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papillons
3.オママゴト
国語科の準備室にははじめて行ったが、入る前からコーヒーの良い匂いが漂っていて、明良は、何故か緊張していた心を解いた。
ノックをすると、どうぞ、と言う明るい声が返って来る。
「そこに座って。コーヒー、飲む?」
「はい、頂きます。それにしても、国語科の準備室がこんなに心地いいところとは思わなかったな」
座りながらそう言うと、杏子はにっこりと笑ってコーヒーをカップに移す。明良は周りを興味深そうにきょろきょろと眺めながら、杏子の様子を探っていた。一体、なんで呼ばれたのか、今だ分からない。
哲を良く知る二人で、繋がりがあってもおかしくないのに、二人は避けるように話さないで来た。明良に関して言えば、避けていた、と言ってしまって良いだろう。
杏子は、ときどき明良を興味深そうに見ていることはあった。そしてそのことに、明良は気づいている。
杏子は、明良の気持ちに、多分気づいている。
明良にとっては、これほど嫌なことはなかった。それは、たとえ杏子でなくても同じことだ。穏やかに過ごすために、誰にも気づかれずにいるのが、明良には一番だった。
「熱いから、気をつけてね」
杏子はそう言いながら、明良にカップを差し出した。明良はお礼を言いながら受け取ると、一口それを啜る。
杏子は自分のカップにもコーヒーを注ぐと、窓際に立って外を眺めた。もう田植えは終わり、青々とした光景が広がっていた。
早いな、と杏子は呟く。
ついこの間まで、水しかなかったのに。
明良は、コーヒーを飲みながら、その杏子を眺めていた。ふくよかな胸と、ほっそりとした腰が見えて、その線を辿る哲の手を想像してみたが、上手くいかなかった。
「私を抱いてみないかって、哲が言ったんですってね」
ふいに杏子がそう言って、明良は、えぇ、と曖昧に頷いた。
「その気、ない?」
一瞬、杏子の言っている意味がわからなくて、明良は瞬いた。それから、どう答えようかと思案した。
「女の子、抱いたことある?」
明良が答えるより先に、杏子がそう笑った。思わず、という感じにこぼれた笑顔で、明良はやはり杏子は気づいている、と確信した。
「ありますよ。多分、高尾より上手い」
明良がそう笑うと、今度は杏子が目を瞬かせた。ごまかすようにコーヒーを飲み、やはり、藤野明良と言う生徒のことを、自分は良く分かっていなかったな、と思う。哲より、ずっと大人の男の顔をする。
「私の魅力がないってこと?」
それは、詰るとかそう言う口調ではなくて、駆け引きのようなものだった。媚びるような口調と言ったほうが良いような。杏子はだいぶ、明良に興味を抱いていた。
「いえ。先生は充分若いし、綺麗ですよ。でも、俺は今は誰かを抱くのって面倒なんです」
明良が何を言っているのか、杏子は分かるはずだった。実際、杏子はにこっりと笑って、そう、とコーヒーを飲んだ。面白い子だわ、と思う。自分たちのことを、オママゴトと言っただけのことはある。
「同じ抱かれるもの同士としては、その気持ちはちょっとわかるかな」
委ねてしまうことの気楽さ。相手が良ければ良いほど、それは本当に楽な行為だ。
明良を見ると、いつもと変わらぬ様子で、コーヒーを飲んでいた。面白い子だわ、ともう一度思う。あんなことを、さらりと言ってのけると言うのも、珍しいのではないだろうか。
「ねぇ、その気になったら相手してね」
半分本気でそう言うと、明良は、えぇいつか、とにやりと笑った。それは、そんなときはいつまでも来ないと言っているようで、杏子を少しがっかりさせた。
明良はそんなことには気づかぬように、そう言えば、と言うように顔を上げた。
「高尾は、……上手いんですか?」
言葉を探してみたが見つからず、明良は仕方なく、興味を極端に表した目をして問いかけた。杏子は目を細めて笑って、上手いわよ、と言う。
「時々乱暴で、それがまたいいのよね」
そう言って明良を観察してみたが、明良は頷きながら穏やかに笑っただけだった。まったく、と杏子は少し教師と言う立場を思い出したように考える。
全く、この子は無気力だわ。
少しぐらい、妬いてみせてもいいだろうに。でも、ままごとだからいいのだろうか。
あまりに穏やかな笑顔に、杏子はそれを聞くことは出来なかった。
「つまり、どういうことだよ?」
哲はイライラしたような口調で、座りもしない。杏子はそれを横目で見ながら、寒いなぁと呟いた。すっかり日の落ちた準備室は、ちょっと肌寒い。
「やっぱり、あの男は藤野の」
そこまで言って、哲はため息を吐きつつ、少し考えたが、適当な言葉が見つからず、恋人なわけ?と乱暴に言った。
哲はやっぱり可愛い。
杏子はそう思いながら、表情にはそれを出さず、そうみたいね、と呟いた。しっかり明良の、自分の言った言葉の意味がわかっているくせに、確認してみたりする。違うと笑って欲しいのか――でも、それほど自分も世間も優しくないぞ、と杏子は思う。
「藤野が」
また、言葉を切る。杏子はその先の言葉を知っているのに、哲から聞きたくて黙っている。
「藤野が、抱かれてるってこと?」
本当に、哲は可愛い。杏子はほころぶ顔を堪えられず、それを隠すために窓から外を覗く振りをして、哲に背を向けた。混乱しているのに、自分でそれに気づいていない。精一杯冷静な振りをして、――まったく、かわいい。
明良と、明良を車に乗せていた男のことが気になってならなくて、哲はそのことを杏子に何度か呟いた。本人は気づいてないが、それは本当に、気になって仕方がない、という感じだった。だから杏子は、それなら、今日の放課後に自分と明良の会話を聞けばいい、と言ったのだ。
自分が楽しんだことも、否めない。
杏子は哲を失いたくはない。でも、それは「哲と明良」を失いたくないのかもしれなかった。この二人の微妙さを、自分は好んでいるのかもしれない。
そう考えて、杏子は自分の馬鹿さ加減に苦笑する。なんて、――なんて、酷い女だろう。
今回も、この哲の混乱振りを見たかったのだろうと納得し、いい加減自分に呆れる。
「ねぇ哲、ちょっと、寄っていこうか」
本当に、なんて女だろう。そう思いながら、杏子は自分の言葉を止められない。
「藤野君と、同じこと、しようか」
今の哲に、抱かれてみたい。杏子はその自分の欲求を、堪えられなかった。
いつものように、哲は電車で学校から少し遠い町に出た。問題を起こすことは二人の目的ではないから、とにかく面倒は避けたくて、いつもより二十分ほど余計に電車に乗って、駅前の駐車場に止まっている杏子の車に乗ることになっていた。
流れる街に集中しようとしても、哲はそこに重なるあの男と明良の像を消すことが出来なかった。言われてみれば、藤野は男も女も関係なさそうだな、と思う。でも、大体、あいつがよがっているところとか、想像できない。
哲はそう思いながら、関係ないじゃないか、と思考を止めようとする。もうすぐ、杏子を抱くのだ。今は、何故か杏子を抱きたくて仕方がない。多分、杏子が言わなかったら自分が誘っていただろう。
哲はいつもの場所の杏子の車に乗り込むと、早くいこ、と呟いた。杏子はそれを笑う。自分のしたことが間違っていなくて、嬉しくなる。でも、哲はそれから、すっかり黙ってしまった。
ホテルについても、哲はあまり話もせずに杏子を抱いた。杏子はそれすら楽しんだが、少し、いたずらが過ぎたかもしれないとも思っていた。
「どうしたの?」
「何が」
「なんか……ね」
杏子は哲のだるそうな、でも曇りのない目を見ながら、言い淀んだ。それから誤魔化すように、シャワーを浴びに行こうと立ち上がると、哲が半身を起こして、その腰を抱いてきた。背中に額を押し付けて、もう一回しようか、などと囁く。
「もう、帰らないと」
時計はとっくに夕食の時間も過ぎていて、杏子は和巳に思いを馳せる。こんなところで、生徒と抱き合ってるとは思ってもいないで、自分のための食事さえ作っているだろう夫に。
それでも哲は腕を解かず、唇をそっと沿わせ始める。
「哲、」
諌めてみるが、そうすることで、きゅっと腕の力が強められる。
その力を感じて、杏子は突然、虚しくなった。
哲は、こうして自分に縋るようにしているが、決して満たされないのだ。それは杏子の問題なのではなく、哲の側の問題で、自分がどれだけ気持ちを傾けても、哲は満足しない。
分かっていたそんなことが、突然杏子の顔を歪ませた。何故かそれがとても嫌で、無理やりのように哲の腕を解いて、そこから逃れる。でも、何が自分に哲を縛り付けているか、哀しいことに杏子はそれを知っていた。
「あと一回だけよ」
口付けながら、そう囁く。
どうしよう。
そう思って、何が?と自問する。何が、どうしようなのだろう。
杏子は哲の混乱が移ったように、イライラした。
――何が、どうしようなの?
和巳に会いたい。帰りたい。
杏子はそう思って、愕然とする。そんなことは、たぶん初めてだった。哲に抱かれながら、和巳のことを思い出すことはあっても、その腕を恋しいと思ったことなど、一度もなかったのだ。
どうしよう。
そう、もう一度思う。
――どう、しよう。
スープの入った鍋をかき混ぜながら、和巳はもう何度見たか分からない時計を見た。あと十分したら食べてしまおう。そう思った十分は、もう四度か五度は経っている。和巳はぐるりともう一度鍋をかき混ぜて、ぞんざいな手つきでそのお玉を離した。それから、スープ皿を持ってきて、その中にスープを盛る。具沢山のスープは、スープと煮物の中間と言った感じだった。それをテーブルに置くと、フランスパンを袋から出して、何切れか切る。それから、冷蔵庫のサラダを出す。少し迷って、ワインも出した。全てを無言で済ませると、いただきます、と小声で呟いて、スープを口に運んだ。
考えない。
と、考える。何度も、考えない、考えない、考えないと頭の中で繰り返す。そして、スープを飲み、パンを食べた。
――あの子の名前は、なんと言っただろう。
ふと思い出した記憶に、思考がずれ始めて、和巳は自分が成功したことを知る。
考えない。
日に、何度この言葉を浮かべるだろう。それは確実に安定をもたらす呪文のようなもので、和巳は重宝していた。
――長い髪の毛をいつも自慢そうに触っていたな。
それは、幼い頃の記憶だった。スープを何となくスプーンでかき混ぜながら、その記憶を辿ってみるが、名前を思い出すことは出来なかった。
隣に住んでいたその女の子とは、良くオママゴトをした。それは、覚えている。あれはまだ、幼稚園に入って間もない頃だっただろうか。
――はい、言ってきますのキスしてね
なんて、微笑ましいことを言っていた。子供のオママゴトの手本は大概自分の両親だから、彼女の両親は毎朝そんなことをしていたのだろうか。
そう思ってみても、和巳はその両親の顔を思い出せなかった。時々その子を迎えに来るお母さんは、子供心にも綺麗だと思った気もするが、はっきりした記憶ではない。
――はい、お茶碗でしょ、お皿でしょ、
プラスチックの玩具は、色とりどりだった。包丁は、シャベルが代わりだったと思い出す。
その頃から、自分はこうしてご飯を作ってね、と言われたな、と思うに至って、和巳は思考の回避に成功したわけではないのだとため息を吐いた。
考えない。
もう一度、そう思う。
――今晩は遅くなるから、パパが夕ごはんを作ってね。あんまり遅かったら、先に食べていていいですからね。
何処からか、幼い、可愛い声がする。
そう言って、その子は帰ってきたのだったろうか。
思い出そうとしても、その先は思い出せなかった。スープを掬って、ごくりと飲む。
でも、オママゴトは終わりがある。どちらかのお迎えがきたら、帰らなくてはならない。
そう、帰らなくてはいけなかった。
和巳は、意味もなく、そうだったなぁと、呟いた。
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