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遠景涙恋
第二章 雪紅花


03
   遠く、澄んだ音が聞こえる気がして、リーフィウは窓辺に近寄った。湖宮はかなりの高台にあり、中でもリーフィウの部屋は三階という最上階の端にあるため、窓からは遠い草原が見えるだけだった。更に奥、晴れた日には、目を凝らすと山々が見えた。
 窓はこの一箇所だけであり、そこからは決して外に出ることも出来なければ、外から入ることも出来ない。窓の下は、絶壁だからである。そして、窓には格子が嵌め込んであった。これは、リーフィウたちがこの部屋に入ることが決まってからつけられたもので、最初の頃は少し錆びくさい、金属の匂いがしていた。
「ああ、雨ですね」
 イーザがお茶を淹れていた手を止めて、顔を上げた。リーフィウは少しだけ斜めに身体を向けて、音がするのです、と言った。
「音ですか?」
「ええ、とても透明な、少し、哀しげな―――」
 ああ、とイーザは少しだけ耳を澄ませた。確かに、遠くどこかで、鳴っている気がする。
「あれは、中庭の池の音です」
 奥座敷となっているここから中庭まで、かなりの距離がある。あの音はそれほど大きくもないから、ここまで届くのかとびっくりしたが、静かな夜にはそれも不可能なことではないのだろう。
「池の?」
「ええ、中庭に、大きな、それは大きな甕で作られた池がありましてね、四つほどでしょうか。池には薄い桃色の花が植えれていて、なかなか綺麗なものですよ。その甕の回りは白い石が敷き詰められているのですが、その下に、水が落ちると反響するように、小さな甕がいくつも埋まっているそうなんです。雨の日には、その音が鳴るのですわ」
 初めて宮に連れてこられたとき、そう言えば静かな中庭を通った、とリーフィウは思い出した。今は何しろこの部屋からでるとしたら王の寝室に行くときのみで、それも最近はキーファがやってくることが多かったから、閉じこもっている状態だった。宮の中のことは、一ヶ月以上経ってもわからない。
 リーフィウはまた、その音に耳を澄ませた。硬質な感じもあるその音は、でもどこか、物悲しい。
 しばらくぼんやりとその音を聞くリーフィウに、イーザは何も言わずにいた。リーフィウは、泣かない。怒ることもなければ、不満を言うこともない。ルクの王子だったというのに、奢った感じは全くなく、だがその気品は失わない。彼が捕虜なのだと言われたことを、イーザはときどき忘れそうになるほどだった。
 ただ静かに、今の運命を受け入れていく。イーザには、そんな風に見えた。
 すっかり冷めてしまっただろう花茶を、もう一度淹れなおそうかとイーザが思っていたところで、廊下が俄かに騒がしくなった。耳を澄ませていたリーフィウも、もう音が聞き取れなくなったのだろう、扉を見ていた。
「どうしたんでしょう」
 もう夜も更けた頃のことに、イーザは少し不安に思った。そっと扉に近づくと、何やらばたばたとした足音が聞こえた。扉を開けて、番の兵たちに聞いてみようかと迷っていたところで、その目の前の扉がばたんっと開いた。
「まあ、キーファ王……」
 イーザはふらふらと扉に寄りかかっている王の姿に、目を丸くした。と言って、その姿に驚いているというより、何も先触れを出さずにここに来た王に驚いているだけのことだった。この一ヶ月、王はリーフィウの寝室に来るときは必ず先触れを寄越した。イーザはそれで自分は隣の部屋に退室する準備をし、リーフィウは心の準備をしていた。
 残念ながら、イーザは王のこんな姿は見慣れていた。宴の侍女を務めたこともあるからだ。
 キーファはふらふらと揺れながらも、寝台に歩いていった。途中、リーフィウの姿を立ち止まって見たかと思うと、その腕をぐいっと掴んで、寝台にどさりとその身体を投げた。酔っているようには思えないほど、力が強い。
「何を……っ」
 イーザは慌てて、扉を閉めた。リーフィウが突然のことに抵抗している。
 だが、キーファは無言のまま、リーフィウの服を毟り取り始めた。リーフィウは酔っているわけでもないから、イーザが居ることをきちんと認識している。あまりのことに、今までにない抵抗をした。それがキーファを苛立たせるのか、思い切りリーフィウを叩いた。
「キーファ王っ」
 イーザが悲鳴のような声を出したが、キーファはイーザには一切目もくれなかった。リーフィウはその目に映る狂気なようなものを感じて、必死でイーザを呼んだ。
「イーザ、お願い、どうか、出て行って……」
 イーザは一瞬躊躇したが、リーフィウの必死な口調と、縋るような目に、こくりと頷いて慌てて自室に戻った。イーザがいるのは隣室で、音など洩れ聞こえてしまうだろう。今まで、キーファがリーフィウを抱いたのは最初の三日だけで、三日目はリーフィウの寝室だったが、少し慣れたリーフィウとほとんど事務的なキーファは、二人とも声を出さなかった。
 イーザは、実際、二人が抱き合っているかどうかなど、知らなかった。隣室で好きなことをして過ごしていて、なるべくそれに集中しようとしていたし、扉にかなりの厚さの布をかけ、どこまで効果的かはわからないにしろ、音が洩れ聞こえないようにしていた。ただ、リーフィウは最初ほど辛そうな感じはなく、そのことにのみ、安心していた。
 ひどいことは、されていなかったはずだ。湯浴みの世話も着替えの世話も自分がする。少なくとも、身体の見えるところに傷はなかった。
 だが、先刻のキーファ王はどうだろう。かなり酔っているとはいえ、思い切りリーフィウの頬を叩いていた。あれでは、しばらく痣が残るかもしれない。
 これほど、リーフィウの身が心配だったことはなかった。王は女性にしか興味がないと思っていたから、最初の日は心配したが、あのときは、リーフィウは前もって薬を飲まされていた。ラシッドから渡されたもので、睡眠効果のあるお茶だった。それを、王の寝室に行く前に飲ませてくれと言われて、少しばかり戸惑ったことを覚えている。
 そして、ぐっすりと眠ったリーフィウを、王がそっと抱えて戻って来たのだった。
 身体は綺麗にされており、だが傷つけたと王は言って、薬を置いていった。
 その後も二日間は、眠り薬を飲ませるようにと言われていた。どうやら、行為が終わった後にすぐに眠れるようにということらしい。そして、それはラシッドの指示ではなく、王の指示だと思われた。
 では、その後は何もなかったのだろうか。
 その後、眠り薬を飲ませるように言われた覚えはない。もちろん、今日もだ。
 イーザはふるふると頭を振って、色々な疑問を振り落とそうとした。自分がやるべきことは、リーフィウの世話と、彼が死んだり殺されたりしないように、見ていることだけだ。
 イーザは、王の酔って、でも泣き出しそうな顔と、リーフィウの縋るような目を思い出し、深々とため息をついた。


 イーザが居なくなった途端、リーフィウは抵抗をやめた。もとより、力で敵うはずがない。ただ突然で、イーザがいるということが、何より抵抗をさせたのだ。
 大人しくなったリーフィウを疑問にも思わないのか、キーファは行為の続きをしていた。経験があるといっても最初の三日だけで、それももう一月近い前のことだ。リーフィウは慣れるはずがなく、歯を食いしばっていた。
 ただ、今日のキーファは事務的にことを進めてさっさと終わりにするということをせず、リーフィウの首に口付けたり、全身を触ったりと、リーフィウの戸惑うことばかりした。知らず、息が上がる。
 胸を舐められたときは、思わずひっと小さく声を上げてしまった。慌てて口を手で押さえたが、目の前が真っ赤になった。
 冗談じゃない、とリーフィウは思った。
 こんな男にやられて、快楽を知るなど、冗談じゃない、と。
 だが、キーファは執拗に愛撫した。今まで、本当にただ入れられるだけだったというのに、突然のことにリーフィウは身体が熱くなるのを止められない。そしてそれが、リーフィウをどんどんと傷つけていった。
 なぜ、乱暴に抱かないのか。
 何かとろりと熱い液体が下肢に垂らされ、リーフィウはまた息を呑んだ。いつもなら突き破られる場所に、そっと指が入ってくる。
 熱かった。
 キーファが垂らしたのは濃度の濃い酒で、柔らかい粘膜には刺激が強い。下肢の内側の燃えるような熱さに、リーフィウは目をぐっと閉じた。
 指が、少しずつ増えてくる。リーフィウはぐっと腕を噛んで、洩れでそうな声を堪えた。
 最初の頃よりずっと、泣きたいような気分だった。あのときは、シャリーアを守ろうとか、心は明渡すものかとか、いろいろな覚悟をした。だから、乱暴にされて余計、負けるものかと思った。
 だが、こんな快楽を引き出すようなことをされたら。
 リーフィウのプライドはずたずただった。正直に熱くなって喜ぶ身体が、恨めしく、悔しく、情けなかった。
 痛みなら、堪えればいい。
 だが、快楽は、それが引き出された時点で、何もかもを壊す。
 ふいに蠢いていた指が消えて、ふっとリーフィウは息を吐いた。それと同時にふいに目を開けると、静かで、だが今にも泣きそうな、キーファの顔があった。
 ぐいっとキーファが入ってきて、リーフィウは再び目を閉じた。ゆっくりと入ってくるそれに、唇が震えた。なぜか、自分こそ泣き出したい気持ちだと思った。
 慎重に入ってきて、しばらく馴染ませた後は、キーファは無茶苦茶だった。何度も何度も、強く腰を打ち付ける。だが、そこにリーフィウの期待した痛みはあまりなかった。それよりも、背筋を駆け抜けるような、身体が震えるような快楽が湧き上がって、恐怖に身が震えた。
 嫌だ、と思った。
 嫌で嫌で、たまらなくて、リーフィウはそう叫んだ。嫌だと何度も。
 その叫びがやんだとき、リーフィウは気を失っていた。達したわけではない。たぶん、気持ちがぷつりと切れたのだ。
 その顔に、一筋の涙の後があった。
 キーファは無言で、ずるりと自分をリーフィウの中から出すと、その後をそっと拭った。そして、しばらくずっと、その顔を眺めていた。


 遠くで、水琴窟の音がした。
 雨は一晩中、降り続けた。


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