蜜と毒 |
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1 恋愛が厄介なのは、共犯者なしでは済まされない罪悪だからだ -C.ボードレール- 夏休みの学校は、やはりどこか緩やかな空気が流れている気がする。たとえいつもと同じように、補習という名の授業をしていても。 補習といっても、希望制の夏期講習だった。やる気のある者が来ている、はずだった。 「歴史は、その時のことだけを見ていても、あまり頭には入らない。この夏期講習では、テーマごとの流れを説明して行こうと思っている……」 開けられるところは全て開け放された窓からは、慰め程度の風しか入ってこない。じっとりと涌き出てくるような汗は、ワイシャツを濡らし始める。 「あちーっ」 静かな教室に、無遠慮な大声を上げて入ってきたのは、学年の問題児といわれる、坂城 京梧(さかき きょうご)だった。遅れてきたことを気にもせず、一番前の空いている席に、どさりと腰をおろす。 がちゃがちゃとうるさく用意をする京梧を無視して、裕貴(ひろたか)は板書を始めた。 「今日のテーマは……」 教室がまた静まりかえって、裕貴の声だけが響く。その背に京梧の視線を感じて、それから逃れるように、振り返る。 『先生の背中ってそそられる』 昨晩そう言われた声が蘇って、居たたまれなくなる。 『汗に濡れて、薄っすらと肌が透けるところとか……』 そう、背中を辿った指。振り払っても振り払っても蘇る幻影に、裕貴は目を閉じて頭を振った。それから、用意していたプリントを配る。 「これから配るプリントは、きちんと整理しておけよ。夏期講習の間、同じ様式でまとめたプリントを何枚か配るから」 ふと、手が止まる。プリントを置いた手を、そっと触れられたからだ。 「自分でまとめてもいいが、時間かかるぞ」 気付かない振りをして、やり過ごした。 「紺せんせー」 今年の夏期講習の希望者が増えたのは、紺 裕貴(こん ひろたか)のせいだと影で囁かれた噂は、あながち嘘でもないようだった。その証拠に、日本史の講習だけが、やけに繁盛していた。誰が講習をするかは、あらかじめ生徒に知らされていたわけではないのに、しっかりと伝わっている。生徒も侮れないと、裕貴は思い知らされた。 「はい?」 「先生は夏休み中、ずっと補習なんですか?」 入りたての新人教師には、女生徒の胸のシャツの開き具合は犯罪ものだと思いながら、裕貴は考える振りをして、目を逸らした。 最初こそはドキリとしたが、魅力を感じるわけではない。半分、呆れている。それで釣れるのは、教師よりも男子生徒だろう。 「これでも夏休みはあるんだよ。でも、実家に帰るくらいじゃないかな」 当たり障りのない答え。それがどんなものかも、裕貴はここ半年もしないうちに学んだ。下手に出かけるなどといったら、しつこく行く場所を聞かれたり、挙句の果てには、一緒に行きたいなどと言い出す。 うんざりだった。 「ご実家って……」 「ごめんね。次の用意があるんだ」 なおも聞いてこようとする生徒に、申し訳なさそうな顔をして、その場から立ち去る。 それから、聞こえないように小さくため息をついた。 「もてもてじゃん」 資料室に入ると、鍵が開いていた。窓際の机の上に、見慣れた足が乗っている。その後ろの窓は大きく開かれていて、心地よい風が机の上の書類を飛ばしていた。裕貴はきちんと事務室から鍵を持ってきたのだから、京梧はどうやって入ったのだろう。 「靴ぐらい脱げ」 気持ち良さそうに、風に吹かれている。その足を、持っていた教科書の背で叩いた。 「いてっ。そこで叩くなよ。しかも脛」 「鍵、どうしたんだ」 痛がる京梧を無視してそう言うと、京梧は悪戯をしたように笑って、手を顔の高さに上げて、ちゃらちゃらと鍵を揺らした。 「合鍵……か?」 「そ」 「お前、いつのまに……」 「先生が女といちゃついてる間に」 京梧の子供じみた答えに、裕貴はため息を隠さなかった。ここで否定しても、空しい言い争いになるだけなのは、もう分かっていた。 あれを、どう見たらそうとれるのだろう。 「貸せよ。学校の警備上の問題になる」 ネクタイを緩めながら手を差し出すと、そのまま引っ張られる。椅子に座ったままの京梧の髪が、ふわりと揺れた。気持ち良さそうにその顔が緩んで、それから、唇が重なった。 「冷たいな」 外は空気をも焼くように日が照り、資料室の中も、サウナのように暑いのに、京梧の唇は冷たかった。 「ジュース飲んでたから。飲む?」 「その前に、鍵」 そう言って、机の上から京梧の持っていた鍵を取る。 「冷たいな」 今度は京梧がそう言いながら、裕貴の腰を引き寄せた。 「やめろよ、暑い」 「冷たいよな、ユーキは」 そう言いながら、京梧は手を離した。学校では、絶対に抱き合わない。それは、二人の暗黙の了解のようなものだった。 ――そしてもう一つ。強制されたような、暗黙の了解―― 「おかえり」 日は傾き始め、一日が闇に包まれようとしていた。暑さで必要以上に疲れていた裕貴は、ドアの前に座り込んでいる人物にも、声を掛けられるまですぐには気付けなかった。 「目、悪くなるぞ」 鍵を開けながら、隣で読みかけの本を持って、ズボンの埃を叩く京梧にため息をつく。 「あぁ。夢中になってたから」 そう言いながら、大きくあくびをする。ちらりと横目で見ると、前に薦めた時代物の本だった。時代背景がしっかりと調べられていて、良い勉強になる。 「めし、食ってくか?」 「何?」 「暑いしな。そうめんか……」 「……」 「天ぷら、つけてやるよ」 「揚げ茄子の煮びたしがいいな」 「自分で作れ」 裕貴はネクタイを外し、シャツから着替える。京梧は冷蔵庫から麦茶を出して、コップ二杯に注いだ。 「天ぷらも俺が作るんじゃないの、どうせ」 「揚げるのは京梧の方が上手いからな」 ラフな格好をした裕貴が、にっこりとそう笑うと、京梧は諦めたように返事をした。 「手伝えよ」 「はいはい」 京梧はそうめんがあまり好きではない。薬味をたくさん作らないと、あまり食べる気がしないのだ。 下ごしらえは二人でしても、揚げるのは京梧の仕事だ。自然、裕貴はそうめんを茹でることになる。 「みかんいれるなよ」 「なんで?彩り良いじゃん」 毎回、みかんは入れるなと京梧が言うのに、裕貴は懲りずにみかん缶を手に取る。それが開けられても、みかんを食べるのは裕貴だけだった。 「ユーキもビール飲む?」 冷蔵庫を覗きながら、京梧が叫んだ。小さなテーブルには、所狭しと料理が並んでいる。京梧が裕貴をユーキと呼ぶことに意味があることを裕貴が知ったのは、つい最近だった。裕貴を、確かにそう読むことは出来る。 「飲む」 冷たいビールの喉越しを思い出して、裕貴は喘ぐように手を伸ばした。 「はい。乾杯」 笑いながら缶を手渡されて裕貴がそれを受け取ると、京梧は喉を鳴らして自分のビールを飲んだ。 「未成年の飲みっぷりじゃないな」 思わず言うと、口を塞がれた。 うるさい、と言いたいのだろう。 抱き合う時はまず、裕貴が京梧に手を伸ばして、愛撫する。最初の頃は、それが一つの儀式のように成されていた。 どれだけ京梧が手を滑らせても裕貴は譲らず、京梧が求めたときでも、まず裕貴が京梧自身に手を伸ばす。 裕貴のプライドの問題なのかと京梧は思ったが、それでは説明し切れなかった。もっと何か、大事なことがあるように、裕貴は京梧に触れていた。 それが二人で求め合うように抱き合えるようになったのは、最近のことだ。 あれは、犯されているようだったと、京梧は思う。 「んっ……きょう……」 綺麗な顔をしていて、だからこその怖さを持っている裕貴が、こんな声を出すとは、誰も思わないだろう。放任主義のようでいて、肝心なところはちゃんとみてくれる先生……裕貴の意図しないところで、そんな評価が生徒の間では成されていた。 大方、京梧あたりがばら撒いた評判なのだろう。 裕貴は、そう思っていた。 問題児と、一言で言い切ることが出来ない問題児。 それが、職員室内での京梧の評価だ。 徹底的な悪事を働くわけではなく、気に入らないことに対してだけ、いやに巧妙な方法で攻撃する。率先してやるのではなく、どちらかと言うと、知恵を授けて手駒を動かす、そんな感じだった。 その手駒が、嬉々として動かされていることが、裕貴には恐ろしかった。 自分も、その一つかもしれない。 「やぁっ――……ん……や……あ……っ」 触れられるだけで、狂うように熱い。ほんの少し肌を押す指が辿る場所が、ざわざわと総毛立つ。 裕貴の体は、抱く毎に感じやすく、淫らになる。 それに、京梧は狂わされていく。 これが、全てから目を逸らした、結果だった。 |
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モドル |