02 web electro index *
□naru 03:http://recipe.electro.xx
熱を出してリョウに来てもらってからずいぶん経った、とカレンダーを眺めて鳴は思った。
あれから、細々とした探し物をweb electroで頼んだりもしているのだけれど、リョウには会っていない。熱があってぼんやりしたままリョウに会ったということは、何も繕うことのない自分を見せてしまったということで、それに気付いてしまってからなんとなく会い辛くなってしまっている。
会って話がしたいと思うことは何度もあったのだけれど。
もう日付が変わるまで間もない時刻。鳴はキッチンで紅茶を入れながら、何か甘いものが食べたいなと思っていた。土岐が好きだったから、ちょっとしたお菓子のために小麦粉とバターは切らしたことがない。土岐の家のキッチンよりもここの方が広かったから何を作るのでも土岐はこのキッチンでしていて、だから道具も全部そろっている。自分で何か作ってみようかと、鳴は棚から料理用のはかりを出した。
「…………土岐」
痛くないと、鳴は思った。あんなに辛かったのに、とも。
急に罪悪感が襲ってきて、鳴はぎゅっと目を閉じた。一度気付くともうどうしようもない。泣きたいようなもどかしい気持ちがぐるぐると駆け巡っていく。
我に返って注いだ紅茶は蒸らしすぎて苦い。そのカップにミルクと砂糖を入れて飲み干してしまうと、鳴はパソコンの前に移動した。
すっかり見慣れた青緑色を表示させると、リョウの名前を検索窓に打ち込む。
一瞬、回線がビジー状態ですと表示された直後に、リョウが現れた。
「久しぶり、鳴」
肩で息をしながらリョウが言った。
「…………ひさしぶり。どう、したの」
「今ちょうど、仕事上がろうとしてたところだったんだけど、鳴だって気付いて急いで戻ってきたんだ。会いたいと思ってたから」
「え、ごめん……。そんな無理しなくてもよかったのに。もう、夜遅いし」
その言葉にリョウは首を振る。
「別に大丈夫だから」
「本当に?」
「本当に」
ならいいけどと鳴はひとまず追求するのをやめた。その代わりに別の疑問を投げかける。
「何で俺だってわかったの」
「お客様コードがあるから。それさえ憶えてればわかるよ」
納得して、鳴はうなずいた。
リョウはそんな鳴を、静かに見る。今日の鳴は、前の二回に比べたらとても安定しているように見える。そのことに深く安堵した。心配していたのだ。あのときの風邪はもう治っただろうけれど、元気にしているだろうかと。
「それで、今日はどんな料理を探してるのかな」
「あ、うん。甘いものが食べたいんだ。手は混んでなくていいから、なにかお菓子みたいなもの」
「夜中に食べると、太らない?」
「別にいつも食べてるわけじゃないし。平気」
からかい口調のリョウの言葉をさらりと流して、鳴は笑う。
「じゃ、作ろうか」
三度目ともなるとすでにリョウもなれたもので、鳴の話を聞きながら、材料を探す。バゲットの残りがあるのを見て、フレンチトーストを作ることにした。
「鳴は、フレンチトーストは最初から甘くして作る? それとも、あとで蜂蜜をかける?」
「……」
卵を割りながら、リョウは隣で手元を覗いている鳴に聞いた。その問いかけに、鳴は記憶を刺激される。土岐と、フレンチトーストの記憶。
「昔からうちで作ってたのは、あとで蜂蜜をかけて食べるフレンチトーストでね。それが実はスタンダードじゃないらしいと知った時は本当に驚いたよ。いつも見てるものをみんなも見てると、思っちゃうもんだよね」
卵を溶いて牛乳を注ぐ。話しながらも、リョウの手が止まることはない。その横顔を、鳴はこっそりと盗み見た。一目見て振り返りたくなるような男前ではないけれど、目を離せなくなるような雰囲気をまとっているリョウ。高すぎない鼻も、一重の目も、きちんと束ねられた少し長さのある髪も鳴が会いたいと思っていたリョウのもの。隣にいるのは、土岐では、ない。
「鳴?」
黙ったままの鳴に気付いて、リョウが気遣うように名前を呼ぶ。
「……土岐の、大事な人の、作るフレンチトーストも蜂蜜がけだった」
「! ごめん。思い出させちゃった?」
「いや。来てもらったときにもう、思い出してたから。今は、思い出すことより忘れてることの方が多くて、そのことのほうが痛い、かな」
笑った鳴は、けれど上手に笑えていない。
「砂糖入れて、最初から甘いフレンチトーストにしてくれる?」
「了解」
うまく笑えなかったことに自分でも気づいた鳴は、それに触れずに流してくれたリョウの気持ちに感謝する。
バゲットを卵液の中に浸すと、リョウは、そばからはなれずにじっと手元を見ていた鳴のほうに向き直った。
「話、聞いた方がいい? それとも、それについては無しにする?」
流したのかと思う話題を、リョウが拾ったことに鳴は驚く。けれど、聞いて欲しくてリョウに来てもらったのかもしれないということに、鳴は気付いた。
「…………聞いて」
「うん」
鳴は、話をする前にケトルに水を入れて火にかけた。少しの間が、必要だったのかもしれない。
「土岐は、お菓子好きでね。自分でよく作ってて。自分のところは狭いからって、いつもここで作ってたんだ。でも、そんなことも忘れてた。さっき、甘いものが食べたくなって、それで思い出して。忘れたらいけないのに。何もかも、なくなっちゃう」
ああ、鳴が小さな子供のようになっている、とリョウは思った。
「どうしよう。……俺なんで、そういうときばっかりリョウに話したくなるんだろう」
じっと見られて、リョウは困ってしまった。今すぐ抱きしめてしまいたくなる、そんなことを言われては。もちろんそんなことはできないけれど。
「忘れることは、悪いことじゃないよ」
「でも」
「人はね、忘れることは本当にはできないんだよ。思い出せなくなるだけで記憶は絶対に消えないんだ。思い出せなくなるのは、当たり前のことなんだよ」
「……」
「それから、いつも意識していられなくて忘れてることがあるのは、それが今の鳴にとって、縛られるべきものではないからだと思うけど」
しゅう、とケトルが音を立てたのが、二人の耳に聞こえる。
「でも、忘れたら土岐に、悪い…」
「たとえばね。鳴が、その彼の立場だったとしたらどう? 今の鳴みたいに、忘れたらいけないって、思っているのを知ったとしたら」
「忘れてもいいよって、思うよ。だって、俺にはもう、何もしてあげられないのに」
「同じように、考えてくれるとは、思えない?」
「あ……」
「ちゃんと、時々でも思い出してあげられるなら、大丈夫なんじゃないかな。いつもずっと、覚えてなくちゃいけないことなんて、ないよね」
「……そうかも」
ひとまず鳴が納得したところで、リョウは浸しているバゲットを裏返す。
結局、人は生きていなければ意味がない。こうして、いない人間の気持ちなどこちらでどうとでも解釈してしまえるから、生きていない人間は不利だとリョウは思う。
自分は鳴が大事だから、このくらいのことは仕方がない。いつまでも、鳴が悲しむのは見たくないから。
「リョウ」
「うん?」
「ありがとう」
こころから、鳴は言う。自分の中の土岐の存在が薄らいでいくことが悪いことではないと教えてもらえることは、必要なことだった。頭のどこかでわかっていても、認めてはいけないという罪悪感が、きっとずっと、心の中にあったから。
リョウは何も言わず、くしゃくしゃと鳴の髪をなでた。
「さて。一緒に食べていっていいのかな」
「もちろん」
リョウがフレンチトーストを焼き始めるのにあわせて、鳴は丁寧に紅茶を入れる。そのためにさっき、お湯を沸かしたのだ。
オムレツの時と同じようにテーブルをセッティングして、リョウと二人、食べ始める。
そうしている時間は、静かで、穏やかで、鳴は嬉しくなる。けれど、目の前の皿の中からフレンチトーストが消えてなくなった瞬間に、リョウが帰ってしまうことを思い出して落ち着かなくなった。
「もう、帰っちゃう……よ、ね」
「鳴?」
「ごめん。うん。なんでもない」
ごめん、ともう一度鳴は言って、そのまま何もないように空の皿を持ってキッチンに去ってしまった。
一瞬それを見送ってから、リョウも同じようにして鳴を追う。
「あと、俺片付けておくし。さっき、帰るところだったのに戻ってきてくれたって言ってたでしょ、もう、遅いから」
リョウの方を見ずに、早口で鳴は言う。
「鳴だから、来たんだって言ったんだけど、憶えてる? 鳴じゃなかったら、多分帰ってたよ」
「え…?」
「うーん。ここで言うのは反則だと思うんだけど。俺、鳴のこと大事にしたいと思うんだよ。好きだから。呼んでもらえれば嬉しいし、たとえ帰ろうとしてたところで急いで戻ってきちゃうくらいに思ってるんだけど」
「……!」
大慌てで、鳴が振り返った。
「ごめん、返事とか気にしなくていいし、もう俺の顔も見たくないなら呼ばなければ会わなくてすむから」
一瞬の間をおいて、リョウが言葉を継ぐ。呼ばれなければ会えないのだと、自分で言って思い知った。
これでもう、さよならかなと。
リョウがそんな風に思ったのは、鳴にもぼんやりとした形で伝わっている。
「待って」
どうしたらリョウを引き止められるだろうと、とっさに鳴の口から出たのはストレートな言葉。
「うん?」
「えっと。うまく言えないんだけど。土岐のこと、引きずってないわけじゃないけど、でも、リョウにもう会えないのは嫌なんだ」
一生懸命に言葉を探す鳴を、じっとリョウは待った。鳴のほうも、自分がなにを言いたいのか段々わからなくなってくる。
「…待っててくれないかな。すごく、ずるいんだってことはわかるんだけど。少しだけ、待って。もう少しだけ。俺もリョウのこと、好きだから」
思わず口をついて出たその気持ちが、はっきりと真実なのだと鳴は気付く。最初にリョウが来た時から、きっと好きだった。
熱を出してぼんやりとしたまま会った二度目のあと、何度もリョウのことを考えていたのだ。
会うのはこれで三度目でも、それだけで恋に落ちることもある。
「鳴」
「…うん」
「抱きしめてもいい?」
「ん」
そっと背中に回された手が暖かくて、鳴は泣きたくなった。
「俺は急がないから、ゆっくり追いついておいで」
それからついばむようなキスをひとつ。
「リョウ!」
「待ってるからね」
くしゃくしゃと鳴の髪をなでると、リョウは帰っていく。
「…また、ね」
そんな鳴の言葉ににっこりと手を振って。
それから、何度か会ううちに鳴はリョウにたくさんの事を聞いた。
そのほとんどが、web electroのサービス担当が、サービス担当であるがゆえに拘束されている部分の話。
仕事以外では外に出られないこと、仕事をやめたら客のことを忘れてしまうのだということ。
「俺を、忘れちゃうの?」
「もしも仕事をやめることになったら、という話だよ。やめる予定もないから大丈夫」
いつものように、リョウは鳴の髪をなでて笑う。
「……うん」
「俺たちと同じように出会って、まだ続いてるカップルもいるし。結局、お客様だった方の人もサービス担当になったりとか。そんなに心配ないよ」
それでもまだ不安な顔をしたままの鳴の頬に、リョウはそっと接吻けた。
「もう、そばから誰かがいなくなるのは嫌だな…」
零れ落ちた鳴の言葉に、リョウは胸を締め付けられる。失くす痛みを嫌というほど知ってしまっている鳴を、もう一度悲しませることはできないと思う。最初に会った時の痛々しさを今でも憶えているから。
「ね、リョウ」
「うん?」
「……抱いて。なんか、リョウがちゃんとここにいるって、確かめたい気分だから」
ことり、とリョウの肩に頭を預けて、顔をあわせないまま鳴が言う。面と向かっては、きっと言えないと思ったのだ。
少し前から、リョウに触れたいし触れられたいと思っていたけれど、口にするのは恥ずかしかった。
キス以上のことはまだ、何もしないまま今日まで来ている。
「いいの?」
「うん。気持ちが、リョウのところまで追いついたみたいだから」
はにかむように笑った鳴を、リョウはそっと抱き寄せる。目に映る耳が真っ赤に染まっているのを、いとおしいと思う。
「途中で駄目だっていっても、やめられないかもしれないよ?」
「いい。大丈夫」
ぎゅ、としがみつく鳴を、壊さないように大事に抱きしめて、それからそっと、シャツのボタンに手をかけた。
抱かれている間、リョウがどこまでも優しくて、鳴は何度もキスをねだって、名前を呼んだ。
幸福感しか、鳴の中にはない。それはリョウも同じで、このまま時間が止まってしまえばいいのにと、そんな風にさえ思っていた。
02 web electro index *
藤枝 秋さまHP「月の魚と宵の海」