home モドル 01 * 03

遠景涙恋
夕月

02
 コクスタッドの使者と共にソアたちが出航すると、王宮内は少し静かになった。ただし、外務大臣と第二部隊隊長がいなくなっては、キーファは休まる間がない。内政再編は始まったばかりで、隅々まで目を光らせていなければならなかった。
 そのためにリーフィウとのゆっくりとした時間を取れないことは、キーファを苛つかせていた。最近は、窓から東の方――つまり、ルクの方向――を眺めてばかりいることも、イーザから聞き知っていた。
 リーフィウは、何も言わない。今回のことについて、キーファにもイーザにも、一切何も言わなかった。だがそれが、余計に胸を衝くのだと、イーザはため息を隠さなかった。
 いつものように中庭には行かずに、リーフィウは部屋から外を眺めていた。ここ最近、カハラムは雨が多い。窓際に坐って本を読みつつ、ときどき外を眺めるのは、中庭に行かないときの習慣のようになっていた。カハラムに再び来てから与えられた部屋は街に向かって大きな窓が開いていて、眼下を眺めていると飽きなかった。人々の顔までは見えないが、シアナ河も活気溢れる街道も見える。街が賑わっているのは、見ているだけでも幸せになる。ときどき道端で喧嘩も起こり、そうなるとすぐに人垣が出来る。面白いのは、すぐに止めに入る人間はいなくて、どちらかというと煽っているような感じがみえるところだった。それは女同士でも同じで、周りが盛り上がっている様子が見えると、リーフィウもついつい見に行きたくなってしまう。
 その日は雨のために街も静かで、足早に道を急ぐ人たちが見えるばかりだった。河に浮かぶ船は、商売に合わせた色の雨よけをしているために、いつもより彩り鮮やかだ。
 どれほどぼんやりと外を見ていたのか、リーフィウは扉が叩かれていることに気付くのが遅れた。リーフィウの部屋は応接室と寝室続きの二部屋で、街が良く見える窓があるのは寝室だった。
「どうぞ」
 答えると、静かに扉が開いて、イーザの姿が現れた。後ろにもう一人、侍女が続く。
「雨ばかりで、少し鬱陶しいですわね」
 イーザが窓から外を覗いた。だが、光の季節の雨は農作物にとって貴重なものだ。
「でも、晴れてきそうだけれど」
 ほら、とリーフィウが遠い空を指す。確かに、灰色の空の合間に、青空が見え始めていた。流れる雲も、とても速い。
「まあ、本当。だからかしら」
「イーザ?」
「王が、お出かけのお誘いをしてきまして……」
「キーファ王が?でも、お忙しいでしょう?」
 驚いて立ち上がったリーフィウに、イーザが笑いかける。それからすっと手を動かして、鏡の前にリーフィウを促した。
「ええ、お忙しいでしょうね。ですから、偶にはゆっくりもしたいのでしょう」
 リーフィウが鏡の前に立つと、イーザと侍女は手早く出かける用意をした。光の季節になったということで、着る物も軽くなっている。だが、王宮の外に出るときは、リーフィウは常に帽子をかぶって顔を隠す。
 カハラムの衣服にも慣れてきたリーフィウは、侍女たちが何も言わなくとも、着せやすいようにと腕を動かしたりする。最初は違和感があったリーフィウも、すっかりカハラムの人間のように服を着こなす。支度が終わったリーフィウを見て、イーザは感慨深い思いを抱いた。
 イーザには、こうしてカハラムに馴染んでいくことが、リーフィウにとって幸せなことなのかわからない。だが少なくとも、キーファとリーフィウが二人でいることは、幸せなのだと知っている。二人が一緒にいるとき、イーザや他の侍女たちは幸福を分けてもらっている気分になる。
 リーフィウが宮殿の裏門に行くと、馬は既に用意され、キーファとハリーファが待っていた。リーフィウがひらりと馬に乗ったのを確認すると、キーファが馬の腹を蹴った。それに遅れないように、リーフィウも馬を進める。
 キーファは裏道と言えそうな、人通りがあまりない道を良く知っている。ハリーファなど、ときどき呆れるくらいだった。なるほど王は、こうして逃げ出していたのか、と。
「どこまで行くのですか」
 リーフィウは流れる空気に負けないように、少し声を張り上げて訊いた。やはりあまり時間がないのかもしれない。キーファはいつもよりずっと速く馬を走らせていた。
「河だ」
 キーファはそれだけ答えて、ちらりとリーファを見た。微かに口元が緩んでいる。
 ほんの半刻も走らないうちに着いた先は王族や貴族の舟着場で、三人はその近くの木に馬を止めた。その頃には雨も上がって、しっとりと濡れた空気が漂っていた。
 城壁は越えたが、この森の中にある舟着場はまだ宮殿の敷地内だ。それでも、貴族たちが舟を使うときには必ずいるはずの舟番も船頭も、いなかった。知らせを出さずにキーファは来たのだ。
 それを知っていたのか、ハリーファが舟を出す準備をした。どうやら船頭もするらしい。リーフィウが、ハリーファは何でも出来るのだと感心した声を上げた。
「舟漕ぎは技術の優劣を抜きにすれば、それほど難しいことではありませんよ。キーファ王もなさいますし。わたくしより、余程お上手かと」
 言われて、キーファは苦笑する。そうやって、舟で逃げ出していたことを暗に責められているのだ。
 ハリーファは二人が乗ったことを確認すると、舟をゆっくりと漕ぎ出した。あまり大きな舟ではない。四五人も乗れればいいほどで、街の中の河で商売をする舟より小さいかもしれなかった。
 たぽり、たぽり、と舟底を叩く水音がする。雨の所為で水は濁り、水かさが増していた。
 木々に囲まれた河の上を、ゆっくりと舟が滑る。周りはとても静かで、リーフィウはひどく心が落ち着いていくのがわかった。時おり、水面に手を浸す。水は、とても冷たかった。
「ずいぶんと冷たい」
「まだ光の季節になったばかりだからな。シアナ河の上流部には氷や雪が残っているところもある。ここ数日あまり天気も良くなかったから、水も温まらなかったのだろう。魚たちも可哀想に」
 真似して、キーファも水面に指を滑らせた。
「あちらは、街へ……?」
 河は二股に分かれていた。リーフィウが指差した方向を、キーファは振り返った。二人は向かい合って坐っていて、リーフィウは進行方向を向いているが、キーファは逆向きだ。
「ああ。そして、こっちは海にでる。今度、街の舟も乗ってみよう。あそこは賑やかで面白い」
 窓の上から、または馬上から見ただけだが、想像はできた。リーフィウはそれは楽しみだと、笑った。それから、ふいと前を向いて「海へ行くのですか?」と聞いた。
「河口まで、というより、海が見えるところまで、か」
 精悍なキーファの顔を、風が撫でる。どれほど忙しかったのか、また無精髭が生えていた。それほどなのに、キーファは自分と過ごす時間を取ってくれたのだ。リーフィウは、水面に視線を落とした。
 今日が何の日なのか、キーファはわかっているに違いない。
 舟は静かに、だが流れの力を借りて、かなりの速度で進んでいた。大きな障害物はない。それから半刻ほどで、眼前に海が見えた。ハリーファは岸近くに舟を寄せ、長い竿で流されないよう固定した。
「ここから見える方角は大分違うが……」
 キーファがそう言いながら、持ってきていた籠を差し出した。リーフィウが蓋代わりの布を取り払うと、レアの花冠と、カハラムでは祝い酒といわれている濁り酒が入っていた。
「キーファ様……」
「参列が出来ない上に、祝いさえしなかったといったら、あの女王に怒られてしまうだろう?」
 キーファは言いながら、透明な杯を二つ取り出すと、そこに濁り酒を注ぎいれた。
「二人の未来に幸あれと」
「幸あれと」
 杯を掲げ、一息に飲む。濁り酒ではあるが、果実の味の強いこの酒は飲みやすい。リーフィウもこくこくと飲み干すと、ほうっと息をついた。それから、レアの花冠を持ち上げて、そっと水面に置く。花冠はくるりと一回転してから、海のほうへと流れていった。リーフィウは口の中で小さく、シャリーアの幸せを願った。
「あの、花冠は、どなたが?」
「イーザだ。随分楽しそうに作っていたようだぞ」
 キーファが笑う。手には、二杯目の酒を持っている。だが、キーファはそれを飲まずに、ゆっくりと杯を傾けて、中身を河に流した。じっと川面を見つめるその目は何も語らなかったが、それがラシッドへのはなむけだと言うことは、リーフィウにも、ハリーファにもわかった。
 三人で、遠い空を見つめる。今ごろ、ルクでは盛大な婚儀が行われていることだろう。国民にとっても、復興の兆しとして、これほど嬉しいことはないに違いない。華やかなことを好む民たちが、ここぞとばかりに着飾って踊っている様子が、リーフィウの目に浮かぶようだった。そしてそこで、幸せそうに微笑んでいるシャリーアも。
 大丈夫だ、と思った。
 シャリーアは、きっと幸せになる。きっと――。


home モドル 01 * 03