いて、ミツイは立ち上がった。晃平もはっとして、椅子からがたりと立った。
「またな」
 そう、唇にキスが落ちてくる。普通だったら恥ずかしくて堪らないその行為に、でも、晃平は目を潤ませた。
 時間が来るまでは、どれだけ会いたくても、会えないのだ。次の約束が守られるかどうか、わからない。それは、ほとんど運と言ってよくて。
「……離れがたくなるだろう」
 その目に、ミツイが苦笑する。そういくら強く思っても、十二時間が経てば引き戻されてしまう。これは、サービス時間と言うより、コミュニティから出ている時間、なのだ。
「まるで、シンデレラだな」
「それじゃあ、何か落としていかないと駄目だな」
 ミツイはそう言って、少し考えた。そして、やはりあの鞄を引き寄せて、中から一冊の本を取り出した。いや、一対の、というべきか。
「村上春樹?」
「ああ。彼の少し変わった作品と言ってもいいと思うんだが……まあ、それ、預けておくから」
 題名を見ると、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』とある。
「預けるって」
「読み終わる前に、会いたいけどな」
 ミツイがそう言ったところで、空間が少し歪んだような感覚があった。ゆらりとその身体が揺れて、足元から消えていく。
 晃平は思わずその頭を捕まえて、口付けた。そしてそのまま、ゆっくりとその唇の感触が消えていった。
 またな、と呟きだけが、落ちてきた。それに、晃平も「またな」と返した。





1011  web electro index  *