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モドル 3-05 01 * 03
遠景涙恋
第四章 祖国望郷
02
四人が首都、ルクに着いたのは、すっかり日も暮れた頃だった。裏道を通ったために、直接向かうより倍近い時間がかかっていた。
ルク市街は工事中の建設物に溢れていて、そこだけ見れば復興に沸き返る街のようだった。残された者たちは働かなければならない。それがどんな建物であろうと、まずは生きるための糧となるものが必要だった。
リーフィウたちはその街の中も、裏道を通っていた。表の通りはすっかり花街となっており、夜の更けた今も賑やかだった。だが、先の戦いで廃墟となった街の裏は、やっと屋根がのった家々があるのみで、表の喧騒は遠い。月明かりに照らされて、ひどくひっそりとしているその家々の間を走り抜けながら、リーフィウは叫びだしたいのを我慢して、ぐっと唇を噛み締めた。
争いの前は、ルクはどこも明るい場所だった。貧しい人々の地区がなかったわけではないが、みんな逞しく生きていた。こんな、死んだような街ではなかった。
きつく噛み締めた唇から血が滲み始めていたが、リーフィウは気付かなかった。ただまっすぐ、目の前を走るラシッドの背中を見ているしかなかった。
祖国はなくなったのだ。
あの、明るく陽気で、朗らかな国は。
宮殿もまた、修復と改築を兼ねた工事をしていた。今は王家の宮殿ではなく、ルク島統括の住まいになっている。宮殿は大きく立派な建物であったが、回廊が街と宮殿を分けていただけで、塀はなかった。
ルクは、ルク島全体で一つであり、宮殿は民衆の宮でもある。だから、誰もが入ることができる場所だった。
それがルク王家とルク国民の関係で、回廊はいつも一休みをしたり、集まってお喋りをしたりする国民に溢れていた。リーフィウたちが庭で遊んでいると、そう言った国民に声を掛けられ、可愛がられた。
その回廊は残されていたが、今は回りの家々が壊されて、回廊沿いに塀が築かれている最中だった。
「どうか、気付かれませぬように」
宮殿近くで、ハリーファがふいにリーフィウに言った。リーフィウは無言で頷いて、顔の下半分を覆っている黒い布をぐっと目の下直前まであげた。
ハリーファは三人を待たせて、人に見つかる可能性の低い場所を探してきたようだった。無言で進むよう、三人を促した。
宮殿裏は、まだ塀の建設が始まっていなかった。土嚢が積んであったが、馬をその隙間から回廊の柱に一時的に繋いで、それを乗り越えて回廊に入った。それから、四人は調理場へ通じていた裏口から中に入った。
「只今到着しました」
三階の王の寝室に着くと、ラシッドが中に声を掛けた。中から返事はなく、すっと扉が開いた。ラシッドに続いて、リーフィウが中に入る。その後ろにはリシュが着いてきたが、先刻までいたはずのハリーファはいつの間にかいなくなっていた。
中には、ザッハと第三部隊隊長、ファノークがいた。彼らは真っ直ぐに宮殿まで向かってきたために、馬車に関わらず四人よりも早く宮殿に着いていた。
キーファが促して、みな床に坐った。王の寝室は、湖宮の中の部屋のようになっていた。床には毛の長い絨毯が敷いてあり、綿の入った柔らかい布団がいくつもある。みなそれぞれがその上に坐ると、リーフィウの服を着たザッハとファノークが、酒と果物と軽い食事を持ってきた。
静かな食事が始まった。先に着いた者たちはもう済んでおり、酒と果物を食べていた。リーフィウは渡されたものを口には運んでみるものの、食欲はなかった。見かねたザッハが桃を一つ渡してくれて、リーフィウはそれをなんとか食べただけだった。
「イーシュはやはりお飾りだな。毎日遊び暮らしているそうだ」
ファノークが食事も落ち着いたところで、そう口を開いた。ラシッドが籠から橙を取って、苦笑した。
「タフェ財務官がやはり全てを動かしていると?」
「タフェはタシュラルの手先なだけだ。裏金作りには冴えているが、兵を動かすことはできない。そっちはイーシュの下のサルタージが動かしている」
キーファがそう言い放って杯を飲み干す。それにザッハが首を傾げた。
「サルタージはラ・フターハ師団長の副官の一人でしたよね。一時的なものではないのですか?」
「今回の討伐の下地作りだと考えることもできるが、代わりが見当たらない。このまま残ることもあるだろう」
「下地に何をしていると思うんだ、ラシッド?」
「まずは、キーファ王、あなたはここに入ったら最後、動けないかもしれませんね」
ラシッドが苦笑して、キーファは不愉快そうに片眉を上げた。
「ヤーミンはどの位で動きそうなんです?」
「一週間というところだな。艦隊が二週間前に出航したことはわかっている」
「それで、キーファ王はどうなさるつもりですか」
ラシッドの言葉に、キーファはすぐに答えなかった。
道々、ひたすら馬で走りながら、ラシッドはリーフィウに今回の海賊船騒ぎについての国王軍側からの見解を話した。あわや反逆かと言われそうなその行為に、リーフィウはただ驚いた。
そのとき、ではどうするのか、と聞いたのはリーフィウだ。それにラシッドは、たぶんこのまま首都と港に留まるだろう、と言っていた。
「要請があれば後方支援をする。あとは港と万一のための首都警備に徹する」
キーファはそう言って、手酌で杯を満たした。一瞬その場に沈黙が流れた。
納得できるものではない。仮にも国王軍が、後方支援に警備とは、ルクまで三週間も掛けて船に乗ってきた価値はない。
「手柄は譲る、と?」
「師団長は馬鹿だが、師団そのものは大きいだけあってそれほど弱くはない。ヤーミンを陸に上げなければ勝算は十分ある。上げても、港で食い止められればな」
リーア港の要塞化は、最優先事項で、完璧ではないにしても整ってはいた。その報告を受けているキーファの判断だった。
「ヤーミンは陸には上がれない、と?」
ザッハが呟くように言った。それには、ファノークが首を傾げた。
「ヤーミンは六艦隊、それも大型船で挑んできている。師団の艦隊はその半分だ。食い止めるのは無理じゃないか」
「では勝算はないじゃないですか」
「ただし、カハラム軍は小型船を多く所有しているし、リーアに駐屯隊がいる。上手く使えば勝てるだろう」
「上手く、ねえ……。後方支援の要請はあるんでしょうか」
ないだろうな、と言ったファノークの言葉は、誰も否定しなかった。
「首都まで来る可能性は?」
「五分五分、と俺は見ているが……」
ファノークがキーファを見たが、王は黙って酒を煽っただけだった。
「ルクの島民達にいつ避難勧告を出すんです?」
黙っていたラシッドが急にそう言って、リーフィウははっと顔を上げた。横に坐るキーファからの視線を感じて、思わず首をめぐらせると、一瞬、目が合った。
「明日にでも」
ふいっと逸れた目に、リーフィウは何の感情も見つけられなかった。
明日――自分はどうやって、ルクの民たちを説得するのだろう。
「方法は――任せたいと思っているのだが」
ふいにキーファが、今度は真っ直ぐ自分に視線を向けてきて、リーフィウは一瞬動きを止めた。
任せる?
「ルク島民と王家の関係はカハラムのものとはずいぶん違う。どうしたら素早く確実に彼らがこちらの言うことを聞いてくれるのか――リーフィウ殿ならよくご存知だろう」
リーフィウは、どう答えたらいいのかわからなかった。そう言った政治的行動は、したことがないのだ。
改めて、自分はルク国にとって、なんと頼りない王子だったのだろう、と思った。実際は成人の議をするはずが、先の戦いで儀式をするどころではなくなってしまい、お披露目はしていない。だが、だからといって、自分は国に無関心すぎたのではないかと今になって思う。
「ラシッドと相談して、決めて欲しい。末端まで行き渡らせるには時間があまりにない。だから明日にも行動は起こしたいと思っている」
そうキーファが立ち上がったのを合図に、その場はお開きとなった。ザッハとファノークが素早くその場を片付け、リーフィウはラシッドと一緒にその場を辞することになった。だが、リーフィウは戸口でしばらく逡巡した後、思い切って、キーファと話がしたいと口を開いた。
「俺もその方がいいと思いますね。あなたたちは、意思の疎通がなさ過ぎる」
ラシッドはそう言って、ぱたりと扉を閉めた。
リーフィウはしばらくその場に立っていたが、キーファがすっと坐るように手で促したので、再び床に坐った。今度は、一人分開けた距離だった。
キーファに酒を無言で勧められ、リーフィウはそれを受けた。話したいとは言ってみたが、何を話せばいいのか、リーフィウは自分でもわからなかった。
突然任せると言われてしまって、混乱しているのだ。
ふいに手が伸びてきて、リーフィウは驚いて身体をびくりと震わせた。それに逆に驚いたように、キーファの手も微かに震えて、さらりとリーフィウの髪の先を撫でるようにして下りていった。
部屋の明かりは先刻よりぐっと落とされており、二人の前と扉の前に、いくつかの油壷の炎が揺れているだけだった。
「悪かった」
「いえ、ただ驚いただけで……」
リーフィウは俯いて、杯を手にした。
「髪を、切ったのだな」
「あ、ええ。揃えている暇はなかったので、見苦しいですが」
それに、いや、とキーファは言って黙った。じっと注がれる視線に、リーフィウは居心地が悪くなる。
ときどき、その視線に何もかも委ねたくなることがある。すっと手を伸ばして、その目を覗き込んで――だが、そんなことを考える自分がまた、リーフィウは許せなかった。
この男は祖国を倒した敵であり、自分を辱めた男なのだ。
だが、その視線は、どこか全てを抱擁するような感覚がある。身包み剥がされ、肌や骨さえも暴かれ、自分で触れることでさえひりひりと痛そうな何か、それさえも、包み込むような。
だからその視線は居心地が悪く、怖い。一度手を伸ばしてしまったら、何もかも失ってしまいそうで。
「……話が、あるのだったな」
言われてだが、何を話すべきなのかわからないリーフィウは、しばらく顔を上げられずに、手の中の杯を弄んだ。キーファも無言で、酒を飲んでいる。リーフィウが好きな、パナ酒だった。
静かな時間が流れた。そう言えば、こんな時間は久しぶりのことだとリーフィウは思った。いつの間にか、慣れ親しんでいた時間。
「ルクの民たちは、私が説得をして聞いてくれるでしょうか」
ようやく開いた口から出てきたのは、そんな言葉だった。言ってみて初めて、自分がひどく不安なのだとわかった。
民を捨てたと思われてもいい自分が、民に捨てられることを恐れている。
「私は、民を見捨てた。私だけが助かって、ここは血の海になった。私は何もできなかったのです。父の手助けをすることもなく、国の内情を知りもせずに、毎日遊び暮らしていました。ヤーミンやカハラムが攻めて来た時も、何もできなかった。ここでっ……ここで、ただ怯えていることしか……そして今も……壊されていくこの国を、どうすることもできない」
空になった杯を握り締めている手が震えていた。誰を相手にこんなことを言っているのか、と頭の中の冷静な部分では思っていたが、それでもリーフィウは止められなかった。
あの目が、悪いのだと思う。
全てを受け止めてくれそうな、あの目が。
すっとキーファが立ち上がった気配がして、リーフィウはようやく落ち着こうと目を閉じて深く息を吸って吐き出した。キーファはふらりと窓際に近寄ると、そこから街を見下ろした。
ルク国王が、いつでも街の全てを見渡せるように、と作った窓だ。
「私にも、どうすることもできない」
低く、囁くような声だった。だが、静かな闇の中で、リーフィウの耳にはきちんと届いていた。ふうっとため息を吐いて、キーファは出窓の壁に肩を預けた。
「この島が変わっていくことを、私もとめることは出来ない。ルクは歴史のある国だった。変えてはいけないものも、失くしてはならないものも、たくさんある」
だが、それを守ることができない。
リーフィウは振り返って、その背を見つめた。
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