水槽の中で泳ぐ
02
男は、敦賀貴広(つるがたかひろ)と名乗った。車はどうやら高級車らしく、とても乗り心地が良いと香月は思う。乗り心地が良すぎて、眠るか、気持ち悪くなるかしそうだった。
「答えたくなかったらいいけど……もしかして子供いるの?」
貴広が、口調は丁寧ではないがさすがに遠慮した声で、そう聞いてくる。年齢的に同年代と見えるから、香月もわざわざそれを注意しようとは思わなかった。
「いるように見える?」
「いや。でも、絵本なんて一杯持ってるから」
ずいぶん短絡的な発想だと思ったが、香月はそれを口には出さなかった。
「これはね、仕事なの。イラストレーター」
「ああ、そう言えば同じ絵だったかな」
貴広はちらりと見えた絵本を思い出しながらそう呟いた。見えたのは、つぶらな瞳の象と、空に消え入りそうな鳥の絵だった。隣に座って、膝の上に金魚の入った袋を抱いている香月のイメージとは、少しだけずれている。スレンダーな身体をグレーのパンツスーツで包んでいる。それを言うと、香月はああ、とゆっくりと笑った。
「絵を描くときはこんな格好しないわよ。今日はね、大事な日だったから」
「大事な日?」
「そう。新スタートの日」
ね、と話し掛けるように、水の中の金魚を見る。その香月を横目でちらりとみると、まっすぐとした目が見えた。どこか頑固に、強がっているような瞳。
貴広は、これから会いに行くはずの女のことを思った。貴広に他に女がいるとわかっていて、それに激しく嫉妬しながら、強がる女。そんなときの目はひどく醜く、でも醜いがゆえに、貴広を楽しませもするのだった。今となりで外の景色をじっと見つめる、深く透明な瞳ではない。色々なものがない交ぜになった、濁った瞳。女が貴広のものになり、貴広が自分のものになったと女が思った瞬間から、貴広はどんどんとその女からは離れていくのだ。それを知らない、愚かな目だと貴広は笑う。
「その金魚、何で桃子?」
口数が少なくなり、ぽつりぽつりと道筋を言うだけになった香月に、貴広が話し掛ける。自分の声など聞いていないんじゃないかと思ったが、振った話題が良かったのか、香月はきちんと反応した。
「女の子らしい名前にしたかったのよ。外見とは裏腹な、可愛らしい名前」
香月はそう言うと、また金魚をうっとりと眺める。その香月の顔は、なぜかひどく幸福そうに見えた。
別れ際に、良かったら、と絵本を渡された。なんとも愛らしい、それなのに威厳を持った、ライオンの絵が描かれていた。
女の元に行く気になれずに、部屋に帰って断りの電話を入れると、女はひどく罵ったが、いつものように電話を放り出して、その本を開いた。女の電話は、「ちょっと聞いてるのっ」という、まるで言い慣れたセリフのような言葉の後に沈黙を流して、やがてきれた。
静かな室内で、ソファーにゆったりと座って絵本のページを捲った。絵本独特の、硬く大きな表紙に、薄い幅。貴広の大きな掌に、それはしっかりと、でも少しだけ居心地が悪そうに支えられる。
ライオンは名を持っていなかった。仲良しの少年には、ただライオンと呼ばれていた。それは、小さなライオンだ。どれほどかと言うと、手のひらに乗るくらいなのだという。それでもライオンは勇ましく、色々な冒険を繰り返しては、少年にそれを語るのだ。自分より大きな猫に戦いを挑んだり、どこか遠くに旅に出たりもする。ライオンは少年に飼われているわけではなく、少年の家の庭に住んでいる。そこは、故郷の草原に似ているのだそうだ。
ライオンは言う。
「僕は小さくてもライオンなんだ」
そのライオンの顔が、とても気高い。
貴広は立ち上がって、冷蔵庫からボトル缶のビールを出してくると、蓋をあけてそれをごくりと飲んだ。二十階の部屋の窓からは、憂いの含んだ夕焼けが見える。その夕陽に照らされた手のりライオンの誇り高い顔が見えて、貴広は小さく笑った。
「それで?出てきちゃったって言うの?」
呆れたような公子の言葉に、香月は金魚をガラスの金魚鉢に移しながら頷いた。それから、手に持っていたコンドームを、ぽいっとごみ箱に投げ捨てる。公子がそれを目で追って、さらに呆れた顔をした。話の順序はあべこべで、まず先に、香月は手に持っていた金魚とその入れ物について公子に事の経緯を話さなければならなかった。
「もういいかげん潮時だったのよ」
そう、金魚を見ながら、他人事のような口調で笑った香月に、公子は小さくため息をついた。確かに二人は、どちらかというと習慣のように一緒にいただけで、もう情熱なんてものはなかったのかもしれない。
「居候は良いけど、ご飯作ってね」
公子はお湯を沸かして、紅茶を淹れる用意をした。香月は料理が好きで、何か作るときはよく、公子もお呼ばれしたものだ。その三人の、または四人の食事が、どことなく懐かしい。
はーい、と良い子のような返事を香月は返して、早速冷蔵庫を覗く。相変わらず、ビールとチーズとヨーグルトだらけの冷蔵庫だ。それでも、サラミとレタスを見つけて、今晩はパスタにしよう、と香月は考えた。
智之とは、大学で知り合った。それから、社会人になるにあたって、二人で暮らし始めたのだ。それも、家賃が安くなるとか、そんな理由だった。
最初から、流されていた、と香月は思う。自分も、智之も。なんとなく話が合ったし、お互い恋人がいなかった。そんな風に、単純なものだったと思う。
それでも、二年も一緒にいたのだ。新しい彼女を作るなら、なんできちんと別れ話をしてくれなかったのだろう。香月が怒ったのはそのことであって、心変わりを責めたわけではない。でも、智之はそれをわからずに言い訳をしたりするから、香月は嫌になって飛び出してきたのだ。
パスタは、智之の得意料理だった。適当に作ることは出来ないが、本などを見ながら作るパスタは本格的で、いつも美味しかった。
どうして、恋人同士になんてなったんだろう。友達だったら、良かったのに。けんかしても、仲直りすれば、また遊べたのに。
香月はそんなことを思って、少しだけ哀しくなった。