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琥珀に沈む月
03

 一人暮らしの朗のアパートは、狭かった。キッチンと続きの居間があって、そこに布団を敷いて寝ているのだと言った。一応、もう一組布団ありますからと言った朗に、俺は一緒でもいいじゃん、と言った。
「小さくて無理です」
 朗は結構身長が高くて、何かスポーツでもやっていそうながっちりとした体型をしていた。太っても痩せてもいない、綺麗な筋肉がついていそうな身体だ。
「泊めて貰うんだからさ、一晩くらいサービスするよ?」
 言うと、驚いたように少し目を見開いて、目尻を赤く染めた。俺が何をしているかなど知っているだろうに、面白い。
「いや、別に」
「朗も男は平気なんだろ?」
 あの店でバーテンをしているのだ。男が駄目ではきついだろう。そう確認するように訊くと、ええ、まあ、と曖昧な言葉が返って来た。
「それならいいじゃん」
 へらりと笑うと、目を逸らされた。それから、明日早いんで、寝ますと言われてしまった。
「でもさ、お礼したいし」
「お礼なんて別に……」
 朗は言いながら、さっさともう一枚、布団を敷いている。狭い部屋だから、布団はくっついてしまっていた。
「もしそう言うなら、明日、朝食作ってくれませんか」
「朝食?」
「コーヒーとトーストとゆで卵か目玉焼きでいいんで」
 コーヒーはまだしも、後は難問だと思った。俺は家でも料理をしない。ちらりと台所を見ると、トースターとコーヒーメーカーが見えた。コーヒーもインスタントの俺では、少々壁が高い気がしたが、頷いた。
「早いんだろ? 起こしてな」
 そう言うと、朗は僅かに笑った。


 目覚ましが鳴ったのは、七時だった。寝たのは三時頃だったから、四時間しか眠っていない。それでも朗は起き出して、部屋を出て行った。トイレやシャワーは共同だと言っていたから、シャワーでも浴びに行ったのだろう。俺は温もりにかなり心を残しながら、それでも起きた。
 ぼーとした頭のまま、コーヒーと食パンを探し当てる。どこかで見たことがあるはずと、コーヒーメーカーをセットしようとするが、どこをどうしていいのかわからない。コーヒーの粉の量だってわからなかった。とりあえず食パンをトースターに放りこんで、タイマーをまわす。冷蔵庫からは卵を出して、適当な鍋に水とその卵を入れて、火にかけた。これは多分、これで大丈夫。
 コーヒーメーカーを前に唸っていると、朗がシャワーから帰ってきた。がしがしと頭を拭いている。上半身は何も着ていなくて、思わず目を逸らしてしまう。思ったとおり、綺麗に筋肉のついた身体だった。
「どうしたんですか?」
「いや……コーヒー、どうやって淹れるのかなあって……」
 言うと、一瞬呆気に取られた朗の顔が破顔した。初めて見た、満面の笑顔だった。
「それ、そのガラスのポットの数字の2のところまで、水入れてください」
 それから、その水をここに入れて、粉はこれくらい、と朗は丁寧にコーヒーの淹れ方を教えてくれた。剥き出しの肩がすぐ隣にある。シャンプーかボディーソープの匂いが漂った。まるで情事の後の朝のようで、俺はうろたえていた。朗が動くたびに、綺麗な腕の筋肉が目に入る。
「あっ」
 急に朗が声を上げて、俺はびくりと身体を揺らした。
「あー……」
 朗がトースターを覗いて、苦笑している。何やら焦げ臭い匂いが辺りに漂っていた。
「うわ……」
 黒焦げの物体に、俺は思わず呟いた。それから気まずさに、そっと朗を伺い見た。朗は必死に笑いを堪えた顔をしていた。
「普段、食事はどうしてるんですか?」
「えー、コンビニとかファミレスとか出前とか、弁当屋とか……パンは菓子パンで、コーヒーはインスタントだし」
 俺の答えに納得したのか、朗は笑いながら頷いている。
「ごめんな」
 謝ると、首を横に振られた。それからパンをもう一度トースターに入れて、タイマーをまわした。全部回しちゃ駄目なのか、と俺はそれを見て学んだ。
「湯野さんは? 食べますか? もう少し寝ますか?」
「あ、食べる」
 布団をたたんで、小さな折り畳みの食卓を出す。それにコーヒーとパンと、ジャムとバター、卵の簡単な朝食だったけれど、どこか俺は笑いたくなるほど幸せな気分だった。擦りガラスから、淡い朝日が差し込んでくる。正しく幸福な、朝の風景。
 自分の分など考えていなかった俺は、ゆで卵も一つしか作らなかった。白身が飛び出てしまったが、なんとかそれだけは成功したゆで卵は、結局二人で半分にして食べた。俺はいらないといったのに、朗が勝手に半分にして俺の皿にのせたのだ。
 朗は、ここから歩いて二十分ほどの大学に行くのだと言った。大学生だったのか、と俺は驚いた。何をやっているのかと訊くと、「経済です」と言う。それ以上のことを訊いても俺にはわからないから、俺はそれに頷いただけだった。
 経済です。少しだけはにかんだような、声だった。でも、俺の普段の語彙には経済なんて言葉はない。
 経済です、経済です。何度も頭の中で繰り返すと、どこか異国の言葉のように響いた。
 朗は昼過ぎには帰ってくると言った。寝直してもいいし、出るなら鍵は表のポストに入れていってくれればいい、と言われた。キーケースから、多分、ポストの鍵がぱちんっと取り外される。
 俺はなんとなく、ここを離れがたくて、部屋の中でぼーっとしていた。擦りガラスを開けると、街路樹の緑が見えた。煙草を吹かす。長く長く、煙を青い空に向かって吐き出した。時おり、電車の音がした。それに倣って、がたんごとん、と呟いてみる。
 がたんごとん。がたんごとん。
 こうして呟いていると、何故だか前に進んでいる気がしてくるから不思議だ。


 朗は本当に、昼過ぎに帰ってきた。手にはパン屋のサンドイッチを持っていた。食べてないと思って、と言って、紅茶を淹れてくれた。紅茶の葉まであるのかと、驚いた。だがそれには、貰い物です、と言う。二人で、サンドイッチを食べた。フランスパンに、たっぷりのレタスとトマトと卵、そしてたっぷりのチキンが挟んであった。美味しいと言うと、良かったと微笑んだ。マスタードがきいていて、鼻がツンとする。
 大学前にあるサンドイッチ屋は、学生に人気なのだと話してくれた。
 それから、朗は少し昼寝をした。俺は健やかに寝るその寝顔を飽きずに眺めた。思ったより長い睫。薄い唇。形のいい耳。すっとした鼻。穏やかな寝息。飽きることはなかった。
 その夜も仕事なのかと思ったら、休みだと言う。もし仕事がないなら夜桜を見に行きませんか、と誘われた。まったくいやらしい響のない口調だった。俺はすぐに頷いた。仕事はあったが、それより朗と一緒に夜桜を見に行く方が、ずっと大切なものであることは、俺にもわかっていた。
 俺は着替えもなくて、朗の服を借りた。ただし大きすぎて、おかしな格好になった。短めだと言うハーフパンツは膝下で、カットソーは襟ぐりが大きくあいた。小学生みたいだと笑うと、朗は肩を竦めた。
 歩きますよ、と言われて、それもいいと俺は頷いた。でも、多分一時間くらい歩いた気がする。体力のない俺は、途中から文句ばかり言っていた。足が痛い。疲れた。喉が渇いた。休みたい。
「帰りますか?」
 朗は、首を傾げて、そう言う。呆れた風でもなく、優しくでもない。バーのカウンターで、何を飲みますか? と言うときと同じだった。俺は黙ってしまう。
 頷いたら、きっと「じゃあどうぞ」と言われるのだ。一人、置いていかれるのだ。朗には訊かなかったが、きっとこの勘はあっている、と俺には確信があった。
 なんだって、こんなに心細いのだろう。


 着いた公園には、屋台が並んでいた。良い匂いがして、俺ははしゃいだ。こんなところに来るのは久しぶりだった。ここのところ夜はずっと、ネオンばかりを見ていた。
 たこ焼きと焼きそばとビールを買って、二人で半分ずつ食べた。杏飴が食べたいと言った俺を、朗は笑った。それでも、笑いながら、一つ買ってくれた。
 その飴を舐めながら、公園をぐるりと回った。あちこちで宴会をしていた。酔っ払いが明るく騒ぐ。朗に杏を差し出すと、笑いながらも一口齧った。上手い? と訊くと、頷いてくれた。
 公園の中には、小高い丘になっているところがあった。それをゆっくりと登って行くと、人気が途絶えた。細い道しかなくて、坐ったりできない場所だった。
「桜のトンネルだ」
 両脇に植えられた桜の枝が重なり合っている。見上げると、月明かりに白い桜が満開になっていた。
 ふいに風が吹いて、花びらを散らした。
「すげえ……」
 俺は見上げたまま、くるくると回った。落ちてくる花びらを受け止めようと、両手を広げる。まるで雪のように、はらはらと花びらが降ってくる。すごいな、と同意を求めて朗を探したら、奴はコートに手を突っ込んで、目を細めて空を見上げていた。口元が、少しだけ緩んでいる。
 俺は少しの間、その立ち姿に見惚れていた。
「すげー、幸せそう。朗って案外ロマンチストだよな」
 なんとなく、朗にそんな顔をさせる桜に、嫉妬したような声が出た。そう思って、俺は驚いた。嫉妬。一体、誰が、誰に。
「湯野さんだって、子供みたいだ」
 朗が少しだけ不服そうな声を出した。でも、顔は笑っている。来て良かったでしょう? そう言っている気がした。
「だって、凄いんだもーん」
 子供のように叫ぶ。「だって」とか「もーん」とか、本当のガキになった気分で。朗がそれに笑った。俺も笑った。笑いながら、くるくる回った。はらはらと、花びらが落ちてくる。馬鹿みたいに口を開けていたら、花びらがその中に飛び込んできた。
「わー、花びら食べちゃっ……た」
 あれ? と思ったときには、どさりと倒れていた。目が回ったのだ。真っ直ぐに立てずに、斜面にどさりと。呆気に取られていると、朗の笑顔が真上に見えた。俺も、へらへらと笑う。
「立てねー」
「いくつですか。みたいじゃなくて、子供じゃないですか」
 くすくすと、心地よい笑い声がしている。手が伸びてくる。それを掴んで立ち上がると、ふらりと揺れる。
「酔っ払いみたいだ」
「ビール一本しか飲んでねーのに」
 くすくすと笑い合う。
 幸せだった。なんだか、幸せな気分で一杯だった。世界には何の問題もなくて、ただ美しいだけで、誰もが幸せであるような、そんな場所にいるような気がした。
 この花びらが、誰にも平等に、優しく降っているような、そんな錯覚。
 一際大きな風が吹いた。俺は思わず、目を閉じた。ざわりと、木々が揺れる音がする。
 風は一瞬だった。
 ゆっくりと目を開けると、なんとなく、朗と目が合った。
 綺麗で、真摯な瞳だと思った。泣きたくなるほど、澄んでいた。少しだけ茶色い瞳が埋まった、すっとした切れ長の目。
 掴まれている腕から、ほんのりと、朗の体温が流れ込んできていた。


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