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遠景涙恋
第三章 水月


05
 ふわりと何か温かいものが頭を撫でた気がして、リーフィウはゆっくりと目を開けた。見知らぬ天井が、目に入る。ああ、そう言えば船に乗っていたのだったか、と思い出してはみたが、記憶のその天井とも、今見えるものは違う。
「気付いたか」
 ふと柔らかく低い声がして、リーフィウは傍らを見た。
 すっと立っていたのはキーファで、リーフィウはわけがわからずに目をぱちりとさせた。
 召集がかかって、会議のさなかに放り込まれ、それから船がものすごく揺れて……
「あ……」
 目の前に広がった光景に、自分は気を失ったのだ。あの、赤く広がった血の海に。
 キーファはちらりとリーフィウを見てから、扉の外に何か二言三言話した。
 リーフィウが立とうとすると、もう少し寝ていろ、とキーファに言われた。
「眠れないか」
 キーファはいつもの無表情だった。吸い込まれそうな、深い瞳。
「血を見て驚いたのと、寝不足が原因じゃないかとシャリスが言っていた」
「彼は、医者なのですか?」
 シャリスとは、あのすらりとした青年のことだろう。リーフィウは先刻の会議の中にいたその青年を思い浮かべた。
「第二部隊長だが、医学知識もある。あれの下にはそういう者が多い」
 最初は意識して集めたわけではなかったが、隊に入れる新人は部隊長の意見が尊重される。そのうちもともと何の知識もなかった兵たちも、シャリスから教わって簡易治療はできるようになり、第二部隊は別名医療部隊と呼ばれるようになった。
 だからこそ、船員が十人足らずでもやっていけるのだ、とリーフィウは納得した。兵たちは戦闘以外の能力も高いのだ。
 質問に答えなかったリーフィウを、キーファはじっと見た。確かに顔色が悪く、やつれたようだった。
 失礼します、と声がして、ザッハが入ってきた。手には茶器を持っており、それを傍らの小さな丸机の上に置いた。慣れた手つきで茶を淹れる。
「キーファ王もお飲みになりますか?」
「薬湯だろう?いらぬ」
 眉根を寄せて嫌そうな顔をしたキーファを、ザッハはくすくすと笑った。
「シャリス殿は王もお飲みになるだろうからといってらっしゃいましたよ」
「いらぬ」
 キーファ王はまるで子供のように薬湯を飲みたがらない、とシャリスがいつも零しているのを聞いているザッハは、おかしくてならない。だからこそ、シャリスもあんなことを言ったのだが。
「あ、キーファ王がそんなことをおっしゃるから、リーフィウ様が心配そうな顔をしていらっしゃる」
「……それほど不味いものじゃない」
 苦虫を潰したような表情のキーファに、リーフィウの顔が思わず綻んだ。心配したのは薬湯の味ではなく、キーファの身体のことだったのだが。
「いただきます」
 リーフィウは渡された薬湯を少しずつ飲んだ。熱すぎない液体が、するりと身体中に染み込んでいく。味は、少し苦いがそれほどまずいとは思わなかった。
「本当に、それほど飲みずらい物ではありませんね」
 リーフィウはキーファを安心させるためにそう言ったのだが、ザッハはそれを聞いて、思わず吹き出した。
「ザッハ!」
 キーファは窘めては見たものの、もの凄く決まりが悪かった。
 シャリスには、いつも「子供じゃないんですから」と言われて薬湯を飲まされる。だが、その苦味がどうしても好きになれないのだ。
「シャリス殿は、もう少しお休みになったほうが言いとおしゃっていましたので、私はこれで……」
「いや、おまえがここにいろ」
「王……?」
「怪我をした船員の様子を見てくる。それに、もうすぐ港に着くだろう」
 キーファはそう言うと、足早に外に出て行ってしまった。
「素直じゃないというかなんと言うか……でもまあ、頼もしくはあるか」
 ザッハはその後姿にそんなことを言って、小さくため息を吐いた。
「あの……ザッハ、ここは……?」
 リーフィウは先刻からの疑問を口に出してみた。自分のいた船室でもなければ、病人用の船室にも見えない。質素だが今寝かされている寝台も、その上の寝具も全て質がよく、これはまるで――。
「王の寝室です」
 思った通りの答えが返ってきて、リーフィウはやはりと目の前の手触りのいい布をそっと撫でた。
「もうすぐセリア港に着きます。それまでお休みください」
 ザッハにそう促されて、リーフィウは身体を横たえた。先刻までの騒ぎが嘘のように、船の中は静かだった。
 怪我をした船員の様子を見る、とキーファは言っていた。では、あの船員の命は助かったのだろうか、とリーフィウはほっとした。もう、人が死ぬのを目の前で見るのはたくさんだった。あの血の海を見た途端、故郷の宮殿での凄惨な光景が蘇ってきて、リーフィウは気を失った。
 弱い、と思う。
 自分は、弱すぎるのだとリーフィウは思った。人が死ぬのを見るのが嫌だと思いながら、だからと言って目の前で息絶えていく人間を助けることもできなければ、死に晒された兵たちを守ることも、できない。
 王子と言われながら、リーフィウは、何もできなかった。
 自分はあまりに無力で、弱い。
 零れ落ちそうになったため息も涙も堪えて、リーフィウはそっと布団に顔を沈み込ませた。
 シュレの香がした。
 ――この花は、こんなに鮮やかな、きついともいえるほどの紅い色をしておりますが、匂いはとても穏やかで柔らかく、心を落ち着かせるものなのです。
 イーザの声が聞こえる。
 ――シュレの香油の香りは、リーフィウ様もよくご存知ですわ。……キーファ王が、お贈りしてくれました。
 真っ直ぐな、深い色のキーファの目が見えた。濃い、青色だと気付いたのは、最近だった。
 ああ、キーファの匂いなのだ。
 リーフィウはそっと目を閉じた。ないはずの温もりを、感じた気がした。


 ルク島南西のセリア港は、元は商業用の港と軍事用の港に分かれていた。いかにルクが争いを好まないとしても、強国に囲まれた小国として、軍備は欠かせないものだった。だが、それもやはり飾りに過ぎなかったのだと、先の戦いは示しただけだったのだが。
 国王軍はそのセリア港ではなく、島の反対にある北東のリーア港に直接向かうはずだった。ヤーミンが攻めて来るとしたらそちらの方が可能性が高く、セリア港はあくまでも守備隊の様相が濃かったからである。国王軍は戦いでは常に前線におり、それがために師団長ラ・フターハは華やかな功績を挙げられずにいた。それは国王軍がいかに優れているかを示すものであり、功名心の高いラ・フターハにとって、我慢ならないものだった。
 その上、国王は二十七の自分より五つも下の、彼に言わせれば、若造である。幼い頃から自分より年下の相手に頭を下げてきたラ・フターハは、今の自分の現状に納得していなかった。なにしろ、その頃から父親が政務をしてきたのを見ている。何ゆえに、その子供である自分と国王とが違うのか、理屈ではわかっているつもりでも感情は決して受け入れなかった。
 ラ・フターハの部隊がカハラム軍第一師団という呼称をつかっていることからも、そのことは伺える。国王軍がその下に「第一部隊」という名称を使わなければいけなかったのは、カハラムには既に第一師団が存在していたからであった。
「敵もなかなか知恵が回る」
 セリア港を前にして、甲板に立つキーファの隣でラシッドが呟いた。この場合の敵とは、ヤーミンではなくラ・フターハである。
 偽装海賊船――と、既に国王軍の司令部の人間達は思っている――に国王軍の船を襲わせ、あわよくば沈めようとした。万一逃げられても、けが人を負った船はセリア港に寄港するしかないのである。海賊船が執拗に火焔薬を投げていたのは、そのためだった。けが人ではなくとも、何か大きな損失を船に与えられれば良かったのだ。
 その上、逃げるとしたら最も安全な場所はルクの港であり、あの時点ではセリア港に向かわざるを得なかった。幾重にも仕掛けられた、罠のようなものだった。
「あいつ一人で考え付くことじゃない。大方どこぞの親ばかが入れ知恵をしたんだろう」
「つまり、動き出したと……?」
「今回のルクの攻略のときから始まっていたんだ」
 タシュラルは、決して裏方に徹する人間ではない。キーファは自分がこの年まで生きていられたのも運が良かったと思っているほどだった。
 幼い頃は、良かった。タシュラルもキーファの利用価値を十分認めていたからだ。だが、それよりも懸念の方が多くなったら――キーファの運命など決まっているようなものだった。
「確かに、踊らされたのはヤーミンだけじゃなかったな」
 ルク攻略について、国王は何も知らされなかった。ただ、戦っただけだ。ヤーミンと同じだけの、上っ面の状況のみを提供されて。
 それをわかっていながら何も言わずに戦いに挑んだキーファを、ラシッドはひどく歯痒い思いで見ていた。
 今でも、ときどきわからなくなるのだ、この男のことは。
 ひどく誰かに似ている気がして、どこか放って置けなくて、ここに身を留めてもう一年になる。その間、誰よりもキーファの近くにいたとラシッドは思っているが、それでもなお、わからないことは多かった。
「だが、自ら踊ったのと、何も知らずに踊らされたのは違う」
「そうか」
「そうだ。それを相手が知らないなら、なおさら」
 セリア港はもう眼前に迫っていた。船は商用の港に泊めることになっていた。軍用より、広いからである。
 港を囲むような絶壁には、美しい花が垂れていた。薄紫色のその花は、ゆらゆらと潮風に吹かれていた。
「わかっていても、踊らされたのなら同じだと俺は思うが」
 前方からの強くなった風が、ばらばらに切られたキーファの髪を吹き上げた。ただ精悍で美しいキーファの横顔を、ラシッドは見た。
「そうやって、ずっとわざと踊らされつづけると?」
 その命が、果てるまで――。それさえも、その掌の上であるというのに?
 ラシッドの言葉に、キーファは何も答えなかった。こう言うときのキーファは、決して何も語らない。その、瞳でさえも。
「キーファ」
 まるで長年の友人を呼ぶような声に、キーファはゆっくりと顔を横に向けた。
 この男とは、会ったそのときから、こんな感じだった。自分が王なのだと笑って告げたときも、そうならいいと思っていた、と笑い返した男だ。
 色々考える男は、自分に対しての言葉遣いも自在に使い分ける。だが、キーファが望むものをわかっている男だった。
 そして、たぶん、誰よりもキーファに厳しい男だった。
「誰かに踊らされて死ぬなんて言うのは、俺は許さない」
 そんなことは、国王軍の誰もが、許さないだろう。
「おまえは躍らせる方だろう。そして、俺たちが躍っても良いと思っているのは、おまえの掌の上だけだ」
 ラシッドはそう言うと、くるりと船室に戻っていった。その背になにかとてつもない憤りと苛立ちを感じて、キーファは馬鹿な奴だと思った。
 自分のために、こんな情けない友のために怒るなど――馬鹿な奴だと、まるで泣きそうな目をして、小さく笑った。


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