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壊レカケノ月 壱

 それは、春も終わろうとしていたころだった。
 その頃、景一(けいいち)の兄、静(しずか)は大学に通っていて、毎晩のように飲み歩いては、どこかで白熱の議論をしていたようだった。それが、あまり世間に良いことではないことは、まだ中学の景一にも察しがついた。
 寮から近いために、ときどき酔って夜中に家に寄るときは、父と低い声で言い合っているが、それは時刻を考えてのことというより、時局を考えていたと言ったほうが良かった。
「父さんはまだ本気でそんなことを考えているのですか。それがどれだけ無謀なことかは子供だってわかることだ」
「お前はまたそんなことを抜かしおって……いい加減お国のために働いたらどうだ」
 兄はかなり酒の匂いをさせて帰ってくるのに、まったく酔った形跡が見えないのが景一には不思議だった。それどころか、厳格な父と対等に言い合っている。それは、景一の憧れとなりはしても、恐れにはならなかった。
 ただ兄は、景一をいつまでも子ども扱いする癖がある。年は三つ離れているだけで、来年にも高等学校へ入ろうというのに、まだ何もわからない三つか四つの子供だと思っているのだ。だから、いつもの仲間との会合に遅れるという言伝を預かったときには、景一は顔には出さずも、嬉しかった。
 景一は、昔からあまり表情の豊かな子供ではなかった。優秀で、人当たりの良い兄に比べて、景一は何をしても標準で、人見知りをするのだった。でも、兄に付いていれば、人々の関心はそちらにいき、景一は一人の安息を得られる。賑やかな場所は嫌いではないが、それは自分が外から眺めているときだけの話だった。
 アブサン。
 景一は、声に出さずに兄に教わったその言葉を繰り返した。戸を二度叩いて、誰かと誰何する声が聞こえたら、そう答えろと、兄はその言葉を耳打ちしたのだった。景一にはそれが何かはわからなかったが、その言葉と、会合場所のアパートだけは、しっかりと頭に叩き込んだ。
 日はもうすっかり暮れて、街の繁華街はきらびやかだった。この時世だというのに、こんな裏世界は、別の国なのかもしれなかった。でも、景一はこの町の本当のきらびやかさを知らないのだ。紅いさびしげな電灯が、隠れるようにぼんやりとともっているだけで、きらびやかなどと思うのだから。
 その通りを、景一は足早に駆け抜けた。兄がからかって、わざとこんな道を教えたのはわかっていた。
 脇をすり抜けた女の白粉の匂いは、ときどき兄が酒の匂いとともに纏ってくるものだった。べったりと、紅い唇。その唇が、兄の肌を吸っている様を想像して、景一はため息をついた。
 兄は尊敬できるが、その夜遊びは目に余った。家に金があるからと言って、それを無駄に使っていいということはないだろう。日々の食料さえにも、困っている人が居ると言うのに。
 そんなことを言えば、偽善者だな、とまたあの馬鹿にしたような笑いとともに言われるのをわかっているから、景一は思っても絶対に口にしない。
 ふと兄の意地悪な顔を思い出して、景一はこれから会う兄の友人たちのことを思った。そこでも、きっと子ども扱いされるのだろう。そう思うと行く気も失せたが、そのときにはもう、目的の借家の前にいた。それは、木造二階建てのアパートで、全部で四部屋というこじんまりとした四角い箱だった。
 とにかく、言伝だけ伝えればいいのだから。景一はそう思いながら、戸を二度ほど叩いた。中でごそごそと動く音がする。何人ぐらい居るのだろうか。
「誰だ」
「アブサン」
 戸の隙間から、差し込むようにそう言うと、戸が開いた。ずいぶんと背丈の高い男が、少し背をかがめて一瞬不審そうな目をした。景一はそれを見逃さず、すぐに口を開いた。
「七尾の弟です。兄から遅れるとの言伝を頼まれて……」
 言っている間に、中に引き込まれた。入ったところで、さっきの一言で用件は済んだはずだった。
「おや、偉い別嬪じゃないか。新顔か?」
 奥から髭を生やした男の顔がひょいと現れて、景一の顔をじろじろと見た。少し線の細い印象のある景一は、そんな風に言われることに慣れていた。だから怒りもせず、頭を下げた。
「いや。静の弟だそうだ」
 背の高い男がそう言うと、奥からまた二、三の顔が覗いた。部屋は外見を裏切らずに狭く、一部屋しかないようだった。そこに、台所――と呼べるほどでもないほどの小ささだった――があり、机が置いてある。
 部屋の中は煙草の煙でもうもうとしており、既に酒くさかった。景一は長居をするつもりなど毛頭なく、「伝えましたから」と言って、そこから引き上げようとした。
「まぁ一杯くらい飲んでいけよ」
 一番奥に腰掛けていた少し年配風の男が、そう言って手招きをして、背の高い男に背中を押されたから、景一は仕方なく靴を脱いだ。
「静も別嬪だが、あいつはどっちかって言うと男の色気たっぷりだからな」
 それに比べて、この清潔さはどうだ、と言って能瀬と名乗った年配風な男がにやにやとした。
「言伝だけと、兄からきつく言われてますので」
 景一はそう言って立ち上がろうとしたが、まぁまぁ、と隣の能瀬に座らされる。
「どうせ静の奴、女のところでもしけこんでいるんだろう。一時は来ねえな」
 酒の蓋をぽんと勢いよく開けて、羨ましそうにそう言ったのは、上江と言う眼鏡をかけた頭の良さそうな男だった。その隣に座っている髭をはやした男は島津と言い、景一を出迎えた背の高い男は、柏木と名乗った。
「よし、じゃぁ静の弟との初顔合わせに」
 能瀬がそう言うと、皆がコップを掲げて、ぐいとその中の酒を飲み干した。景一も仕方なく、コップに口をつける。酒を飲んだことがないわけではないが、正月に飲むくらいで、それも割合に上等な酒だったから、景一は一杯飲む頃には酔い始めていた。少し、気持ちが悪い。
「そろそろ静が来るな。帰ったほうがいい」
 柏木がそう言うと、景一の腕を掴んで立たせた。景一も、兄に見られては何を言われるかわかったものではないと、気持ち悪さをおして立ち上がった。
玄関で、一人で帰れるからと言ったのに、柏木は送ろう、と言い張った。実際景一も気分の悪さに、言い争うことも億劫で、お願いします、と頭を下げた。
「酒、足りないでしょう?調達がてら送ってきます」
 柏木がそう言うと、中から能瀬が「襲うなよ」などと言って、三人で笑ったのが聞こえた。
 柏木と言う男はあまりしゃべらない。先ほど酒を飲んでいるときも、能瀬たちが下品なことを言って大声で笑っても、柏木は声も出さずに僅かに唇を上げるだけだった。
 初夏に近い夜の空気は、少し生温い。景一は気持ち悪さに顔色を青くさせながら、それでも懸命に一人で歩いた。頭が、くらくらしてくる。
「少し、休もうか」
 柏木がそう言ったのは、部屋を出て間もない神社にさしかかったときだった。来るときには、こんな神社はなかったはずだ。景一は気持ち悪さに気を取られて、行きとは違う道を歩いていることに気がつかなかったらしい。
 いえ、大丈夫です、と言おうとして、話すこともままならない自分に気づく。景一は、すみません、と呟くように言うと、石段に崩れるように腰掛けた。月明かりに、ほの白い景一の顔は、青く弱々しかった。
 柏木は「待っていろ」とだけ言うと、石段を駆け上がった。景一は自分を情けなく思いながら、頷いた。
 柏木はすぐに戻ってきて、神社の井戸で汲んだ水を飲ませてくれた。景一はそれをこくりと飲むと、不思議に気持ち悪さがおさまるのを感じた。
「あれはあまりいい酒じゃないからなぁ」
 柏木がそうため息をついた。景一は、身のほどを知らずに飲んだ酒を恥じた。兄の日頃の子ども扱いに、反発したのかもしれない。そう思うと、それは余計にばかばかしいことに思われた。
「すみません」
 二度目にそう言うと、柏木は笑って、景一の隣に腰掛けると、煙草に火をつけた。薄紫の煙が、闇に舞う。
 景一がふと顔を上げると、柏木がその紫煙をじっと眺めているのがわかった。あまり年は変わらないだろうに、ずいぶんと大人に見える。少し彫りの深い横顔は、兄とは違った美しさがあった。能瀬の憎めない笑い顔も、上江の落ち着きも、島津の豪快さも、景一には羨ましい限りのものだった。世間に流されるだけではない、男たち。
「来年は、高等学校だって静が言っていたけれど」
 俺たちの後輩だな、と言う柏木に、えぇ、と言いながら、兄が自分のことをこの友人に話していると知り驚いた。兄の性格からして、家のことを他人に言うことはないだろうと思っていたのだ。それほど、親しいのだろうか。先刻の口ぶりから言っても、高等学校時代からの友人なのだろう。
「静は君がかわいくて仕方ないらしい。とても心配していた。だから、今日のことは内緒だな。残りの奴らも、言えないだろう」
 柏木がそう言って小さく笑う。景一は、それはないだろう、と思う。兄は、確かに自分を子ども扱いするが、邪険にするといったほうが正しくて、かわいがっているわけではあるまい。でもだからこそ、景一にしてみれば今日のことは兄に黙っていて欲しかった。景一がそう言うと、柏木は面白そうに景一のほうを見ながら、「大丈夫だ」と言って、また笑った。
 そろそろ行こうか、と柏木が言ったときには、月はずいぶんと上まで昇っていた。


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