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モドル 5-05 * 02
遠景涙恋
第六章 夜香
01
「ザッハは、リーフィウ殿と思われている限り、殺されないだろう」
その沈黙を破ったのは、イル・ハムーンだった。
「ヤーミンは、リーフィウ殿のことは……?」
「私はほとんど外交に出ていません。ヤーミン側で私の今の顔を知るものはほとんどいないものと思います」
ヤーミン本国に行かない限り、リーフィウはナーヴァに会うことはない。小国ルクを元首自ら訪れることはなかったからだ。何度か外交官に会ったことはあったが、遠い場所で礼をするのみで、話したこともない。たぶん、はっきりした顔などわかっていないはずだった。今になって、自分の外交への消極性が助けになるとは、なんとも皮肉だとリーフィウは思った。
「それならば、上手く騙されてくれている可能性が高い。気付かれないうちに、助け出さなくてはならない。時間がないといったのは、あなたじゃなかったか、キーファ王」
リーフィウは顔を上げて、イル・ハムーンを見た。彼とはほとんど話をしたことがなかったが、一番年上というだけあって、いつも落ち着いている印象が合った。
「ヤーミンが陣営を張っているのは、どの辺りなのですか」
「歓楽街辺りだ。あの辺りは、大きな家が多いからな」
リーフィウは、じっと何かを考えていた。それから、キーファに向かって、お見せしたいものがあります、と言った。
キーファが頷いて、リーフィウは立ち上がった。フェイを送って帰ってきていたシャリスもまた立ち上がり、リーフィウと共に部屋をでた。
部屋を出たところで、シャリスがリーフィウを呼び止め、頬の傷を見た。胸元から小壜が出てきて、リーフィウは思わずくすりと笑ってしまった。
「シャリス様、いつも薬を持ち歩いていらっしゃるのですね」
「ええ。おかしなことですが」
「おかしなこと?」
ルクの民たちにも分け隔てなく治療を施してくれる第二部隊は、ルク民のなかでも別格扱いをされるほど、信頼され始めている。実際に病気や怪我が治った人間は、彼らのことを決して悪くは言わなかった。元々、ルクの中では医者というのは尊敬される人間だったのだ。
「ええ。治療班とは言われていますが……私たちも兵士です。戦いが本来の仕事。戦えば、傷つける。それなのに、私たちは傷ついた人間を治すことにも心を注ぐ……おかしなことでしょう?」
シャリスは、民たちが神の使いの微笑だ、と言う柔らかい微笑を浮かべていた。手は的確に素早く、頬の傷を消毒し、傷薬を塗っていた。
「はい、大丈夫でしょう。さすが手入れのいい王の剣だ。綺麗な切り口ですし、傷も浅いですから、痕は残りません」
傷のことはどちらでも良かったが、リーフィウはありがとうございます、と頭を下げた。
それから、リーフィウはシャリスを前に、そしてどこからか現れたハリーファを後ろに、地下へと向かった。ここには、たぶん、いまだカハラム軍にも知られていないだろう、部屋がある。
「シャリス様は、もともとお医者様として国王軍に入られたのでしょうか」
先刻の、柔らかいながら自嘲にも見えた笑みを思い出して、廊下を歩きながらリーフィウは尋ねた。シャリスは前を警戒したまま、首を傾げて見せた。
「医学の勉強は止めるつもりはありませんでしたが……兵として入ったのだと思っていますが」
「あの……なぜ、医学の道ではなく兵を?」
不躾ですね、申し訳ありません、とリーフィウが後ろで頭を下げた。シャリスには見えていないかも知れないが、横顔は微笑んでいた。
「父が――兵だったのです。私の家は代々の騎士で、私もそれ以外の道はありませんでした」
だが、それに反発して、シャリスは代々仕える師団ではなく国王軍に入り、結局は家族と絶縁状態になったのだが、そこまでは話すつもりはなかった。
「ですが、私が医学を学んでいると知ったキーファ王が、勝手に医療部隊を作ってしまったのです」
シャリスはおかしそうに、くすくすと笑った。戦いを今すぐなくすことは出来ない。だから、最もけが人が多いだろう軍の中で、その腕を生かさないか、そう言ったのはキーファ王だった。そして、シャリスを副部隊長、隊長にと押していき、今では第二部隊は医学の習得が必須条件になっている。もともとその知識があるものもいれば、入ってから習得するものと様々だが、他の隊の兵よりはずっと医学に詳しい者ばかりだ。
「……兵をやめて、お医者様になろうとは?」
「今は思っておりません。軍の中にも私にはたくさんの患者がいる」
戦いの中では、傷ついたものは満足に治療など受けられないし、病気の者も放って置かれることは良くある。医者にさえ見せれば治るだろうに、戦闘中は陣営から人を出すのは得策ではないことから、そのまま障害を負ったり、死んでいってしまうものがいる。
自分を必要とする人間がいる。それだけで、シャリスには十分だった。そして、王の言う通り、争いはそうそう簡単にはなくならない。
「そこを入ってください」
そうリーフィウが言って指差したのは、小さな侍女の部屋だった。シャリスとハリーファで辺りをさっと見て、するりとその中に入る。
そこはもともとは、侍女部屋の様相をした隠し部屋への入り口だった。部屋の中は変わっていない。小さなベッドと小さな机。それと少し大きめの戸棚が合った。今でも使っている人間はいないのかもしれない。
リーフィウは戸棚に近づくと、その引出しを下から外していった。四つ外したところで、中を覗き込むように頭を入れる。そして、手探りで二つの小さな木片を探った。それは普段は床と同じように平らになっているが、片側を押すとぱちりともう片側が上に突き出す。それを持って床を引き上げると、ぱっかりと、空間が現れる。
後ろで、二人の息を飲むような音がした。やはり、知られていなかったのだろう。
「この下に、地下に繋がる階段があります。一緒に降りますか?」
振り返ると、二人は視線をかわし、シャリスが頷いた。ハリーファはここで見張り番をすることになった。
「こんなところがあるとは……」
戸棚にあった灯りを持って、リーフィウから下に降りた。下から灯りに照らしてもらって五段ほどの階段を下りたシャリスが、辺りを見渡しながら呟いた。
「特に財宝とかがあるわけじゃないんですけれどね」
リーフィウがそう笑う。だが、ルクにとって貴重なものがあるには違いなかった。
リーフィウは幼い頃からここに来るのが好きで、何度も通った。慣れた手つきで灯りを壁際に移していく。ここに来て、初めて自分は帰ってきたと思った。
扉を三つほど通り過ぎたところで、リーフィウは冷たい石の壁を触った。明り取りと隣の扉の位置を確認して、その石の数を数える。下から十個目、それから右に三つ。それを押すと、隣の石がぐっと前に出て、その石は中に入っていく。そして、空いた空間の下側の石を持ち上げると、そこに鍵がある。
「随分凝った仕掛けですね」
シャリスの感心した声がして、リーフィウはくすくすと笑った。
「昔、こう言うものが好きな技師がいたそうです。この地下は、何かを隠すことより、この場所そのものを作ることが目的だったようですよ」
リーフィウは鍵を持って、隣の扉を開けた。仕掛けはそれで終わらず、その部屋の中の戸棚をさらにくるりと回転させて、ようやくリーフィウの目的の場所に着いた。
「ここは……」
まるで地下に思えないほどの、広大な空間が広がっていた。最初は真っ暗で広さもわからなかったが、灯りを持ったリーフィウに続いていくと、いくつもの本棚があるのがわかった。
「地下書庫なのです。ルクの歴史書や重要な書類を集めた」
すたすたと歩くリーフィウは、とても慣れているようだった。目的のものがどこにあるのかわかっているらしく、探している様子もない。
「ここだったかな」
ふと立ち止まって、リーフィウは左側に並ぶ本棚の列に入っていった。四五歩行ったところで、シャリスに灯りを持ってくれないかと頼む。
そこは横に長い棚で、書籍の形態をしていない、巻かれた紙が整理されていた。その二段目の引出しを出して、リーフィウはその中の一つを取った。その場で少しだけ中を確認し、ありました、とそれを抱えた。
「本当に、凄い量の本ですね」
今度はシャリスが灯りを持って、先にたって歩いた。湖宮にある書庫と同じ位の広さがある。
「もしや、ルクの秘薬に関するものも、こちらにあるのでしょうか……?」
シャリスが呟いて、リーフィウは「この人は本当に医学のことで頭が一杯なのだ」とおかしくなった。
「あるはずですよ。今度ご覧になりますか?」
是非、とシャリスが勢い良く振り向いて、その顔が見たことがない、子供のような顔をしていて、リーフィウはとうとう笑ってしまった。
「すみません。シャリス様、本当に医学が好きなのだと」
「いえ、こちらこそ……あの、ルクの秘薬は話で聞いていて、以前から興味があって……薬として飲むだけではなく、食事としての薬もあると」
「ええ。薬というより、食事の組み合わせのようなものだと思うのですが。それを食べていれば、病気にならない身体作りができる、とかそんな感じです」
秘薬とは言っているが、美容に関するものから夜の営みに関することまで、幅広いのが特徴と言えば特徴なのだと医師は言っていたことがある。
二人が地上の部屋に帰ると、ハリーファが暇そうに待っていた。二人が出てくると、床と戸棚を元に戻した。
それから、王の部屋に急いだ。時間はわからないが、もう夜中はとうに過ぎているはずだった。
リーフィウが持ってきたのは、首都ルクの地下の地図だった。
「地下道、だと……?」
さすがのキーファも驚いた様子で、目の前に広げられたその地図を見た。
「はい。曽祖父の代の技師が作ったと聞きました」
この地下道のことは、ルクの王家の中でも王やその地位の継承権があるものにのみ伝えられたもので、ひた隠しに隠されてきたものだった。日の届かないその場所は、人目につかないからこそ危険で、首都をかなり広い範囲で走っているため、安全面も考えて隠されていた。作ったのはやはりあの地下室を作った技師で、元々は干ばつに襲われた際の水の確保と補給を目的としていた。だが、その存在を知ったものが毒を流したことがあり――地下水道は建設途中ながら閉鎖されたのだ。幸い、以来ひどい干ばつに襲われたことはない。
「そんなものがあったとは……」
「大通りの辺りならば、この道は完全に通っています。狭い道ですが、人が通れないわけではない」
「だが、地上のどこに通じている?」
「古い、井戸に。その毒事件のときに封鎖されましたが、潰してはいないはずです。ルクでは、水に関するものは崇める対象になっていますから、祠として祭られていることが多いのです。もちろん、蓋はされていますが、出るのにそれほど困難はないと思います」
実際そう言った井戸をいくつか知っているが、かなり重い石で蓋をされていても、なんとかなるのではないかとリーフィウは思っていた。
「あの古い井戸か……」
キーファが呟いて、リーフィウは知っているのかと驚いた。
「確かに祠のように祭ってあったな。何を祭っているのか不思議だったが、地下に繋がる井戸だったのか……」
井戸と地下水道が繋がっていることは、当時も住民達にはあまり知られていなかった。建設に関わった人間はいたはずだが、固く口止めをされていた。当時は、王位争いが激しい時代だったからだとリーフィウは聞いていた。
今では、それはすっかり井戸の形をした祠として認識されており、本当の井戸だと思っている住民はいなかった。
「蓋はかなり厚い石だったが……」
キーファが思い出しながら考えている。だが、リーフィウはその細い指をすっと地図上に滑らせた。
「この建物裏、もしくはこの小さな家の裏の井戸ならば、蓋はそれほど重くないはずです。この辺りの家は一年に一度供物を捧げる習慣があるところで、蓋をずらさなければなりませんから」
今は歓楽街となっているその通りは、昔は香水を作っている工房が多く、清らかな水は不可欠と、とくに水の神を大切にしていたところだった。そして、香り高い香水が作れるようにと、その年最初に咲いたレアの花を一輪、井戸に投げる。
「西華楼の裏か。可能性は高い」
イル・ハムーンがリーフィウの指した建物の位置を確かめて、そう言った。西華楼は歓楽街の中でも大きな建物であり、ヤーミン本司令部が置かれている場所だった。
「うまく地下まで逃げれば、勝算は高い。リシュを呼ぼう」
ラシッドの直属の部下の名に、キーファも頷いた。それから、イスファも出す、と言った。目の前で進む話に、リーフィウはすっと息を吸って口を開いた。
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