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  その瞳に映る空
「1.夕映え」

放課後は、いつもピアノの音で、眠っていた。

けだるい夏の暑さに、一登は目を開けた。何処からか吹いてくる、かすかな風が気持ちいい。四方を校舎に囲まれている中庭の、四角く切り取られた遠い空に目をやると、日はもう、傾き始めていた。
ピアノの旋律がまだ聞こえている。眠りに入る頃に聞いていた曲と、同じものだ。
座り込んだまま少しぼんやりとその音を聴いている。何度も、何度も繰り返されるフレーズがある。つかえるわけではない。何か、納得がいかないのだろうか。
ふと思い立って、校舎の白い壁が西日に染まっているのを見ながら、音楽室へと向かう。
弾いているのは、あの教師だろうか。
階段をゆっくりと上りながら、一種冷たさの漂う、端正な顔を思い浮かべる。綺麗という形容は男にも使えるものなのだと、初めて見たときは感心したものだ。
辿り着いた音楽室のドアにためらうことなく手をかけて、でも、そっと引く。ピアノの音を邪魔しないように、ゆっくりと。それでも老朽化してきている校舎の扉は音をたて、せっかくの音楽を途切れさせてしまった。
「続きを弾いて、先生」
ゆうに180センチはあろうかという長身が突然現れて、直也は一瞬、見とれたといっていい。きれいな笑顔だった。その瞳と同じ、黒く、艶やかに光るグランドピアノに肘をついてじっと見つめられて、ようやく我に返る。
「何?」
「続き」
また、にっこりと笑う。
「下校の時間はとっくに過ぎているだろう?」
そう言って、直也はその艶やかに光る瞳から逃げるように立ちあがる。開け放された窓に近寄って、カーテンを開けた。夕陽が、教室中の空気に染み渡る。直也は少し眩しそうに目を細めて、胸元から煙草を取り出して一本口にくわえた。ライターの火が灯る音が、静かな教室に響く。
その白いシャツも肌も夕陽に染まっているのを見て、美しいとか綺麗という言葉はこういうことを言うのかと、一登は息を飲んだ。
また、いつもの欲求が湧きあがる。
それに気付かない振りをして、――と言うよりも、その欲求の矛先を転換しただけなのかもしれないが―― 一登は何気なく鍵盤に手を伸ばした。
白くて細い、爪が几帳面なほどきれいに切りそろえられた指がその上を滑るように動くのを、想像した。
「弾いてみるか?」
面白そうに見ていた直也が近寄ってきて、煙草をくわえたまま一登を強引に椅子に座らせる。逃げたというのに、夏の夕日の、濃い空気の隔たりが煩わしくて仕方なかった。鍵盤に伸ばしているその指の、その細かな動きさえ見逃したくなかった。
その几帳面さを伺わせる、細い、でも関節のごつごつした指に、触れたい。
その欲求を、直也はすんでのところで押さえることに成功する。
突然肩を掴まれて座らされた一登は、あわてて首を振る。
「俺、弾けないですよ」
「知ってる」
肩に手を置いているから耳元で声がして、一登の心拍数が上がる。夕陽が回りの空気を染めていて、顔が赤いのを悟られない幸運に、ほっとする。
「いつも気持ちよさそうだよなあ」
くつくつと笑い声がして、閉じられたグランドピアノの蓋に置かれた灰皿へと煙草の灰を落とすために、顔の横からすっと右腕が伸びてくる。その白さに、吸い寄せられそうになる。それに感づいたかのように引き込められた腕を追って、一登は顔を上げた。
涼しそうな、からかっているような顔で煙草を吸っている。
一登は思わず、煙草を持つその右の手首を掴んだ。
夕陽に染まったその腕は、現実味を失っていた。だから、掴もうと思う前に、手が動いていた。今なら、許される。そう思ったのは、どちらだったのか。
一瞬、見つめ合う。
ゆっくりと、掴んだ右手を引き寄せる。
――口付けは、煙草の味がした。


夕焼けに助けられたのは、一登だけではない。後ろの窓から差し込む夕陽に、自分の体が染まっているのを直也は確認した。これで、恥ずかしさに肌が染まっているのを悟られない。それでも、そのほてりをごまかす術は見つからなかった。
一登は吸い寄せられる様にその肌に唇を滑らせる。まるで、直也がピアノを弾くように。うっすらと汗をかいたその一登の肌をシャツ越しに感じて、直也はめまいがしそうになる。やっと、手に入る。
ゆっくりと、すべてを脱がされる。その間も止まない愛撫に、思わずシャツを掴んでしまう。
「新堂……」
名を、呼んでしまう。
「先生」
囁かれて、泣きそうになる。最初に一登のクラスの授業を受け持ったときに、なんて良い声だと思った、その声に。声の主は、その表情が堪らなく愛しくなって、もっと夢中になる。
初めて目が合ったのも、こんな夕焼けの放課後の廊下だった。なんとなく意識しながらも、気付かない振りですれ違う。そんなことを繰り返した。
何度触れてみようと思っただろう。一登は日増しに強くなるその欲求を堪えるのに、苦労した。授業中は、わざと見ないように寝たふりをした。
そしていつの頃からか、放課後にそのピアノの音を聴いていた。間近で見たのは数えるほどなのに、その指の動きが鮮明な映像として見えてくる。手を伸ばせば、掴めそうなくらいに。
「先生……」
愛しそうに囁いて、その手に、指に、自分の指を絡ませる。
「新堂……もう……」
瞳が潤んでいる。もっと、泣かせてみたくなる。
こんな風になるつもりはなかった。もっと、大人の余裕を見せるつもりでいた。それなのに、直也は切なげに喘ぐ声を、押さえきれない。一登の優しい愛撫に、瞳に、狂わされる。
本当は、分かっていた。一度抱かれてしまったら、もう戻れないことを。
「先生」
囁かれる度に、口付けられる度に、求めてしまう。もっと、と……
見上げると、嵐の前を予感させる見事な夕焼けに一登の体が染まっている。その西日に焼けたように熱いその肌を、離すことができない。
そっと触れ、その肌を吸う。その痕が、夕陽の色に紛れない様に、きつく。

「この夕焼けは、嵐になるな」
「夕焼けは晴れ、とも言いますよ」
二人は同時に窓の外の空を見る。もう、日は沈みきっただろう。それでも残りの光だけで、 こんなに明るい。
すぐ上に見えている一登の顔に、直也は手を伸ばした。汗で額に張り付いている髪をかきあげる。漆黒の瞳が、自分を見つめる。その瞳に、自分の姿だけが映っているのを見て、直也は満足した。
そっと、口付けをかわす。
まるで、初めてのような、そして最後のような、切ない、甘い、口付けを。


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