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遠景涙恋
夕月

03
 ソアたちが帰国したのは、婚儀からひと月が過ぎた頃だった。独立を果たしたとはいえ、ルクにはカハラム支配が色濃く残っている。ソアは外務大臣としての役割を、しっかりと果たして来たようだった。詳細な報告は、多少キーファをうんざりさせたが、問題点なども見えて、興味深いものだった。
 その報告の最後に、ソアがリーフィウのことを聞いてきて、キーファは眉根を寄せた。
「変わりないと思うが、なんだ?」
「いえ。何冊か、貴重な文献を女王から預かってまいりまして。研究熱心なようですな」
 ソアの口調には、嫌味は感じられなかった。
「よろしければ、その文献を、私も拝見したいと思っていまして」
「ああ、それなら本人に聞いたらいいだろう」
 キーファはそう言って、リーフィウを呼ぶように侍女に合図をした。ソアも歴史や各国の文化、風習に詳しいことを思い出したのだ。だからこそ、対ルク国の外交も、ソアに任せたのだが。
 呼ばれてやって来たリーフィウは、ソアがいることに驚いた。彼ら古参の大臣が、自分の存在を快く思っていないことは、良くわかっていたからだ。
 リーフィウが挨拶をすると、ソアも同じようにきっちりとした挨拶を返す。それはいつでも、客人に対するものではあったが。
 それから、控えていた秘書官から書物を受け取り、リーフィウに渡した。それを見て、リーフィウは顔を輝かせた。
「ああ、ありがとうございます」
「まだ他にも数冊、運んできましたので、そちらはのちほどお部屋にお届けします。ところで、リーフィウ殿がお読みにならないときでいいのですが、そちらを私も拝見させていただけないでしょうか」
 突然の申し出に驚いたが、リーフィウはもちろんと歓迎した。それから、どうせすぐには全てを読めないのだからと、今ある本の中で読みたいものがあるのなら、と言ってみた。ソアが「失礼します」と言いながら取り上げたのは、ルクの古い文献で、当時、ルクに来た外交使節の記録が記されているものだった。
「ソア様は、リ語がおわかりになるのですか」
 古い文献は、リ語で書かれたものがほとんどだ。ソアは、読むだけでしたら、と言った。
「俺が最初にリ語を教わったのは、ソアからだったからな」
 椅子に坐って、報告書に目を通していたキーファが顔を上げた。リーフィウは驚いたように、二人を見た。
「それが今では、王のほうが余程お分かりになる」
 ソアはそう、僅かに笑った。確かに、キーファはリ語を話すことも得意だ。滅多には話さないが、ときどき囁かれることを思い出して、リーフィウは知らず赤面した。キーファがリ語を使うのは、二人きりのとき――それも、抱き合っているときが多い。
 キーファはそんなリーフィウを見て、思わずと言った笑みを零した。特に意図したわけではないが、宮殿内にいまだ不満感があることを考えると、リ語を使う場面は自然二人きりのときと限られてくる。そして、リ語を使うと、リーフィウが少し嬉しそうな顔をするのも知っているから、ときどきでも使いたいと思うのだ。
 ソアはそんな二人を見て、僅かに目を曇らせた。
 キーファ王のことは、幼い頃から見ている。いつでも噛み付きそうな目をしながら、自分の家族のために決して牙を剥かなかった、幼い王。その王が、ようやくあるべき場所に納まり、穏やかな顔までするようになった。それを、喜んでいないわけではない。
 だが、先々の心配をしたり、国のために厳しくあるのは、自分たち老いたものの役割なのだと思っていた。
「ですが、ルク国民のサムフ語には及びませんな。リーフィウ殿においては、アーリ語も不自由がないと聞いておりますが」
 ソアの言葉に、どれも公用語ですので、とリーフィウは控え目に答えた。ルク王家にとって、誇れることではないのだ。ほぼ単一民族の住む島国でありながら、他国の言語を公用語にしているのだから。
「いずれにせよ、誰もがサムフ語を話せることには驚きました。見事なものだ」
 ソアには他意はないようだった。リーフィウは、ありがとうございます、と頭を下げた。
「特に貴殿とシャリーア王女は、見事なまでの美しいサムフ語を話す。王にはリ語だけではなく、それも見習ってもらいたいものです」
「言語の教師はソアだったじゃないか」
「ええ。ですから、残念に思っているのです」
 キーファは肩を竦めて再び書類に目を落とした。
 リーフィウはその二人の様子を見ながら、ソアにシャリーアのことを聞いてみようかと思った。快く思われていないとわかっていたから、今までソアときちんと話したことはなかった。だが、悪い人ではないと思った。なによりキーファが選んだ重臣なのだ。
「あの、ソア様」
「何でしょう」
「シャリーアは……」
 そこでどう聞いたらいいかとリーフィウは迷った。その気持ちを察したソアが、ああ、と頷く。
「ルク女王にあっては、とてもお元気そうでした。こう言った意見を述べるのは失礼なのを承知で申し上げますが、色々大変なことがあるはずですが、私たち客にはそれを一切見せず、とてもご立派な女王でした。ルクは安泰だと、改めて確認させていただきました。ラシッド様とも、仲睦まじくしていらっしゃいましたし」
 リーフィウはほうっと安堵のため息を吐いた。ルクのことも良く知っているらしいソアがそう言うのなら、大丈夫だろう。彼の声はとても真摯に響いた。
「ルク国は、確実に再建に向けて歩みだしています。同じことがないようにと、外交政策や軍事面の変更などもしっかりとなさっているようです。さらには今回の婚姻で、われわれ外国にも、国内にも、女王の確固たる地位を示したと思います。――これも是非、我が王に見習っていただきたいものです」
 突然自分に話題が振られて、キーファが顔を上げた。リーフィウは、きゅっと唇を噛んだ。
「何が言いたい、ソア」
 キーファの鋭い声も視線も軽く受け止めて、ソアはすっと王を見た。
「そのままの意味ですが。ルク女王はまだかなりお若いが、婚姻なされた。カハラム王におかれては、いつ、婚姻をなさるのかと」
 ソアの言葉に、キーファの目がすっと細められた。今回のことで、重臣達が自分の婚姻について話し始めたのは知っていた。だが今、リーフィウのいる場所で言わなくてもいいじゃないか、と怒りが湧く。
「内政が落ち着かないうちに話すことじゃない」
「そうでしょうか。だからこそ、国民に安堵を与えるためにも、外国にカハラム王家の繁栄を見せるためにも、婚姻、そしてお世継ぎをお作りになることは、王としての重要な事柄ではないかと思われますが」
 世継ぎ――その言葉に、リーフィウは視線を落とした。キーファとリーフィウでは、どうしても叶えることができないことだ。だが、世継ぎを作ることが王にとってどれだけ大切なことか、リーフィウは知っている。父親にも、何度も言われたのだ。王家の義務と言うものが、あるのだと。
「それについては、考えている」
 しばらくの沈黙の後、キーファがそう言って、リーフィウは顔を上げた。キーファと、目が合う。だが、リーフィウは何も言えなかった。
「考えている、とは?」
「話すのなら、皆の前で話す。だが、それももう少し宮殿内が落ち着いたらにしたい」
 ソアはそれ以上引き下がらなかった。王がいい加減なことを言う人間ではないと、わかっていたからだった。ソアは「なるべく早くお話いただけるようお願い申し上げます」と頭を下げ、扉に向かった。その扉から出る前に、ソアはふと思い出したように振り返った。
「リーフィウ様、ルク国がリ語以外の言語を公用語としたことは、恥ずべきこととは思いません。今後、リ語をどう残していくかという問題は確かにあるでしょう。ですが、外交に携わるものとして、わたくしは、その決断はとても有効で英断だと思います」
 ソアはそう言って、もう一度頭を下げると、部屋を出て行った。


 空がどんどん暗くなっていく。リーフィウの部屋は東向きで、夕陽を見ることは叶わない。リーフィウはその代わり、ぽつぽつと灯る街の灯を眺めていた。
 ソアが部屋を出て行った後、キーファは何か言いたそうにしていたが、リーフィウはすぐに退出した。外務大臣に語れないと言ったことを、聞こうとは思わなかった。
 シャリーアの婚儀の話を聞いたとき、リーフィウはそれを喜ぶと同時に、カハラム王のことも考えた。キーファが王である限り、いずれ結婚をし、子を成すことは、当然のことだった。仕方がない。そう思う。だが、理性と感情が相容れないことがあると、リーフィウは知った。ただそのことで、キーファを困らせたりカハラム王家の将来を潰すことだけは、したくなかった。
 どうにもならないことというのは、たくさんあるものだ。
 ため息をついたところで、扉が叩かれた。イーザが、シャリスの訪問を告げる。リーフィウは暗く沈んでいた顔をぱっと明るくさせて、隣の部屋に移った。ルクの様子を報告すると、旅の前にシャリスは約束してくれていた。
 シャリスはシャリーアやラシッドと話したことを、詳細に語ってくれた。シャリーアは相変わらずのお転婆なところは直っていないようで、それで女王が務まるのかとリーフィウは少し不安になりつつも、微笑ましかった。そこはきっと、ラシッドが上手く補ってくれることだろう。
 色々と買ってきたのだと、お土産を渡してくれながら一通りルクの話をしたシャリスは、ふと口を噤んでリーフィウを見た。それからお茶を一口飲むと、そのまま目を伏せて、キーファ王が心配していました、と言った。
「え?」
「ソア殿が、余計なことを言った、と……」
 顔を上げたシャリスは苦笑していた。リーフィウもつられて、僅かに微笑んだ。
 胸が痛んだのは確かだ。だが、避けられないことでもある。
「私は、さすがカハラムの重臣だと思いましたが」
 リーフィウがそう言うと、シャリスは少し驚いたような顔をして、それから「そうですね」と頷いた。リーフィウとは、そういう人間なのだ。彼もまた、王となるべき人物だったのだ。
 そして――。
「ソア殿も、確かに外務大臣であるべき人物……」
 シャリスの口から呟きと長いため息が出た。キーファが立派な王であろうとすれば、ソアのような大臣たちを退けることはできない。
 シャリーアやラシッドの話で笑い声まで上がっていた卓上が、急に重たい空気を纏った。イーザは冷めてしまったお茶を淹れ直した。
 イーザはソアを良く知っている。彼がキーファの語学教師をしていたときのことも知っているし、彼がタシュラルには屈しなかったことも知っている。彼はいつも自分が正しいと思った道を、ただ真っ直ぐに歩くのだ。だがそれは、決して独り善がりな道ではない。はっきりとした物言いもするが、本気で人を傷つけるつもりもなければ、その人間のことを考えていないわけでもない。
 今回も、ソアは態とリーフィウがいるところで王の結婚話を出したのだ。リーフィウはある意味、キーファより余程「王とは、王家とは」というものを叩き込まれている。そのリーフィウが、カハラム王の結婚と世継ぎのことを考えないはずがない。
 キーファの悪いところは、リーフィウのためと考えすぎて、口を閉ざしてしまうことだ。そしてリーフィウは、自分の立場と王の立場を考えて、ただひっそりと生きている。決して、主張しない。
 結婚と世継ぎのことをはっきりさせるのは、何よりも、リーフィウにとって大切なことのはずだ。ソアはきっと、そのことをわかっている。
 だからと言って、それをはっきりとさせることで、誰もが幸せになるとは限らない。
 そう、だからこそ、誰もが皆、ため息をついてしまうのだった。


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