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壊レカケノ月 弐

 数日して、家に柏木がやってきた。もちろん兄と一緒だったが、景一は何処となく落ち着かずに、挨拶も早々に自室に駆け上がった。
 この間の醜態のことを考えると、柏木と会うのは恥ずかしかった。あの時、やはり酔っていたのだろうと思う。後になってから、羞恥がこみ上げた。
 自室に入ってすぐ、兄が来て、煙草を買って来て欲しいと言う。景一は断る術を持っていないから――その上、今この家から出られるという誘惑も強く――夕暮れの中、煙草を買いに歩いた。
 店は往復三十分はかかるところにあり、景一は散歩をしているかのように町の中を歩いた。空気も暖かく、歩くにはちょうどいいのだった。
 景一は、まだ煙草の味を知らない。兄も、この間の兄の友人たちも、それは美味しそうに、それでもどこか苦々しげに煙をくゆらせる。あからさまには言えない何かを、煙と共に吐き出しているかのように。そんなふうに、煙草が必要になる日が自分にもくるだろうかと、景一は思った。
 家に帰ると、父が帰ってきていた。母が、兄たちは夕餉を取るのか聞いてくれと言う。
 兄の部屋に行くと、戸は開いており、話し声が聞こえなかった。ふと不審に思って、戸から中を覗いたとき、景一はわずかに目を見開いた。
 柏木が、兄に口付けているのが見えたからだ。
 景一はそっと一歩下がり、息を整えた。高等学校の寮の話は多少聞いていたから、あまり驚かなかった。それに、中学にも同じ輩はいる。景一自身、先輩から言い寄られた経験があった。ただ少し、兄がその対象になっていることに驚いたのだった。確かに兄はきれいな容姿をしていたが、女とばかり遊んでいて、そんな様子は全くみえなかった。
 景一は知らぬ振りを通すことを決めて、戸を叩いた。柏木の低い声が答えて、景一はそっと戸を開けて入って、兄が寝ていることを知った。珍しく、壁に寄りかかったまま眠っている。
「客人がいらしているというのに、仕方のない兄ですね」
 景一がため息交じりでそう言うと、柏木がくすりと笑う。彼の笑い方は独特で、ゆっくりと瞬きをしながら、微かな笑みを浮かべる。それはひどく大人びていて、景一などは少し面白くないなどと思ったりする。
「夕べは一睡もしていないからね。それに、俺は客扱いされるほどのものではないよ。それよりこの間は悪かったね」
 え?という顔をすると、無理やり飲ませたから、と言う。景一はそのことは早く忘れたかったから、いえ、と短く言うと、母が夕餉の支度をしているのですが、と話題を変えた。
「それはありがたい。しかし、兄上がこれだから……」
 柏木がそう言って、その大きな手で兄の髪に触れた。景一はなぜか見てはいけない気がして、視線を逸らした。
「兄は放っておいて、柏木さんだけでもどうですか」
 そう言うと、柏木はそれでは、と言って立ち上がった。何処からか、雨の匂いが漂った。
 そう言えば、降りそうな雲だったと、景一は思い出す。

 柏木のいる食卓は、いつもと違ってどこか華やかだった。あまり多くのことは語らないが、博識で、景一はいろいろな話を興味深く聞いていたし、父親も良い話し相手とでも言うように、自分の専門のことを楽しそうに話していた。ただ、父親も母親も、彼が静のどういった仲間であるのか、わかっていたようだった。
 しばらくして静が降りてきて、食卓は一段と賑やかになった。いつもの三人の食卓とは大違いで、景一は少しずつ、居たたまれなくなる。父や母の、こんな楽しそうな顔はしばらく見ていなかった。
 食事が終わるとすぐ、静と柏木は寮に帰るという。外は雨で、静は途中寄り道をするからと、景一が柏木を送っていくことになった。
 柏木は最初は断っていたが、傘はなく、雨脚もひどかったので、静に押し切られる形で、二人は雨の中を歩き始めた。景一が持ったのでは柏木の頭に傘がぶつかるから、必然的に柏木が傘を持つ。そうやって近くに並ぶと、景一と柏木は頭一つ分ほど違うのだった。
 途中までは静が一緒で、景一は二人の話を黙って聞いていればよかった。話と言っても、学校の授業のことなどを、なんとなく話している、と言う感じだった。あえて、二人の関わる仲間のことは避けているようだった。
「君にはすっかり迷惑をかけっぱなしだ」
 静と別れたあと、柏木がそう言うので、景一はいえ別に、と答えた。実際、何か迷惑をかけられたとは思っていない。身長差のせいで少し早歩きをしながら、景一は先刻のことを思い出していた。壁に付けられていた、大きな手。重なっていた、唇。ふと柏木が立ち止まって、景一のほうを見た。
「さっき、見てしまった?」
 傘の影であまり表情は見られなかったが、柏木は困ったようにそう言った。景一はすぐに否定を出来ずに、答えに詰まる。
「兄とは、そう言う関係なんですか」
 そんなこともありえるかもしれない、そう思って、景一は答えずに質問する。それには、柏木は苦笑めいた微笑で、首を振った。それならば、と景一は言う。
「それならば、兄には言いませんから」
 そういうと、柏木はくくっと笑って、口元に手をもっていく。でも、握られた手からは、大きく笑っている口が見えた。景一は何がそれほどおかしいのかわからず、立ち尽くした。
 傘にあたる雨の音が、一際大きくなった気がした。突然立ち止まった景一に、慌てたように柏木が傘を差し出す。それから、自分を落ち着かせるように大きく息を吸った。
「ありがとう。そうしておいてくれると助かるよ」
 柏木はそう言うと、今度上手い酒でもご馳走しよう、と言って、傘を景一に渡すと駆け出した。いつのまにか、寮の前にきていたのだ。
 一瞬見えた右肩がいやに濡れているのが目に入って、景一は自分が全く濡れていないことに気づく。雨はだいぶ小雨になっていたが、その白い雨の中を走っていく柏木の後ろ姿を、景一はぼんやりと眺めた。


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