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遠景涙恋 番外――水鏡


03

 カハラム王室と王妃の役割について、リーフィウは歴史書から学んだ。人質であると同時に、忠誠の証でもある彼女たちと、今のリーフィウは、ある意味立場が近い。
 リーフィウは本を閉じ、溜息をついた。
 この本は、何度も読んだ。国で編纂した歴史書とは違い、個人が書いた歴史解釈書のようなもので、非常に興味深いものだった。こうして歴史書を読むまで、自分はカハラムがどのように国を形造っているのか、そんなことも知らなかったのだ。今更ながら、キーファが結婚しないと言ったことの重要さと、その覚悟の大きさを知った。
 ――リーフィウ様。私は、王妃となるために生まれてきました。そして、王妃となるために生きてきました。ただ、そのためだけに。
 昨日、別れ際にサミアが言った言葉を思い出す。サミアの真っ直ぐな瞳は痛いほど切実で、堅い決意を示していた。あのとき、圧倒されなかったと言ったら嘘になる。
 リーフィウは、予期せぬかたちで今の立場になった。キーファとの関係が大きな後押しになったことは事実だ。だがそれ以上に、リーフィウがルク王子だったからこそ受け入れられたことでもある。自分が人質になることで、ルクとシャリーアを守れる。それがなければ、リーフィウは今の立場に収まる気にはならなかっただろう。
 サミアたち各部族の姫君たちも、リーフィウが何よりもまずルク王子であるのと同じように、部族の姫であるのだろう。そして部族のために、王妃として生きて行くことを受け入れた――。そう考えるとリーフィウは、半ば命令だったとしても、サミアとの約束を違えてキーファのもとへ行くことはできず、昨晩は久しぶりに自分の寝床で夜を過ごしたのだった。もちろん、二人のことが気になってなかなか寝付けなかった。それに、もしかたらキーファから呼び出されるかも知れない、と身勝手なことも思った。だが結局、今朝は一人で朝を迎えた。
 そして、キーファから昨晩寝所に行かなかったことを一切問い質されないどころか、会うこともないまま、一日が過ぎて行こうとしていた。リーフィウは手に入れたばかりの本を開いては見るものの、いつもならば食事も忘れるほど没頭するのに、この日は一向に頁を捲る手が動かなかった。
 ――読み直さないと駄目だな。
 リーフィウがそう小さく溜息を吐いたところに、コンコン、と音がした。イーザが「はい」と答えると、「王からのご伝言です」と侍女の声がした。


 キーファの部屋に行くのは、一日振りだった。たったそれだけなのに、リーフィウは部屋に入ると、どこか落ち着かない気分になった。
 呼ばれて来たのだが、キーファはまだ帰ってきていない。窓から外を見てみたり、飾られた花の匂いを嗅いだりと、リーフィウはそわそわしていた。
 ふと、四角くほの暗い寝室の扉の奥に浮かぶ、クィナスの花に目がいった。傍に行ってみると、花は大きいが枝は細く、もしかしたらあの王宮の片隅に咲いていたものではないか、と思った。あそこで花を見たとき、リーフィウはその健気さと共に、キーファという人間の優しさをしみじみと感じた。こうして片隅に咲く花を愛でる王が率いるこの国は、幸せだとも思った。
 そんなことを思い出しながらクィナスの花を眺めていると、目の角にきらりと光るものが見えた。寝台の敷布団と枕の間に手を伸ばしてその光を拾い上げると、紅玉の耳飾りだった。大きな紅玉と、いくつもの小さな石がついている。金具や鎖はまばゆいばかりの金色に光っていた。
「リーフィウ様? お茶をお召し上がりになりませんか」
 キーファ付きの侍女、セフィリアから声を掛けられて、リーフィウは振り返った。
「これを。落ちていました」
 拾った耳飾りをそっと手渡すと、その侍女は「あっ」と小さく声を上げた。
「これは……」
「どうしたの?」
 その声を聞きとがめて、お茶の用意をしていたイーザが二人の方にやってきた。それから、セフィリアの手の中のものを見て、眉根を寄せた。
「これは、どういうこと?」
 イーザはリーフィウ付きになる前は、キーファ付きの侍女の長をしていた。自然、ここにいる侍女たちは、イーザに畏怖の念のようなものを抱いている。セフィリアも例外ではない。先輩侍女の声に、身体を小さくした。
「どういうことかと訊いているの。どこにあったの? 誰のものなの?」
 イーザも、彼女たちには容赦しない。だが一方で、彼女たちの悩みを聞いたり、ときには彼女たちを守るためにキーファに意見をしたりしていたので、侍女たちの信頼は厚かった。
「落ちていたのは、枕の傍だよ」
 震えるセフィリアに代わって答えたのは、リーフィウだった。イーザを宥めるように微笑んでいたが、あまり効果は無かったようだ。
「誰のものなの? どうして枕の傍に落ちていたの!」
「あの、それが……」
 セフィリアは言いにくそうに口篭もった。リーフィウはその手の中を見ながら、口を開いた。
「紅玉は、南のサラフ族の長となる一族が好んで持つもの。その台座や鎖の見事な装飾も、金の加工に優れた技術を持つサラフ族特有のものではないですか?」
 リーフィウの淡々とした声に、セフィリアはイーザを気にしながらも頷いた。
「では、サミア姫がここに来られたと言うの? あまつさえ、この寝台に……」
 イーザは本気で怒っていた。手をぐっと握り締め、唇を震わせた。
「何を騒いでいる」
 そこに現われたのは、キーファだった。久しぶりに見るその姿にリーフィウは思わず駆け寄りそうになり、ぐっと手を握ってその衝動を堪えた。
「あの、いえ……」
 セフィリアの困ったような声に、キーファは自分の侍女の手を見た。何かを大事そうに両手で持っていたのだ。
「それは……」
「枕のところに落ちていたようでございます」
 イーザの声は冷たかった。だが、主に対してそれ以上何か言うつもりはないようだった。
 キーファはぎりっと唇を噛み、険しい表情になった。
「セフィリア、それを――いや、おまえじゃない方がいいな。サミア姫に今付いている侍女にその耳飾りを渡して、廊下に落ちていたとでも言っておけ」
 いいか、この部屋にあったとは言うな。早く行け――。キーファはそう言うと、険しい顔のまま近くにどさりと坐った。ひどく苛ついているようだ、と隣に立っていたリーフィウは思った。疲れてもいる。
「お待ちください!」
 重たい空気の中に、兵の叫び声が響いた。声がした方を見ると、ちょうどキーファに耳飾りを渡された侍女が扉を開けたところで、そこにはサミア姫が立っていた。
「失礼いたします、キーファ様」
 サミアはキーファの許しを待たず、部屋の中に入ってきた。その後ろには、侍女も連れている。その侍女はキーファに平伏したが、姫君のほうは軽く頭を下げただけだ。リーフィウはちらりと王を見て、侍女と同じように平伏した。
「昨晩はありがとうございました。楽しい夜でしたわ」
 キーファは目を眇めて、微笑むサミアを見た。
「それで私、大切な耳飾りを落としてしまったようですの。――こちらの、寝室に」
 サミアの声には含みがあった。どうやら、わざと落としていったらしい。キーファはそのことを良くわかっていて、侍女に「廊下で見つけたと言え」と厳命していたのだ。
「紅玉の耳飾りならば、先刻侍女が廊下に落ちていたと言っていたが……あれは姫のものだったか」
「廊下?」
「あれならば、後で侍女に部屋まで届けさせる」
 キーファはそれで話は終わったとでも言うように、お茶を飲んだ。サミアは目論見が崩れ、唇を噛んでいる。
「用件が済んだならば、お引き取りいただけないか」
 リーフィウもびくりと背を震わせるほど、冷たい声だった。だがサミアは怯まず、口を開いた。
「昨晩だけでは、十分なお話は出来ませんでしたもの。私もお茶に招いていただけませんか」
「サミア姫。私は今ご覧の通り、客人を迎えている。お引取り願う」
 サミアはぎゅっと手を握った。
「そちらにいらっしゃるのはルク王子と思われますが」
「そうだが」
「私よりも、人質の方を優先すると?」
 部屋の空気が、久しぶりに凍ったようになった。侍女たちも緊張の面持ちで王を見ている。キーファが顔を上げたところで、リーフィウは口を開いた。
「キーファ王、私はこれで失礼いたします」
 キーファとサラフ族の関係を拗らせるのは得策ではない。リーフィウは一端、自分が引く方が良いと考えた。
 キーファは驚いた表情で、そのリーフィウを見た。殊更に穏やかに微笑んでみせると、王は怒ったような顔をした。
「サミア姫」
 キーファはリーフィウを睨んだまま、サミアの名を呼んだ。
「昨晩も言ったが、あなたと話をするつもりはない。族長とは十分に話をしている。お引取り願う」
 有無を言わせぬ口調だった。さすがのサミアも諦めたのか、一礼すると、部屋を出て行った。
「キーファ様……」
 キーファはリーフィウに、平伏をやめるようにと手で促した。唇を湿らせるようにお茶を飲む。それからゆっくりと口を開いたが、ずいぶんと投げやりの口調だった。
「彼女はサラフ族の族長の娘。――昨晩は、ここに泊まった」
 「そうですか」と答えたリーフィウの声は、僅かに震えた。頭の中では、カハラムのためにも二人の関係が重要だとわかっている。でも、心は簡単に整理できるものではなかった。
 その複雑な気持ちの所為でキーファを見ることができないでいたリーフィウは、強い視線を感じて、いっそう目を伏せた。何かを咎めるような、問い掛けるような視線だった。それが余計に、リーフィウを追い詰める。自分はどうするべきなのか、わからなくなる。
「リーフィウ」
 キーファの声は、静かだった。抑制の効いた口調は王として君臨するキーファそのもので、気持ちをも覆い隠してしまうため、リーフィウは心細くなる。
「昨日はなぜ部屋に来なかった」
 正直に言うことはできない。だが、嘘もつきたくなかった。リーフィウは俯き、答えられず、沈黙が重く流れた。
 リーフィウが望むことはただ一つ。キーファを支えたい、それだけだった。だが何の力も持たない自分に出来ることは、傍にいることだけ。それも、キーファが傍にいて欲しい、そうすれば安らげる、と言ってくれるからで、ときどき、本当にそれだけでいいのか、自分がそう言わせているのではないのか、と悩むときもある。
 そんなときに、サミアに「噂」のことを聞き、やはり自分という存在が王であるキーファの地位を脅かしていると知った。後継者問題は甥のシンハークが後を継ぐことで一応の解決をみているものの、大臣たちの中には根強く王の結婚を望むものもいるし、各部族も納得しているとは思えない。
 二人の幸せを望めば望むほど、キーファの王としての苦悩は増えるばかりなのだ。それは決して、リーフィウが望むことではない。
 キーファは溜息と共に「昨晩、サミア姫が来ると知っていたのだな」と呟いた。それは問いかけではなく、確認だった。
「サミア姫が言っていた通りなのだな」
「え?」
「この部屋に来るのを遠慮して欲しいと頼んだら、快く了承してくれた、と言っていた」
 頼まれたというより命令されたようなものだったし、快く了承した覚えもなかったが、断らなかったのは事実だ。リーフィウに反論をする気はなかった。
「リーフィウ」
 はい、と返事をして顔をあげると、キーファはどこか遠くを見ていた。
「ここを出て、街に住みたいと思うか」
 突然、どうしたのだろう。リーフィウは王の横顔を見つめたが、真意はわからなかった。キーファが出て行って欲しいと思っているのか、誰かにそう意見されたのか。何にせよ、自分の答えは決まっていた。
「キーファ様のお望みとあらば」
 キーファはゆっくりと、リーフィウを見た。責めているような、悲しみを湛えているような、諦めたような、複雑な色の瞳をしていた。
「私が、それを望むと思うのか」
 二人はしばらく見詰め合った。
 リーフィウには、どう答えるべきなのかわからなかった。どう答えたらキーファが悩まずに済むのか――わからなかった。
「もういい」
 キーファの口から、大きな溜息が吐き出された。続いて出てきた言葉に、リーフィウは凍りついた。
「もういい。さがれ」
 キーファはリーフィウに対して、無用な反感を買う怖れがある場合を除いて、いつも対等な言葉遣いをしていた。特にこうした私的な場では、決して配下のものに対するような言葉は使わなかった。それなのに――。
 リーフィウは頭を下げると、もう二度とここへは戻って来られないような恐ろしい予感を抱きながら、部屋を後にした。


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