* web electro index 02
□naru 01:http://recipe.electro.xx
朝から、霧雨が続いている。鳴(なる)は、一人部屋でぼんやりとネットサーフィンをしていた。
土岐と最後に言葉を交わしたのも、こんな雨の日だったと思いながら。
もうあの声を聞くことも、触れることもかなわないのだと、鳴は切なくなる。また明日と大学を出て別れたすぐ後に、土岐はもう、帰らぬ人となってしまったのだ。
土岐は、鳴の恋人だった。同じ大学に通っていた友人の誰もその事実を知らないけれど、それは二人の間では間違いのないことだった。鳴も土岐も男だったから、その事実は二人の胸のうちにしまわれたのだ。
誰にも、この苦しい思いを打ち明けることができない。
自分が忘れてしまったらもう、土岐と自分との本当の関係を、誰も証明できなくなる。
苦しくて仕方なかった。忘れたくて、忘れたくなくて。
ぼんやりと目の前の画面を切り換えながら、鳴は土岐のことを思っていた。このパソコンをインターネットに繋いでくれたのも、土岐だった。全ては繋がって、鳴の中にある。
気付けば、ネット上のどこをどう彷徨ったのか水色のような緑のような背景色の見慣れないサイトに辿り着いていた。
「web elrectro…?」
聞いたこともない名前だった。探し物の手伝いをするということは検索サイトなのだろうが、普段目にするものとはどこか違っている。
スクロールしていくと、navigationの先の項目の中には思い出や記憶という曖昧なものまで含まれていた。
どうやって、そんなものを探してくれるというのだろう。
鳴はそのなかの「人」という項目に目を引かれて、それをじっと注視する。死んだ人も、探してきてくれるのだろうかと。
「そんなこと、無理、か」
つぶやいて、ウィンドウを閉じようとした鳴は、ひとつ思いついたことがあって手を止めた。
土岐が作っていたオムレツ。何度作ろうとしても自分では作れなかったあのオムレツを、思い出まで探してくれるというのなら、もしかしたら探せるかもしれない。まったく同じ味のオムレツの、その、レシピだけでも。
期待はしない。そう自分に言い聞かせて、鳴は注意書きを読んでいく。
ご利用は一日一度、探し物が見つかり次第サービス終了、サービスの提供は12時間まで。
検索サイトでこんなことが明記されるのは珍しい。けれど今の鳴にとってそれはあまり気にするべきことではなかった。
料理に関するようなnavigationの項目はなく、画面上でカーソルをさまよわせる。
「……思い出、かな…」
鳴はつぶやきながら思い出、という項目をクリックする。土岐との思い出の中にあるそのオムレツならば、ふさわしい項目であるような気がした。
ふ、っと画面が揺らいだような気がして、次の瞬間、目の前に人型のシルエットが見えた。
「え…?」
「ご利用ありがとうございます。web electro思い出サービス担当、サヤと申します」
鳴が何が起こったのかわからないでいると、横からそんな声がした。見れば、サイトの色と同じワンピースに赤いスカーフの、肩より短い黒髪の少女が立っていた。
「ご利用は初めてですか? よろしければ、ご説明をさせていただきますが」
何も言えずにいる鳴に、サヤと名乗ったその少女は重ねて言葉を継ぐ。目の前の鳴の様子を感じながら、サヤは相手の中性的な容貌を見ていた。ただじっと、鳴が状況を飲み込むのを待つ。初めてのお客様はいつもすぐには事情を飲み込めないから、待つのには慣れている。基本的にはここのサービス担当は気が長くないと勤まらない。
鳴はようやくかけられた言葉を飲み込んで、パソコンの画面に目を戻した。そこには真っ白の画面しかない。あったはずの文字もなくなっていた。
「web electro?」
「はい」
「あなたが、探してくれるの」
「ええ、探し物のお手伝いをさせていただきます」
鳴はようやく目の前の少女がweb electroと関係しているのだということを理解する。
「ええと…」
「思い出サービス担当のサヤです。ご利用上の注意はお読みになられましたか?」
サヤはゆっくりとした口調で話す。鳴がうなずいて、さらにサヤが言葉を継いだ。
「それでしたら、そのことにはご注意いただいて、それ以外のことを少し説明させていただきますね。当サービスでは、探し物のお手伝いをさせていただいております。探し物にあった項目をクリックしていただければ、それぞれのサービス担当が直接参りますし、探し物に該当する項目がなければ、その他か、あるいは探し方をクリックしていただければ詳しい担当へとお繋ぎすることもできます。私は、思い出担当ですので、曖昧になってしまった思い出などをお探ししております」
話を聞きながら、鳴は、これは夢だろうかとぼんやりと思っていた。サヤという名だという少女の言っていることはわかるが、いまいち現実味が乏しい。
しかし夢なのだとしても、探してもらえるのならば悪くはないだろうと思った。目が醒めて憶えていなくとも、今この瞬間に満たされるのならと、そんなことまで思う。
「あの…、料理とかって、探せる? 俺が昔、食べた料理とか、その作り方とか、そういうのは思い出で探してもらえるのかな」
サヤは手を口許に持っていって少し考えた後、ふわりと笑って口を開いた。
「そうですね、それでしたら、料理担当の者をお呼びいたしましょう。詳しい話はそちらでお話くださいませ。それでは」
鳴が見ている中、サヤの姿は次第に薄れて、代わりに別の誰かが現われる。
今度はもう、驚かなかった。
「こんにちは。料理サービス担当、リョウです」
「…こんにちは」
リョウは、サヤのワンピースと同じ色のスーツを着ていた。そこに、赤いネクタイをしている。
男女の制服が、そう決まっているのかもしれないと鳴は思った。見ればリョウは、少し長くなった髪を後ろにひとつに束ねて、すっきりとしていた。暗めの茶色い髪は、清潔感のある風情。料理担当、という印象が確かにぴったりだった。
「料理を、さがしてるんだよね?」
「はい」
「どんなものだか、教えてくれますか」
なれなれしくなく、しかし、初めて会ったということを思わせないような空気を、リョウは持っていた。鳴はその空気に、知らずになじんでしまう。
「前に食べたオムレツが、もう一度食べたいんです」
「作ってもらったもの?」
こくりと、鳴がうなずく。その様子に、リョウは気付かれないように微笑んだ。見た目の年に似合わずに、子供のように見えたのだ。けれどこれには、何か理由があるだろうとも思う。
「いつ食べたものか、そうじゃなかったら誰が作ったものだか教えてもらえれば、同じものを作ってあげられるんだけど」
「…本当に?」
「本当に」
リョウの言葉を、鳴はにわかに信じられなかった。
「信じられなくても、一度試してみない?」
「……」
「食べたいのは何?」
「オムレツ」
問われて、思わず答えてしまっていた。このサイトの存在そのものが不思議なのだから、それ以上の不思議はないだろうと頭の隅で少し考えて、鳴は疑うことをやめる。
「いつごろ食べたもの?」
「最後に食べたのがいつかはわからないけど、作ってくれたのは土岐。俺の、一番大切な人」
わかったというようにうなずくと、リョウは少しだけ顔をうつむけて目を閉じた。長い睫毛が顔に影を落とすのを、鳴はなんとなく見つめてしまう。
「はい、お待たせしました。それじゃあ、作ろうか」
材料ある? と言いながら、リョウは手に持っていたランチバッグのような袋から、エプロンを取り出した。それを手早く身に着けるのを見て、そこでようやく、鳴はリョウがずっと立ったまま自分の相手をしていたのだと気づいた。鳴はあわてて椅子から立ち上がる。
それほど、自分はこの状況に動揺していたのだということを知った。
「キッチン貸してね。材料はあるかな」
「オムレツの材料なら、たぶん冷蔵庫にあると思うけど…」
リョウをキッチンに案内して、鳴は冷蔵庫を開ける。それを後ろから覗き込んだリョウが、卵や牛乳を指示してそこから取り出した。
「さて」
「?」
「どうしようか。一応、探し物が見つかったら帰らなくちゃならないから、作り終わったら俺は帰ることになるけど。もし、一人で食べるのがいやなら、二人分作って一緒に食べてから帰るけど、こればっかりは決めてもらわなくちゃならないんだ」
ええと、とリョウがそこでためらったので、名乗ってないことに気がついた鳴は、そこで始めて自分の名前をリョウに教える。
「どうする、鳴?」
そんな風に名前を呼ばれることで、鳴は不思議な気持ちになった。相手が確かにそこに居るのだということに、突然思い至る。
「一人は、いやかも」
「そう。なら、二人分だね」
うなずいて、鳴はもう一人分の足りない材料を冷蔵庫から出し、リョウに指示されるままに道具をそろえた。
「じゃあ、はじめましょう」
まるで何か大事なことを始める前のように言うリョウに、鳴は安心する。どこまで知っているのかはわからないけれど、このオムレツの意味を損なわないと思ったのだ。
一方リョウは、神妙な顔で作業の手元を見つめている鳴を、気付かれないように眺めていた。熱心なその様子がどこか痛々しい。今から作るオムレツが過去に鳴の恋人によって作られたものなのだということは、レシピを調べて知っていた。それを探していたのならば、その恋人と何かしらの別れがあったのだろうと推測する。余計な情報までは、知ることはなかったから。
鳴はじっと、リョウの手の動きを眺めている。作業の手順がまるで土岐のものと同じで、そこにいるのが土岐なのではないだろうかと錯覚しそうになる。そのせいで、何度もリョウの顔を確かめてしまった。そのたびに土岐はもういないのだと思い知らされて、鳴の表情はどんどん硬くなっていく。
「鳴」
フライパンに火を入れながら、リョウが視線を合わせずに呼ぶ。
「え?」
「何か違うなら、言って」
「あ、ううん。違うんだ、ごめん」
様子を見られていたのだと気付いて、鳴は恥ずかしくなる。
「トースト、用意しようか」
何か言わなくてはと、思いついたのはそんなことだった。
「そうだね。今焼き始めるとちょうどいいかな」
「うん」
鳴がバゲットをスライスしてトースターに放り込む間に、温まったフライパンにバターが入れられ、溶けたところで卵が流し入れられる。バターの焦げる香ばしい匂いと、じゅうという卵の焼ける音とが絶妙に交じり合って鳴の記憶を刺激した。
本当はそれをやっているのが自分ではないということが何よりも重要なのだということに、鳴は気付いていない。
程なく出来上がったオムレツは、どこにでもある、ごくごくシンプルな黄色いオムレツ。土岐が作っていたのと同じように、同じ皿の上に乗せられている。
鳴は、土岐がいたときと同じように、向かい合わせの席にテーブルをセッティングした。
「さ。冷めないうちに食べようか」
「…うん」
椅子に座り、複雑な気持ちで鳴は目の前のオムレツを見つめている。ここまでは、自分でもできたのだ。見た目だけなら、同じものを作るのは簡単だった。けれど味が、どうしても違っていた。この、目の前のオムレツは本当に『土岐のオムレツ』なのだろうか。
「食べてみて。納得いかなければまた、作り直すから」
勧められるままに、口に入れた。
広がるのは、ふんわりとした柔らかな卵の味。舌の上で溶けてしまう。それから、口の中にほんのりと残るバターの香り。
「……」
どうだろうかと見守っていたリョウの目に飛び込んできたのは、唐突に鳴の目から零れ落ちた涙の粒。
「鳴?」
「ごめ、なさ…。ほんとに、同じ味、だから」
切れ切れに言葉をつなぐ間にも、鳴の涙は止まることを知らず、ぽろぽろと頬を伝いつづける。
鳴自身も、泣いてしまうとは思わなかったのだ。
「なにか、大事な思い出のあるオムレツなんだね」
リョウの言葉が優しく響く。鳴はただ、うなずいた。
それから二人は何も言葉を交わさずに、そのオムレツをきれいにお腹の中にしまってしまった。結局鳴は、それを食べ終わるまで泣き止むことができなかった。
「リョウさん」
二人並んで食後の片づけをする。
「リョウでいいよ」
「うん。どうもありがとう。本当に食べられるなんて思わなかったから。びっくりして」
鳴の目は、泣いた後だけにまだ赤く腫れている。それがまだ潤んでいるのを知っているから、リョウは、自分が帰った後また鳴は泣くのではないだろうかと、そんなことを思った。
「ちゃんと、ご要望に応えられたならよかったよ」
「あの、オムレツはね。俺の、恋人が作ったオムレツだったんだ。この間、事故で手の届かないところに行っちゃったから、もう、食べられないはずのものだったんだ」
言うつもりのなかったオムレツの向こう側を、鳴は口にする。なぜだかリョウには、聞いて欲しいと思ったのだ。
「おまけに、土岐は男だったから。俺が土岐と付き合ってたことなんて誰も知らないし。誰にも何も、言えなくて。どうしたらいいのかわからなくて。忘れたくなかったし、なかったことにもしたくないけど、でも、苦しかったから。それで、オムレツ作ってみたけど、ちっとも土岐のと同じ味にならないしね。今日は、食べられてほんとに、よかった。うん」
無理に笑いながら話し続ける鳴に、リョウは何を言ったらいいのかも、どんな顔をしたらいいのかもわからない。洗い終えた皿の最後の一枚を拭いて、元の場所に戻した。
「また、何か食べたくなったら呼んで。サイトの検索窓に名前入れて呼んでくれたら、また来るから」
「うん」
「今日のレシピ、置いていこうか。あると気持ちが違うだろうし」
「…うん」
リョウはどこからともなく紙片を一枚取り出すと、鳴の手に渡す。
「それじゃ、ね」
まだそばにいてあげられればいいのにと、リョウは思う。これは、いとおしいという感情なのだろうと他人事のように考えた。
リョウはくしゃりと鳴の髪をなでて、そして、すっと鳴の目の前から消えてしまった。
なでられた髪を自分で触れて、それから手の内のレシピを見る。それだけが、さっきまで確かにリョウがそこにいたのだと告げていた。
* web electro index 02
藤枝 秋さまHP「月の魚と宵の海」