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遠景涙恋
第五章 残光


03
「ヤーミンは、どの辺りまで来ているのでしょう」
 長い沈黙の後に、ようやくリーフィウが聞いたのはそのことだった。それを聞きに来たわけではないのだが、先刻から気になっていたことには違いなかった。
「ルクから二十キロ、シェンの村辺りだ。今はその村で第一師団と第二師団の残りの兵からなる部隊が食い止めている」
 そんな近くに……とリーフィウは思わず呟いた。
「海で師団はかなりの敗北を喫している。ヤーミンが抜けてくるのも時間の問題だろう」
 キーファの声は淡々としていたが、苦々しい思いが滲んでいた。
 ときどき、馬鹿なことをしていると、国王軍の隊長たちでさえ思うのだ。
 同じ国の軍隊でありながら、少しも互いに協力し合えない。今はなんとか保っているが、本当に大きな戦いとなったときは、勝てるはずがないと国王軍の誰もが思っている。
「シェンは、小川の流れる美しい村だった……」
 リーフィウの言葉に、キーファは何も言わなかった。リーフィウも、責めたつもりはなく、言ってからはっとした。
 しばらく沈黙が流れ、ふとキーファが遠くを見た。
「シェンは、リ語では水を意味するのだったか」
 リーフィウは、薄い茶色の瞳を大きく見開いた。確かにシェンは水を意味するリ語だが、普段使う水ではない。リ語では、飲用水や生活用水と、自然にある水を区別する。
「よく、ご存知なのですね……王は、リ語をお使いになれるのでしょうか」
 あの屈辱に塗れた夜、シエンレン・シュエ・ライと美しい発音をしたキーファを思い出した。
「聞いて理解は出来るが、話が出来るほどではない」
 それでも、リーフィウには十分驚きだった。ルクではサムフ語もリ語に並ぶ公用語だ。島民は誰でもサムフ語が話せたし、実はリ語の方が難しいために若者達などはサムフ語のほうを好んで使うほどだった。
 つまり、隣国だからと言って、カハラムの王がわざわざリ語を学ぶ必要はないのだ。反対に、リーフィウは西の大陸のほとんどの地域で話されているサムフ語も、ヤーミンなどで使われているアーリ語も学んだ。ルクの使節として出向いたときなどに恥じを掻かないようにと叩き込まれたせいで、両言語を母国語としている人間より、余程綺麗な言葉を話す。
 リーフィウの驚いた顔に、キーファは少しばかり居心地悪そうに、視線を逸らして、言い訳をするかのように口を開いた。
「カハラムのカハラム・サムフ語、南のサリエリのサリエリ・サムフ語ともに、サムフ語に起源を持つ。サムフは元になる言語があったし、北のキイル語もその元の言語から派生したと考えられている。ヤーミンのアーリ語も、東の古代語が起源だ。それもサムフと同じように、各地に様々な言語を生み出した。その中で、リ語だけはどこにも起源を持たない。文法や発音、文章の構成まで、サムフにもアーリにもないものばかりだ。二つの大陸に挟まれているというのに、それが不思議だった」
 だから興味を持って、学んだと言うのだろう。視線を合わせないまま語ったキーファを、リーフィウはやはり呆然と見ていた。
 ――この人は……。
 確かに、リ語は起源が全くわかっていない、珍しい言語だった。そう言ったことが、やたらと愛国心が高く、民族に異様なほどの誇りを持つ、ルクの国民性にも関係しているかもしれないと言った言語学者もいる。
 だが、ルクの民たちでさえ、それを知らないものが多い。リ語を難しいと敬遠する若者もしかり、それを嘆きながらも、それならば何故ルクのみで使用されているリ語を残さなければならないのか、説明できない大人達もしかりだ。
 リーフィウは、自国の歴史を学ぶことは王家の義務のようなものだったし、ルクの文化に興味があったために、リ語の特殊さは知っていた。
 キーファは、そう言ったリ語やルクの文化の特殊性を知っていて、なくすのは惜しいと言ったのだ。
 この人なら――。
 リーフィウはここに来た当初の目的を思い出していた。
 享楽に耽るキーファも。
 軍の長としてのキーファも。
 こうして、真摯に語るキーファも。
 全てがキーファなのだ。だが、信じてみようと思った。キーファは、そのどれにも嘘はないのだと。相反するような顔をするが、そのどちらもキーファなのだと。
「キーファ王」
 リーフィウがはっきりとその名を呼んだ。キーファはその真摯な響きに、顔をふいっと上げた。
 真っ直ぐな、澄んだ瞳があった。
 リーフィウのその瞳は、決して曇らないのかもしれない。例え曇ったとしても、それは表面だけで、拭けば落ちるガラスの曇りのようなものなのだ。傷ついて、二度と消えない傷にはならない。
「お願いが、あります」
 だが、だからと言って、その瞳を曇らせたり傷つけたりしたいわけではなかった。
「私を、国王軍に入れていただけませんか」
 その真っ直ぐすぎる瞳は、キーファに強い憧れを抱かせるとともに、深い恐れを湧き上がらせるものでもあった。
 それは、とても、痛々しいまでの澄んだ瞳だった。


「それは、ルクを捨てるということか」
 部屋の外の喧騒は、内側にまで届いてこない。緊張感が高まっているはずなのに、この部屋だけはとても静かで、切り離されたようだった。
 リーフィウは答えずに、じっとキーファを見た。
 捨てるわけではない。だが、ここでそれを言うわけにはいかなかった。
「私には、ルクは重すぎます。今でも王子と言われて、困るだけなのです。それに、シャリーアのことは見捨てられません」
 それは国王軍入りを誤魔化すための方便だったが、半分ほどは本音で、言った途端にリーフィウは激しい自己嫌悪と罪悪感を覚えた。
 あれほど自分を慕って良くしてくれる人々から、逃げたいと思っている。
 自分は、何もできないのだから――。
 だからこその国王軍入りの希望だったのだが、心の片隅で、そのまま逃げてしまいたいと思っていることもまた、確かなのだ。
 リーフィウの痛みを耐えた表情から、キーファは顔を背けた。目の先には、精巧な細工の施された扉が見えた。そろそろザッハが戻ってきてもおかしくない頃だった。
 リーフィウの希望は叶えられるものではなかった。中途半端で、限られた力しかない王には。
「……もしあなたがこちらに戻ってくるのならば、捕虜以外の立場は与えられない」
 可笑しな話をしている、とリーフィウは思った。こんな場所で、捕虜に戻るかどうかの話など。
 なぜ、とリーフィウは言った。
「なぜ、逃がすのです?私は今や、捕虜の価値もない、と?」
 キーファはその言葉に驚いて、思わずリーフィウを見つめた。見たことのない、自嘲の笑みが浮かんでいた。
「確かに、シャリーアがいれば十分かもしれません。それに、私がルクに戻っても、私では再びルクを取り戻すために戦いはできない。そんな力は――ありません。だから、もう放っておくのでしょうか。でも、それなら」
 リーフィウはキーファを真っ直ぐに見た。
「それならなぜ、殺さないのです」


 しんっと静まり返った部屋に、扉を叩く音が聞こえた。重厚な扉だが、中に聞こえてくる音は澄んで美しい。
 キーファが誰何すると、ザッハの声が聞こえた。そのまま、入るようにキーファは言う。そして、同じ口調で続けた。
「捕虜という立場でいいのなら、戻るがいい。軍の訓練については、ラシッドと話し合え」
 ザッハがするりと入ってきて、頭を下げた。リーフィウはその姿に、はっとする。
「ザッハ……」
「リーフィウ様のお着替えも一応持ってきましたが」
 ザッハは船からルクに降りたときのように、リーフィウに化けていた。どう見ても本物とは違う気がするのに、たおやかな仕草や殺気を消したザッハは、とても兵のようには見えなかった。
「どっちでも構わないだろう。好きな方でいい」
 キーファは目で服をリーフィウに渡すように示した。
「ここにいるのなら、ルクの民の中に紛れていて欲しい。我々と民の関係は決して良いものではない。申し訳ないが、間に上手く入って貰いたい」
 リーフィウはわかりました、と頷いた。それから、
「先ほど王が言ったように、お願いします」
 そう言って扉に向かった。扉を開けると、ハリーファが立っていた。
「ご案内します」
「神出鬼没なのですね、ハリーファ様」
 リーフィウがくすくすと笑った。そして、ザッハに貰った衣服を持ったまま、すっと優雅に腰を落として「これからよろしくお願い致します」と挨拶した。
 それだけで、ハリーファは理解したようだった。目礼で答える。
 二人は廊下を歩き出した。ごく僅か後ろを歩くハリーファは、足音も立てない。すぐ後ろにいるのに、絶対にぶつかることもないと気付いたリーフィウは、わざと歩調を緩めたりしてみたが、やはりハリーファは極僅かな距離を保っているようだった。
 しばらくそんな遊びをして、リーフィウは着替えにと入った部屋でハリーファを振り返った。他人がいても躊躇なく服を脱ぎ始める辺り、彼は確かに王家の人間なのだと思わせた。
「ハリーファ様、私にもあなたのようにできるでしょか」
「私のように、とは?」
「神出鬼没になってみたり、足音を消して歩いてみたり」
 先刻から、リーフィウの雰囲気が変わったとハリーファは思っていた。ふふふ、と笑うリーフィウに、それを確信する。
「リーフィウ様には、必要ないことかと」
「そうですか?」
 何が変わったのかと言われれば、雰囲気というしかない。いや、目か、とハリーファは顔を伏せたままで、先刻王の寝室から出てきたときに見たリーフィウの目を思い出してみた。透明で、澄んだ目に、何か強い光のようなものがあった。
 それは、力強い、未来を見据えている目だが、同時に胸を衝く目でもある。何か覚悟を決めた目だ。
 ルクの平民の、ごく目立たない衣装に着替えて、二人は階下に向かった。先日民に向かっていったときのような、思い詰めたような表情ではない。
 人は、生きていくために強くなければならない。
 ハリーファはずっとそう教わってきた。些細なことだとしても、立ち向かなければならない壁というものは、必ず存在するのだと。だから、その壁を乗り越える強さが必要なのだと。
 それは、親の庇護下にある子供時代から、大人になり、老いて死んでいくまで、生きている限り必要なものなのだと父は言った。
 だが、それは孤独な強さではいけない。
 支えが、必要なのだ。
 一人の強さは、本物ではない。
 だからこそ、ハリーファはキーファ王を少しでも支えられたらと思ったのだ。
 リーフィウは、確実に強さを手に入れていっている。だが。
 一体、誰が彼を支えるのか。
 今は目の前で、凛と一人立っている、この少年は。
 一体、誰に支えられるのだ。



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