* 02


 
水槽の中で泳ぐ

01

 キャラメルみたいだ、と言った。おいしそう、とも。
 たぶんそのとき、貴広(たかひろ)は参ったのだと思う。
 つまり、最初からだ。

 薄く睡蓮の花の彫りが入った金魚鉢を右手に抱えながら、香月はずんずんと歩いた。きつく抱いたら割れてしまうんじゃないかと思える、薄いガラスのその金魚鉢の中には、赤い、シンプルな金魚が一匹泳いでいる。
 シンプルじゃない金魚って?
 そう言った、智之の声が蘇ってきて、香月は歩きながら、もうっ、と大声を出した。何でこんなことを自分は覚えているのだろうと思うと、腹が立ったのだ。
「そうよ。最初から、私には君だけだったんだわ。そして、君には私だけだった」
 ちゃぷちゃぷと揺れる水面にそう言うと、金魚は聞いているのかいないのか、ゆらゆらと揺れる。
 美しい金魚だった。無駄なところのない、水の中で生活するための身体を持った金魚だ。ひらひらと着飾るようなひれもない。そんな怠惰な金魚ではないのだ。
 香月は金魚鉢のほかに、小さな旅行鞄と紙袋を二つ左手に提げていた。その肩には、ハンドバッグが掛かっている。
 二年だ。二年間も、あの部屋にいた。何度一緒にご飯を食べ、何度抱き合っただろう。二人でお酒も飲んだし、ビデオを見たり音楽を聴いたりした。帰らなくて良かったし、帰さなくても良かった。そこが、帰るところだった。
 夕方の街角に、まだ車はあまり通っていなかった。五時前なのだろう。それで香月は、ただでさえ一直線、というように歩いていたのに、十字路に出ても周りなど気にもしなかった。
 キーッという音が聞こえて、香月は大切な金魚鉢を思わず落としてしまった。目の前に、薄茶色の大きな車が止まっている。香月は道端で跳ねる金魚を見て、「大変!」と叫んだ。持っていた荷物も投げ出して、その金魚を両手にそっと拾い上げる。
「突然飛び出すなんて危ないだろっ。おい、大丈夫か」
 車から降りてきたらしい男が、そういって香月の傍に寄ってきた。香月の目に、高級そうな革靴が映る。
 男は男で、錯乱気味になっている女を見て、軽くため息を吐いた。ヒステリックな女は嫌いだった。ぶつかってはいないが、道に散乱しているガラス片に、何かを割ってしまったらしいことがわかった。座り込むような格好をしている女の手元を覗き込むと、小さな赤い金魚がぴちっと尾びれを動かした。
「おい、」
「どうしよう」
「おい、大丈夫なら俺行くよ」
「何か、水を入れておけるもの……」
「あのさあ」
 香月は男のことなど構っていられなかった。早くしなくては、金魚が死んでしまう。金魚は、水の中以外では生きられないのだ。
「ねえ、何か水を入れておけるものないの?」
 自分の荷物の中にはそんなものはない。必要最低限のものしか掴んでこなかったのだ。
「水なら持ってるけど……」
 男はいつも、ミネラルウオーターを持っている。喉がすぐ渇く性質なのだ。
「水はあるのね。そう、あとは……」
 香月は必死に考える。何か――
「コンドーム!」
「は?」
「コンドーム、持ってないの?!」
 香月の言葉に、男が呆気に取られたのがわかる。でも、よく見れば男はつくりの良い顔をしていたし、筋肉質ですらりとした体躯に、高級そうな服を着ている。女にはもてそうで、女たらし、と言ってもいいかもしれないような雰囲気だった。
「あなたなら一個ぐらい持ってるでしょう?ねえ。それぐらい男の身だしなみだわ」
 男は思わず吹き出しながら、それでも鬼気迫る香月に財布を探る。
「俺ならってどういう意味かなあ?別にいつも持ってるわけじゃないんだけど」
 男の言うことなど聞かずに、香月は財布から取り出された小さな袋を奪い取ると、その封を切る。それから、水っ、と叫んだ。
 男が車から取り出した水のボトルを差し出すと、コンドームの口を開けた香月が、そこに水を入れるように指示をする。汚れることなど気にしていないのか、金魚はそっと座り込んだ太腿の上に置かれていた。
「はい、これ持って」
 香月がそう言って、水のたっぷり入ったコンドームを男に渡す。ここまでくると、男は素直に従うしかなかった。
「もう大丈夫よ。ほら、この中に入って」
 香月は話し掛けながらその水の中に金魚を滑り込ませると、ほっと息をついた。それから、ありがとう、と言って金魚入りのコンドームを受け取る。その顔がほんとうに安心したように笑って、男は自分までほっとしたのがわかった。よく見ると、コンドームの水槽を持つ女の手が少し傷ついている。
「大丈夫?手、血が出てる」
「え?あら。うん。これくらい平気よ。でも良かったわ。桃子に何もなくて」
 香月はそう言って、コンドームを目の高さに持ち上げる。その中では、小さな金魚がゆらりと水中に浮かんでいた。
「桃子?この金魚の名前?」
「そう。素敵な金魚でしょう?」
 そう言う誇らしげな香月の顔に、男は苦笑を隠しながら頷いた。
「カッコイイ金魚だ」
 香月はその言葉に、嬉しくなる。カッコイイ金魚。なんて桃子にぴったりなのだろう。
 自分の身体に凹凸がないからって、金魚にまでそれを求めなくても良いじゃないか、と言った智之に聞かせてやりたかった。
「それにしても、すごい荷物だね」
 男はそう言いいながら、放り出された鞄や紙袋に視線を投げる。紙袋からは、絵本が何冊か飛び出していた。温かい色の絵が見える。
「ええ、そうなの」
 香月はそう言うと、ため息を吐く。行く当てはあるのだ。高校時代の友人で、ここから二駅のところに住んでいる、公子(きみこ)のところへ行こうと考えていた。でも、連絡もしていないので、快く迎え入れてくれるかわからない。恋多き可愛い公子は、いつでも恋人を迎え入れる準備だけはしているようだったけれど。
「もし良かったら、送ろうか」
 とても良い案だというように男がそう言って、にっこりと笑った。自分に自信のある人の顔だ、と香月は思う。
「それ持って歩くのもなんだか……ね。金魚鉢が割れたのは俺にも少しは責任あるし」
 男がそう言うのに、香月はそれもそうだ、と思う。誰もこれがコンドームだとは思わないだろうが、これを持って電車に乗るのも、いつ割れるかわからなくて怖かった。
「いいのかしら?」
「もちろん」
 男はそう言って、香月の鞄を持ち上げる。それから車のドアを開けると、どうぞ、と香月を促した。その車をそのとき初めてじっと見た香月は、美味しそうな車、と微笑んだ。
「え?」
「キャラメルみたいで、おいしそうね」
 香月はそう言いながら、コンドームの水槽を優しく抱いて、助手席に座ったのだった。

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