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papillons
4.遠い場所
結婚の話は、順調だった。
博紀はそのことを明良に言おうかと、何度も思っては打ち消していた。
良かったね。と、なんでもない顔で言われることが怖かったのだ。
遊びのつもりだったのに。
博紀は明良がシャワーを浴びている音を聞きながら、一人苦笑した。明良は海に行ったときからも何の変わりなく、呼び出しに答えてきた。
――遊びだったんだよな。
そう、自分を諌めるように心の内で呟きながら、煙草の煙を長く吐き出して、ため息の代わりにする。
窓から見える都心の夜は、ここから見る分には、静かだった。どれだけ光が動いていても、それはホテルの部屋の静けさを助長するだけで、賑わいには遠かった。その広い窓にも、大きく落ち着いた色使いのベッドにも、博紀は満足する。それは自分の社会的地位を保証しているようで、博紀を安心させるのだった。明良にしてみればそれは甚だ馬鹿らしいことだと思うだろうが。
博紀はさっきまでの行為を吐き出した煙草の煙の中に思い描く。
何故だかひどく虐めたくて、それも、痛みではなく、快楽の生理的欲求を満たさないことによる苦しみを与えたくて、博紀は散々明良を泣かせた。背をしならせて、腕を摘んで、耐え切れないと言った風に泣きながら求められたくて――
薄っすらと、腕に残る指の跡を見る。あの、訴えかけてくる目を思い出すが、それは博紀の苦笑を誘う。どこか熱に浮かされているようで、あの瞳には自分は鏡のようにしか映っていない。
「森の中の小径にそうて、
まつ白い共同椅子がならんでゐる、」
その先を忘れ、博紀は少し思案してみるが、すぐに諦めた。何度も泣きながら極まって、やっと博紀から解放された明良が、まどろみの後、シーツに頬をつけながら、呟いていた言葉だ。
「何?」
「詩」
「し?」
「そう、詩」
そう言って、明良はもう一度繰り返す。
「森の中の小径にそうて、
まつ白い共同椅子がならんでゐる、
そこらはさむしい山の中で、
たいそう緑のかげがふかい、
あちらの森をすかしてみると、
そこにもさみしい木立がみえて、
上品な、まつしろな椅子の足がそろつてゐる。」
呟くようにそう言うと、明良はシャワーへ行ってしまった。その明良を、博紀は不思議な生き物のように眺めていた。
実際、不思議だ。わけがわからない。
明良と初めて会ったのは、もう一年以上前だったろうか。
割と整った顔をしていて、何よりも、その無垢な目が印象的だった。同じ男好きの友人――と呼べるか分からない、ただその共通項があるだけの友人――からの紹介で会ったのがきっかけだった。別に女を抱けないことはないが、博紀は自分が将来今の婚約者のような、家柄のいい、商売的な相手と結婚するだろうと分かっていたから、面倒なことにならない相手が良かった。そしてそう言う結婚を、博紀は決して嫌がっていたわけではない。どちらかと言えば望んでいて、だからこそ、女を相手にすることを嫌がったのだ。
でも、高校生はさすがに若すぎる。
博紀は、明良に会う前にはそう思っていた。遊ぶには、大学生ぐらいがちょうどいいと。
明良は――
バスの扉が開いて、半裸で頭をがしがしと拭きながら歩いてくる明良を見ながら、博紀はもう一度煙草を長く吐き出す。肉付きの少ない、まだ若い身体だ。
なかせてみたいと思わせる目をしていた。快楽におぼれる目を、見てみたかった。自分の手でこの表情が変わるのならば、変えてみたいと思った。
博紀はその誘惑に勝てず、明良に手をのばした。一度くらいなら、と。
抱いてみて、その目がどう変化したかと言われても、博紀は苦笑するしかない。
遠くなる。
遠く、どこかで明良は抱かれている。快楽にだけ身を任せて、それ以上の気持ちも、言葉も、反応も、ない。
ただ、ただ快楽に忠実になき、顔を歪め、目を潤ませるだけで、遠く、どこかに、明良はいる。明良は快楽に身を委ねているのであって、自分に身を委ねているわけではない。翻弄している手も、腕も、自分かもしれないが、本当に明良を翻弄しているのは、「快楽」だけだ。
それを示すように、明良の目は博紀を見てはいなかった。博紀は、「快楽を与える人」なのであって、「阿久津博紀」ではなかった。
深い、深い、あの海のような目。
その目に囚われたのは、一体いつからだったのか。
ゆっくりと煙を吐きながら、明良を真似て遠い目をしてみる。
最初からかもしれない。
最初から、あの目に惹きこまれたのかもしれない。
博紀はそう思って、唇を噛んで眉根を寄せた。それでは、まるで自分が馬鹿なのではないか。一度くらい、などと言い訳したりして。それが、もう一年も続いているなんて。
「どうしたの」
抱き寄せたら、甘くも優しくもない声で、明良が尋ねる。博紀は明良に見えないように、その肌に唇を寄せながら、自嘲気味に笑う。
こんな男ではなかった筈だ。
何人もの遊び相手を持っていて、気分で選んだりしていたはずだ。最優先は、いつでも自分だったではないか。
でも、と博紀は明良の肌の匂いをかぎながら思う。
今だって、自分の気持ちをちゃんと最優先にしている。
それが、たとえ明良と言う人間のもとに成り立っているのだとしても。
「もう一回、しようか」
呟くと、明良の軽いため息が聞こえた。
杏子の「夫」に、哲(さとし)は一度だけ会ったことがある。会ったと言っても、マンションの階段ですれ違っただけで、それも階段の電灯は暗く、冬だったためにコートを着ていて制服も完全に隠れていたから、和巳にしてみればただの通りすがりだっただろう。哲は、写真で見ていたから、下から登ってくる人物に、あっ、と声を上げそうになった。
でも、歩を緩めることもなく、二人はすれ違い、それ以来一度も見ていない。
普通のサラリーマン、と言う感じだった。
あのとき、哲は和巳に親近感のようなものを感じて、奇妙な感覚に襲われた。思わず、にっこりと声を掛けて話したくなったのだ。まるで、友達に会ったときのように。
その感覚の理由を、哲は未だに見つけていない。どうしてだろうと思うが、納得できる理由は見つかりそうになかった。
「テスト、どうだった?」
昼間のマクドナルドも混んでいる。高校生ばかりなのは、どこもテストだからだろうか。その人ごみを器用に避けながら、トレイに二人分のビックマックセットをのせてテーブルに戻ると、明良がにっこりとそう笑った。哲はトレイをテーブルに置くと、少し乱暴にハンバーガーのパッケージを開ける。
「いつものとおり」
そう言って、かぶりつく。明良はジュースにストローをさして飲みながら、にやりと笑う。
「おまえも、どうせいつものとおり、なんだろう?」
いつものとおり、哲は赤点が心配で、明良は赤点にはならないぎりぎりの点は必ず取っていると確信している。まったく、哲は面白くない。
「とくに今日は国語だろう。お前、国語の点だけは惜しみなく稼ぐよな」
担当の杏子も、藤野君はいつも良い点を取ってる、と哲に厭味のように言うときがある。
「好きだから」
ポテトを齧りながら、明良はそう言って微かに笑った。哲はその表情に、ふとあの夕方を思い出す。少し高級そうな車に乗って、何処に行ったのだろう。
「藤野さ……」
言いかけて、何を聞くつもりなのだろう、と哲は思って口を噤む。一直線になど聞けないし、別に、聞くことでもない。
「なに?」
明良は、屈託なくそう問い返す。いつもの、無垢な目のままで。哲はポテトを取っては口に運ぶ明良のその指を見ながら、いや……と言って、誤魔化すようにジュースを飲んだ。
抱かれて、藤野はどんな風に喘ぐのだろう。
問い返された声に、そんなことを思う。どうやって――……
「高尾?おい、どこいってる?戻ってこいよ」
目の前で手を振られて、哲ははっとして顔を上げた。明良が、呆れたように笑っている。
「そんなに悪かった?テスト」
聞かれて、ん、まぁ……と適当に頷く。明良は、そんな哲の様子を面白そうに眺めた。
一体、何を聞きたかったのか、明良には見当がついている。杏子に呼ばれたあの日、どうやら哲がドアの外で二人の会話を聞いていたらしいことは、分かっていた。
あの日、国語科の準備室を出てから、そこに本を置き忘れてたことに気づいて、取りに帰ったのだ。でも哲の声が聞こえて、明良はノックをしようと上げた腕を下ろした。
だいぶ困惑した様子の哲の声が聞こえて、明良はそれを理解した。
どうして哲が博紀のことを知ったのか、それはわからなかった。思い当たるのはあの海に行った日だけで、やはりあのとき、高尾はいたのだ、と苦笑した。
すっかり無言でポテトを齧る哲をちらりと見て、明良はぼんやりと外を眺めた。すぐ隣の歩道を、自分に見られているとも知らない人たちが、足早に通り過ぎていく。夏も近い昼間の街は、少しいやらしいくらいなまめかしい気がした。こんな時に阿久津といたら、笑ってしまいそうなぐらい、二人の関係は、この景色に似合うだろう。
哲とでは、違和感が拭えない。間違った二人がいるような気がした。
最初から、諦めていた。
気づかなければ良かったのに、気づいてしまった自分の過ちを後悔しても、どうにもならない。明良は、時が過ぎるのを待っていた。
時が過ぎてしまうまで、明良には博紀が必要だった。誰かが、必要だった。ただ、この間のように強烈に求められるのは、明良を困惑させた。
あんなふうに求められると、どうしても、その手が自分の求めるものではないことに気づかされ、そのことに泣きたくなる。何度も何度も、その手が重なる。今、ポテトを摘んでいる手に、頬杖をしている、その、手に。
必死で快楽以上のものを自分に求めるその手も視線も、確かに明良が求めているもので、錯覚したくなる。ただ、その手の、視線の主が違うだけで。
「高尾さぁ、旦那に会ったことあるの」
「ん?あるよ、一回だけ。向こうは気づいてないと思うけど」
「どんな人?」
「どんなって……普通の人」
「普通って?」
「だから、普通。見た感じだけだけどな。杏子と結婚したくらいだから、結構変わりもんなんじゃねーの?」
なんで突然そんなことを聞くんだ?と言うように、哲はじっと明良を見た。明良は、ふーんと言いながら、冷めたポテトに手を伸ばす。
何となく、会ってみたかったのだ。気が合う気がして。
「でもなんかさ」
「ん?」
「ちょっと友達っぽかった」
「なんだよそれ」
「うーん。杏子なしでさ、どっかで友達になりたいって感じ」
ふーん、と言いながら、明良は分かるような気がしていた。
明良は、杏子の夫をかわいそうだとは思っていない。どれだけ哲と杏子が抱き合ったとしても、それはオママゴトだからだ。
自分と阿久津も、同じだと思う。阿久津に婚約者がいようが、明良は別に罪悪感はない。ただ、阿久津の往生際が悪い。阿久津のことだから、結婚しても会って抱き合おうとでも言うかと思ったが、結婚のこと自体をタブーにしているのは、どうしたって明良の理解の及ばないことだった。
明良の待っている時間は、まだ長い。
それは嫌になるほど長く、明良を困惑させるのだった。
「知ってたよ」
そうあっさり言われて、杏子は継ぐ言葉を見つけられなかった。和巳はずるい。杏子はそう思って、泣きそうになるのを堪える。いつだって、和巳はシナリオどおりにことを運んでくれはしないのだ。すっかりそのことを忘れていた自分を恨みながら、杏子はきゅっと握った自分の手を見つめる。綺麗に整えられ、磨かれた爪を指で撫でながら、大きく息を吸い、どうしよう、と思う。
生徒と付き合っている。
そう言えば、和巳が怒って、――それじゃなかったら呆れて、――別れましょう。と言う杏子の言葉を否定しないはずだった。杏子の中ではすっかりそんな風に出来上がっていて、よもや知っていたなどとは言われると思っていなかったのだ。
涼しそうな顔をしている和巳は、それさえも知っているかのようで、杏子をもっと泣きたくさせる。
別れなくちゃいけない。
あの哲と過ごした夜から、杏子はずっとそう思っていて、もう脅迫されるかのように哲との関係を告白したのだ。
撫でるたびに白くなってはまたすぐ赤くなる爪の表面を見ながら、杏子はすっかり困惑しきっていた。
「別れなくちゃいけないのよ」
そう言ってみても、和巳は笑って受け入れはしない。和巳は分かっている。杏子が「別れたい」と言うまでは、大丈夫だと。そして、杏子がそうは言わないことを、分かっている。杏子がわからないそのことを、和巳はきちんと知っていた。それどころか、杏子のこの告白を、前進だと思う。
「別れなくちゃいけないの」
もう一度、杏子はそう言う。それは、和巳にではなく、杏子自身に言い聞かせるように、静かなリビングに微かに響いた。
「何で?」
「浮気をしたわ」
顔色を悪くさせながらそう言う杏子に、和巳が気持ち悪いくらいにっこりと笑いかける。
「浮気だって?本当にそう思う?」
それは、どう言うことだろう。杏子はそう思いながら、まるで答えを求めるように和巳を見る。
「生徒と寝たのよ」
杏子はまるで悲鳴を発するかのようにそう言った。
「セックスなんて、大概誰とだってできるものだろ」
和巳は穏やかに笑いながら、柔らかい声でそう言う。
あぁ駄目だと、杏子は思う。
別れなくてはいけないのに――
哲の腕や手や、あどけなさの残る顔を思い浮かべようとしても、杏子は思い出せない自分を知る。それは、遥か昔の記憶の中に残る、くすぐったいような感覚でしかないことに、杏子は呆然とするしかないのだった。
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