微かな旋律 03 |
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何日も一緒にいると、多少の意志疎通は出来るようになってくる。言葉を発しないと言うより、口を動かすことさえしない要の要求を汲み取るのは、それでも困難だった。 ただ、要も12才という年齢だから、自分のことは自分でしていた。トイレは場所を覚えたから放っておいても勝手に行くし、着替えも決まったところに置いておけば自分でする。日中、和音はバイオリンの練習をしているが、要はその隣で大人しく本を読んだり、ぬいぐるみを触ったりしていた。まだ点字のほとんどを知らない要は、その勉強をしたりもする。 和音は時々、要の存在を忘れそうになるくらいだった。確かに練習中は集中をしているが、他人がいることに全く気がいかないということは、珍しかった。 それだけ、要は自分の存在を希薄にしていた。 それが物語るものが、重い。 ふいにドアが叩かれたのは、そうして二人でのんびりと昼間を過ごしている時だった。今まで来客などなかったし、伊織はあまり人にここの住所を教えていないようだから、和音は最初この部屋のこととは思わなかった。事務所は2階にあり、この部屋はその真上に当たる。部屋は他にないから、よくよく考えるとこのビルの2、3階は伊織が占拠しているのだ。 女の声が聞こえてきて、和音はようやくそのことを思い出した。 「伊織ー?いないの?」 ほんの少し、ドキリとする。伊織の誠実さを疑うわけではないが、和音と会う以前にどんな彼女がいてもおかしくない。過去は過去と、割り切れない自分を発見して、和音は少し驚いた。 鍵を開けて、ドアチェーンはそのままに、ドアを薄く開ける。要のことがあるから、むやみにドアを開けるなと言われていた。 「あの…相良は只今出ておりますが、どちらさまでしょうか?」 どう言って良いかも分からず、和音はとりあえず型どおりの質問をして見る。 「あら…真藤さん?」 「え?」 「バイオリニストの真藤和音さんじゃありません?」 長い髪を束ねた可愛いというより綺麗と形容できる女がそう言った。派手な化粧をしているわけではないのに、華やかさがある。 「…はい」 見覚えがない人から突然自分の名を呼ばれて、和音は声を堅くした。 「やっぱり。私ファンなんです」 にっこりとそう微笑まれても、和音はどう答えて良いのかわからなかった。道端で声をかけられるのとは違う。 「私、警視庁の野上瞳香と申します」 和音の困惑した顔をみて、女はそう言って警察手帳を開いて見せた。和音は、瞳香をじっと見つめながら思案する。帰ってもらったほうがいいのか、どうか。 「こちらに九条要くんを預かってもらってるんですが、様子を見にきたんです。伊織一人じゃ心配と思って…」 瞳は優しく、強い光を放っていた。敵意とか、そう言うものより、優しさが勝っている。和音は覚悟を決めて、ドアチェーンを外した。 「以前に真藤さんのコンサートにお邪魔させていただいたんですよ。伊織がチケットを持ってるからって。貰ったって言ってましたけど、まさかご本人とは…」 瞳香は部屋に上がると、慣れた足取りでリビングへと向かった。和音がコーヒーでもと言うと、自分でいれるからと今度は台所へと向かう。 「あぁ、それは私ではありません」 瞳香が言っているのは、湊の仕事を受けたときのことだろう。湊に伊織にもと、最終日のチケットを二枚渡したのだ。 「良い演奏会でしたわ…本当に、伊織に感謝しましたもの」 コーヒーを三つ持って、瞳香はテーブルにそのお盆を置いた。それから要の頭をそっと撫でた。 「ずいぶん柔らかい顔になったわね。よかった」 要は虚ろな瞳を瞳香に向けていた。伊織でも和音でもない手の感触に、考え込んでいるようだった。 「そんなに、酷かったんですか」 コーヒーのお礼を言って、和音はゆっくりとカップに口をつけた。その問いに、瞳香は悲しげに顔を歪ませて笑った。 「虚ろな眼も、笑わない口もいっしょだけど、最初はそうね……もっと張り詰めていたかしら」 要にそっとカップを渡す。それだけカフェ・オ・レになっていて、要に何であるか確認させている。 「伊織に、似てると思った」 「え?」 最後に呟かれた言葉に、和音は思わず顔を上げて、瞳香を注視した。 「初めて会った頃の伊織もね、上手く隠してはいたけど、人を寄せ付けないところがあったから」 それは、和音にもわかる。上手く周囲に溶け込んでいるようで、たった一人でいる。それが、伊織だった。 人は、誰もが一人なのかもしれない。でも、だからこそ、他人を欲したりする。それなのに、伊織は誰の手も取らないのだと、静かに、強烈に、その意思を滲ませていた。 「手を、差し伸べたくなるのに……それを、躊躇させる。どれだけ近づこうとしても、私は伊織に近づいているのに、伊織は決して私には近づかない。そんな感じだった」 そう笑う瞳香は、淋しげだった。その淋しさが実感されて、和音もかすかに笑った。きっと、同じ笑みをしているだろうと思いながら。 「それがちょっと、ほんのちょっとだけ、柔らかさとか人間味が出てきた気がするんです。だれか見つけたとは思ってましたけど……」 「え……?」 「まさか真藤さんとは思いませんでした」 瞳香は、今度は艶やかに笑った。和音はどう答えていいか分からず、俯いた。こんな時だけ、彼女の言っている意味が、わかる。 気まずい、と和音が思った沈黙の空間に、かちゃりと鍵の音が響いた。和音は助かったとばかりに、玄関へと向かった。 「誰か来てる?」 和音がドアチェーンを外すと、伊織が中を覗き込むようにしてそう聞いてきた。 「うん。警視庁の野上さん」 「あぁ…瞳香か」 呟かれた言葉に、和音がどきりとする。 「来るなら連絡しとけよ。和音、困っただろ」 最初の言葉を瞳香に、後の言葉は和音に投げかけて、伊織はソファーにどさりと座った。目の前の要に、軽く手を伸ばして触れる。 和音は曖昧に笑って、その伊織の横に座った。 「でも、この人なら大丈夫かと思ったから…」 呟くと、瞳香がにっこりと笑った。 「伊織にはもったいないくらいの好人物ね」 「そうだよ」 微笑みながらそう伊織が言って、ゆったりと腕を背のほうに回されて、和音は思わず背筋を伸ばした。どう対応して良いか、わからなくなる。 「で、何?」 「うん、ちょっと要君の様子を見に来ただけなんだけど……安心した」 心底ほっとしたように瞳香が息を吐いて、それでも悲痛な笑みを浮かべた。 「あぁ……だいぶましになったかな」 「そうね、とにかく早く、なんとかしたいわ」 見ると、二人ともかなり疲労の色を濃くしていた。要に関する何かを、必死にしているのだろう。 そう思って、和音は奇妙な疎外感に襲われた。それは、すぐにはっきりとした形を持ち始め、和音の居心地を悪くする。 和音は、要に同情しか出来ない。それ以上の何も、出来はしないのだ。あの夥しい傷や火傷の跡に押さえ様のない怒りを感じたとしても、何もできない。その怒りをぶつける術もなければ、その相手さえも見つけられない。 二人は、今目の前にいる二人は、それ以上のことをしようとしている。 仕事だと、わかる。 でも、それはどうしようもなく、和音の心を重くした。 |
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