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モドル 3-05 * 02
遠景涙恋
第四章 祖国望郷
01
もうすぐ港だと言うところで、リーフィウは深い眠りから揺り起こされた。久しぶりの、心地よい眠りで、しばらくそこから目覚めるのに抵抗したほどだった。
「すみません、ぐっすり眠っているところを起こしてしまって」
いかにも忍びなかった、というような顔でザッハにそういわれたとき、だからリーフィウは少し恥ずかしいような気持ちになって「いえ」と小さく返答しただけだった。
「着いたのでしょうか?」
「もうすぐです。でも、その前に、申し訳ないのですがこちらに着替えて欲しいのです」
ザッハがそう言って渡したのは、国王軍の軍服だった。彼らの軍服は黒地にやはり同じ黒い糸で刺繍がしてあり、一見地味なものである。ただし、その生地はとても手触りが良く、とても動きやすいものだった。
刺繍は国花のクィナスと、王家の紋章であるシーサという大型の肉食の鳥である。
一面に細かく刺繍がしてあるにも関わらず、思ったより軽く、リーフィウは驚いた。
軍服を手にしたままじっとそれを見ているリーフィウに、ザッハは何度か口を開きかけては閉じていた。リーフィウの葛藤はわかるつもりだった。
これは、祖国を倒した敵の軍服なのだ。
だが、リーフィウを守るためには一番有効な手段でもあった。
ヤーミンだけではなく、ラ・フターハたち師団の兵たちも敵にまわっている今は、リーフィウの身は危険に晒されているどころではない。キーファ王という最大の的があっても、彼自身が戦闘の天才であり、鬼神と呼ばれているほどで、的としては非常に狙いにくい。まして、ラ・フターハたちには危険が大きすぎる。
今更ながら、キーファ王がリーフィウを連れて来ることを迷った意味がひしひしとわかったザッハだった。だが、リーフィウを宮殿に置いた場合、部隊長の誰かも抜けなければならない。シャリーアの身を守るために、既に何人かの国王軍兵は宮殿に残っており、諜報活動をしている者たちも何人かは残っているはずだった。ザッハは、その全容を知らなかったが。
ただ、リーフィウが宮殿に残った場合、彼にとって辛いことはなかったはずだ。タシュラルたちから身を守らなければならないという危険はあったが、それ以上のことはない。
それに、リーフィウには言っていないが、カハラム側にとっては、もう一つの心配事があった。ルクの民衆たちの、王子奪還である。
実際にそう言った情報は、今のところ入ってきていない。そもそも、王子が連れてこられたことを、民衆はまだ知らないはずだった。だが、いるとわかれば。
未だ根強く残るルク国の国民意識が、目覚めぬはずがなかった。ただそれについて、キーファは多くの注意を与えてはいない。
全く、四方八方、敵だらけだとザッハはため息をつきたくなった。
リーフィウはザッハの心配そうな、困ったような顔を視界に収めながらも、しばらく呑まれそうになる波に耐えた。この手の中の服を、切り刻んでしまいたい衝動に。
ふとシュレの香がその服からも香ってきて、リーフィウはその服に顔を埋めた。
この服を切り刻んでも、祖国は戻ってこない。
リーフィウはぎゅっと一度目を閉じてから、顔をあげた。それから無言で立ち上がり、手の中にあった服に着替え始めた。ザッハも何も言えないまま、着替えを手伝う。
顔を俯けたときに長い髪がさらりと垂れて、リーフィウはその髪をぼんやりと見た。
「髪を切らないと」
「え?」
「金髪の方はいらっしゃいますが、みなさま余り長い髪ではありませんよね」
戦闘時に邪魔ということもあって、髪はさっぱりと切ってしまうか、ある程度の長さー――ひと縛りほどできる長さー――で揃っている。規律があるわけではないのだが、誰もがもっとも戦いやすい髪型を選んでいた。一番頓着がないのは、軍隊長でもあるキーファ王である。
リーフィウは腰まで届くほどの髪だ。さすがにそこまで長い髪の兵はいないし、金髪の長髪は、ルクの貴族の証でもあった。
リーフィウはザッハが何も言わないうちに、腰につけるようにと渡された短剣を筒から抜くと、おもむろに自分の髪を掴んで、ばっさりと切った。
「リーフィウ様!」
はらりと、長い髪が船室の板の間に散った。縛らずに切ったために、上手く切れずに半分ほど残ってしまい、リーフィウはそれもばさりと切り落とした。
きらきらと、金髪が日に光った。
「なんてことを……」
「ああ、軽くなるものですね」
リーフィウは呆然としているザッハを気にもせずに、ふるふると頭を振った。いまや髪は、肩につくかつかないかという長さである。
「ザッハ!何か……リーフィウ殿?」
ザッハの叫び声を聞いて、ラシッドが扉を開けて入ってきた。だが、リーフィウの姿を見て、やはり呆気に取られて立ち尽くした。
「一体、何が……」
「いえ、髪を切った方がいいだろうとおしゃって、ばさりと」
銅鑼が鳴った。港に着いたのだ。
いけない、用意をしないとなりませんね、とリーフィウはいまだ突っ立っている二人に言った。ザッハはふるふると首を振りながらも、元の船室に戻るためにその部屋を出た。
王に、なんて言い訳をしようかと、ため息をつきながら。
ことはリーフィウの変装だけでは終わらず、実はザッハがリーフィウに成りすますのだということだった。言われてみれば、二人は背格好は似ている。ただし、ザッハの鍛えてある身体は、リーフィウのものとは全く違う。それも緩やかな服で隠すということで、ザッハはリーフィウの衣装に腕を通していた。
「でも、これではザッハに危険が……」
「そうじゃなかったら困るでしょう?大丈夫です。俺はこれでも腕利きなんです」
ザッハはそれから、忘れていたと慌てて髪を洗いにいった。再び現れた彼の髪は、美しかった栗色から見事な金髪になっていた。
「染め粉、ですか?」
「いや、落とし粉だって言ってました。良くわかりませんが、染めるんじゃなくて色を落とすんだとか」
国王軍にはそういうことを研究している人間もいる。爆薬の開発から新薬の開発、果てはこんな日常の化粧品のようなものまで、研究しているのだ。
「とりあえず、ヤーミンはこれで少しは騙せると思うんです。でも、師団の兵たちはあなたの顔を知っている人間もいますから、近くで見られたら万事休すです。船を下りたら、ラシッド殿が警護に着くはずですが、リーフィウ様もどうかお気をつけ下さい」
リーフィウは真剣な顔で頷いたが、心配なのはザッハの方だ、と思っていた。
ザッハも先のルク攻略に参加していただろう。それも、第一部隊隊長ならば、ルクの犠牲者はこの男の手によるものも多かったはずだ。だが、それとは別に、リーフィウはこの青年の身を案じた。
許せないと、今でも思っている。
祖国を、家族を、国民を殺して汚した人々を、許せないと。
だからと言ってザッハが自分の代わりに危険な目に会うことを、関係ないと、構わないと、思うことはできなかった。
自分はザッハの優しいところを知っている。彼の、屈託のない笑顔を知っている。
「ザッハも、どうか気をつけて」
結局、リーフィウはそう言うことしかできなかった。自分の心が、わからないままに。
覚悟をしておいてください、とラシッドに言われていたことを、リーフィウはルクの地に足をつけたときになって思い出した。船室からちらりと見えた断崖には美しい紫色の花が揺れており、何も変わらないように見えたからだ。
港の景色が一変していたわけではない。主だった戦場はもっと島の中心であり、この辺りは住民を先に避難させていたので、あまり抵抗もなく、建物も無傷なものが多かった。
だが、ルクの港の活気が、なくなっていた。
軍港より商用の港のほうが大きかったセリア港は、いつも異国の商人達と、地元の商人達で賑わっていた。様々な衣装を着た人間達が、それぞれの言葉で、自国の産物を運ぶ。初めて港に来たときは外国に来たかと思ったほどで、しばらくその賑わいから目が離せなかったものだ。
その色とりどりの人たちと、匂いと、言葉を、リーフィウは一瞬感じた気がした。だが、それは幻でしかなく、目の前にはカハラム軍の青い服の兵たちと、国王軍の黒い服の兵たちが慌しく走っているのが見えるだけだった。
「大丈夫ですか」
立ち止まったリーフィウを、ラシッドが心配そうに見た。彼のほかに二人、リーフィウを守っている兵がいる。
「すみません、大丈夫です」
リーフィウはそう答えたが、顔色は悪い。眠っていなかったというし、先刻倒れたことも考えると馬車に乗せて行きたいところだが、兵の格好をしている今は、馬に乗ってもらうしかなかった。
リーフィウも今はなくなったとしても王家の人間だ。乗馬に関しては問題はなかったが、思ったより自分の体力が落ちていることに軽く唇を噛んだ。
情けないにもほどがある。
ラシッドや王家の兵たちは、ザッハが憧れたというだけあって堂々と立派だった。一緒に走っていても、どう見ても自分が守られている風にしか見えないのではないかと、リーフィウは馬を走らせながら考えていた。
向かうのは宮殿だった。島のほぼ中央に位置する宮殿までは、馬でも五、六時間はかかる。リーフィウは黒い布で顔半分を隠しての旅だった。だが、それは他の人間にしても同じで、兵の一人は会議のときにザッハを呼びに来た男だった。
男はハリーファと名乗っただけで、何の肩書きも言わなかった。もう一人はリシュと名乗り、ラシッドの部下だということだった。
リーフィウはただひたすら足を引っ張らないように走りつづけた。ただ進むことだけを考えないと、今にも足を止めて泣き崩れてしまいそうな気がしたからだ。
港を密やかに出た四人は、港から首都があったルクまで、街道ではなく村から村を通るような、細い道を走っていた。リーフィウでさえ正確な場所が把握できないというのに、先頭を走るハリーファは、迷いをみせない。
その小さな村々が、閑散としていた。先の戦いで、男達は兵ではなくとも武器をとり、女たちも容赦なく殺されたことをまざまざと知らされ、リーフィウは直視できなかったのだ。
いつもいつも、笑いに溢れていたはずなのに。
リーフィウたちは幼い頃から島を巡る旅をしていた。一年に一度、王とともに旅をするのは楽しかった。村々の様子を直接見て、王は様々な決定をしていた。だからこそ、王家はあれほど慕われていたのだ。
国花のレアの木は、どの村にも植えてある。それが満開になる頃に、祭りをするからだ。そのレアの花が、咲ききった後で地面に落ちていた。走り抜ける馬が起こす風に、舞い上がる。
村はそれほど荒れてはいなかった。だが、人気がない。家々の戸はきっちりと閉められており、道には人がいなかった。唯一見かけた女は、外で遊んでいた子供を抱いて、慌てて家の中に入っていった。昼間だというのに、まるで夜中の寝静まった村を走っているようだった。
「ルクの民とカハラム軍の関係が決して友好的とはいえないからだ」
村から外れた小さな森の中で休憩を取ったときだった。リシュがずいぶん人がいないと言ったことに、ハリーファが答えた。
「イーシュ総督が何かやらかしたか」
「……何もしなくとも、友好的に迎えられる条件は揃っていなかったと思いますが」
ハリーファはリーフィウに気をつかったようだった。表情が動かないため、この男の感情は読めない。四人は柔らかい草の上に坐って、花茶を飲んでいた。
リーフィウは一人、遠く通り過ぎてきた村を見ている。
「だが、隠れるほどのことじゃない。それも、首都には遠い小さな村だ。たかが四人の兵が通るのに、息を潜めていることはない」
ラシッドは水筒から花茶を注いだ。ハリーファは小さく頭を下げてそれを受けた。
「イーシュ総督とその部下達は、この島を花街と勘違いしている」
「彼らにしてみれば、どこもそうなんじゃないのか」
「つまり、そういうことです」
「こんな小さな村まで……」
悲痛な声で言ったラシッドに、ハリーファは答えなかった。実際、小さな村でも、イーシュ隊が通った村には、そう言った被害を受けた娘たちがいることを知っていた。それは噂となって広がり、いまや全てのルクの民が知っていることだった。
カハラム軍を見たら、息を潜めて身を隠せ。
小国といっても、高い山などがないために島の移住可能地域は広い。村は全島に渡って点在しており、決して狭いとはいえない。それなのに、その「警告」は、全島に行き渡っていた。
リーフィウはまだ、遠い村の影を見ていた。揺れない瞳に、ラシッドは一瞬、声を掛けるのを躊躇った。だが小さくため息をつくと、立ち上がって服についた草を手で払いながら、行こう、と言った。
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