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モドル 5-05 01 * 03
遠景涙恋
第六章 夜香
02
「道案内は、私にお任せ頂けませんか」
その言葉に、キーファが鋭い目をした。それから、駄目だ、と静かに首を振った。
「ですが、この道のことは私が一番わかっております。建設途中だったために、行き止まりも多い複雑な道です」
「リシュとイスファなら大丈夫だ」
キーファの断固とした物言いに、リーフィウは何も言えなくなってしまった。彼ら王付きの兵たちの能力の高さは、リーフィウも身を持って体験している。
「どうか、私たちにお任せ頂けませんか。あなたに何かあれば、私たちも優秀な指導者である王を失うことになる」
そう言ったのはラシッドだった。それをぎっと恐ろしいほどの目でキーファは睨みつけたが、ラシッドは知らぬ振りをしている。
「ラシッド殿は、本当に、ときどき命知らずな発言をしますね」
呆れたように言ったのはシャリスで、ラシッドはそれには首を竦めて見せた。
「いや、根が正直なだけなのだろう」
「それは誉めてくださっているのでしょうか、イル・ハムーン隊長?」
「もちろんだ。正直なことはいいことだ」
くすくすと笑いが洩れそうなほどの雰囲気に、リーフィウは呆気に取られた。この人たちは、なんて余裕があるのだ。
「ラシッド、リシュを呼んでこい。ついでにイスファも」
キーファは不機嫌な顔と声でそう言い放ち、手にしていたパナ酒の壜を煽った。ラシッドは「失礼しました」と少しも悪気がなさそうな声で言う。
「明日の夜だ。それまでに準備をしろ」
すっと、三人の背筋が伸びた。答えた声は、先刻とは打って変わって、はっきりと明快な、緊張を孕んだ声だった。
翌日になってだが、昨晩笑っていたことを皆後悔することになった。
リーフィウ様、というフェイの切羽詰ったような声がしたとき、リーフィウは励ましのために民たちに声を掛けていた。外では戦闘が始まったらしく、大きな音がしていたのだ。それを怖いと怯える子供たちを抱き締めたりあやしたりするのは、リーフィウの日課のようになっていた。
「フェイ?何か……」
そこまで言って、外が急に静まり返ったことにリーフィウは気付いた。はっと、顔を城壁の方に向ける。
「ヤーミンが、ザッハ殿を……」
耳元で囁かれた言葉に、リーフィウは走り出した。フェイが慌てて後を追う。部屋から勝手に出ることは許されていない。だが、扉の兵たちはリーフィウの顔を知っていて、兵の一人を必ず伴うことを条件に、リーフィウは外に出ることができた。フェイは少しばかり拗れたが、リーフィウはどんどんと城壁が見える廊下に走っていく。そこに、シャリスが走ってきた。
「ザッハ……」
シャリスがリーフィウのところまで辿り着いた時には、遅かった。この光景を見せるべきではないと、急いだのだが。
遠く、白いものが宙に揺れていた。目を凝らすと、赤い部分も見えた。
「ザッハ――」
「いけません」
窓に向かって突き進みそうな勢いのリーフィウを、シャリスが引き摺り下ろすようにした。
「ここであなたが姿を現したら、ザッハはそれこそ命がない」
「……生きて?」
「はい。だいぶ痛めつけられているようですが、命は。王が攻撃を止めましたので、ヤーミンは効果の程を確信しているところでしょう。これで命が取られることはない」
だが、あんな人形のように縛られて吊られ、ぐったりと動きもせずに、ただ揺れているのだ。
リーフィウの唇が震えた。それでも目だけは真っ直ぐに、そのザッハの姿を捉えていた。
止んだ攻撃に満足したのか、吊られていたザッハが遠ざかっていった。下ろされるのだろう。だが、ほっとできるものではなかった。
「なんて、ことを……」
「王は、どうするのです?」
警備を振り切ってついてきたフェイが、シャリスに尋ねた。シャリスはちらりとフェイを見て、交渉に応じるのでしょう、と言った。腕の中で震えているリーフィウを、ぎゅっと抱き締める。
「今は時間が欲しい。明日になれば、きっと形勢は逆転する」
リーフィウがシャリスを見た。シャリスが、頷く。
窓の外では、交渉の末に一時休戦の合図がなされ、兵たちが戻ってきていた。リーフィウは、もう一度ザッハが揺れていた宙を見て、それからすっとシャリスから身を引いた。そして、蒼白な顔のまま、ぎゅっと唇を噛んだ。
「シャリス様、少しの間お貸しください」
何を思ったのか、リーフィウはそう言って、シャリスの上着に手をかけた。簡易の軍服は、鎖骨辺りの釦と脇の紐を取ればすぐに着脱できる。
「リーフィウ様?」
あまりに真剣で狂気にさえ見えるリーフィウに、シャリスはされるがままだった。リーフィウは自分の衣装をばっと脱いで、シャリスのそれと交換だとばかりに、呆然としているシャリスの手に渡した。自分はさっさとその上着を着ると、すっと立って走り出した。腰下まであるカハラム国王軍の軍服を着ていれば、窓から見えても兵に見えると思ったのだ。
「リーフィウ様っ」
シャリスが慌てて追いかけようとしたが、すぐにハリーファが付いて行くのがわかって、そのまま服を手にため息を吐いた。
向かった場所は見当がつく。だが、あの思い詰めたようなリーフィウの目が、心配で堪らなかった。
上着だけカハラム国王軍の軍服という格好のリーフィウに、戦闘帰りの兵たちは驚いていたが、ハリーファがいることで誰もが口を噤んでいた。ハリーファの耳は王の耳だ。
ばたんっと音を立てて扉を開けたときには、リーフィウはひどく荒い息をしていた。キーファは突然のことに殺気立ったが、入ってきたのがリーフィウだとわかり、すぐにそれを収めた。それから、背後のハリーファに視線で入ってくるなと命じた。
リーフィウが先刻のザッハの様子を見たか聞いたかしたことは明らかだった。
「ザッハは……」
掴みかからんばかりの勢いで、リーフィウがキーファに近寄った。キーファは刀を卓上に置き、腕の甲冑を外した。身体には甲冑をつけないが、腕には剣を受け止めるように部分的な保護具をつけている。いつもは銀色に磨かれたそれは、今は赤黒い血がついていた。
「生きている」
「でもっ。あんなに傷つけられて……」
がちゃがちゃと音をさせて保護具を長卓の上に置くと、キーファはべっとりと血に塗れた滑り止めの布を外し始めた。
「ヤーミンの要求は、この宮殿の明渡しだ。期限は明日まで。今夜――今夜が勝負だ」
「でも、もしっ」
がしっと胸元の布を捕まれて、キーファは血に塗れた布を床にはらりと落とした。目の前のリーフィウは目を真っ赤にして、唇を震わせていた。
「失敗はしない。明日の朝には、形勢が逆転する」
「私が……私が、出て行けば……」
「駄目だ。却ってザッハの命が危なくなる」
「あれは、でも、あんな……」
ぶるぶると手を震わせて、リーフィウは必死に涙を耐えて、脈絡のない言葉を吐いた。何度も頭を横に振って、あんな、血だらけで、と荒い呼吸を繰り返した。
「あれは、本当は私のはずだった。なぜ、ザッハがあんな目に……っ」
「リーフィウ」
「あれは、私が受けるべき傷だ。あれはっ……」
訴えるように上げたリーフィウの目に、涙が浮かんでいた。それが見る間に溢れ出て、白い頬を流れ落ちていった。
――あれは、ザッハが受けるべき傷ではなかった。なぜ、いつでも自分は守られているのか。何も、出来ないというのに。
なぜ、周りの人間ばかりが傷ついていくのか。
うっと声を詰まらせて、リーフィウは泣いた。ぎゅっとキーファの胸元の服を掴んだまま、声も上げずに、だが身体を震わせていた。
キーファはその痛々しい姿のリーフィウの髪を、そっと撫でようとした。だが、手にはまだ血がついていて、直前でその手を止めた。
「リシュとイスファは、優秀な兵だ。敵陣にそっと潜り込むことも、何度もしている。あの二人なら、必ずザッハを取り返してくる」
キーファの声には迷いがない。それはもう、決まったことなのだと言うような、自信に満ち溢れた声だった。
リーフィウは、泣き濡れた顔をゆっくりと上げた。キーファが僅かに微笑むような顔をしていた。
「約束する。明日には、ザッハは戻ってくると」
リーフィウはただ、頷くことしか出来なかった。その目からまた、ぽろりと涙が零れ落ちた。
「あーあ。泣かしている」
扉の外では、ラシッドとイル・ハムーンが今日の戦況報告を持って、シャリスが医療道具を持って、そしてハリーファはそれぞれに入るなといわれた旨を報告して、待っていた。シャリスの言葉に、他の三人は顔を見合わせて肩を竦めたり首を振ったりした。
「まあ、いいことでもあるよ。リーフィウ殿は捕まって以来、泣いていない」
「え?一度も?」
少なくとも他人の前ではとラシッドが頷くと、シャリスは眉根を寄せて首を振った。
「それはよくない傾向ですね」
「まだ子供なのになあ」
イル・ハムーンにしてみれば、若くして結婚をすれば、リーフィウ位の子供がいてもおかしくない。その上華奢で小柄なリーフィウは、体型だけ見ればまだほんの子供とも言えた。
「かなり無理してますよね。本当はもっとずっと明るくて元気な人なのでしょうに」
それにはラシッドもハリーファも頷いた。少し気を許して話してくれるときには、その素の部分が良く顔を覗かせる。好奇心旺盛で、わりと悪戯そうな目をしている。それを三人は知っていた。
「大体、あの二人は一体どうなってるんだ?」
だが、イル・ハムーンの言葉には、誰も答えられなかった。多分、二人に最も近いラシッドでさえ、どうにも掴みずらい関係なのだ。
「湖宮では毎晩一緒に寝てたんだろう?あの、キーファ王が」
「まあ、それは他への牽制もありましたからね」
「それにしても、だ。王は他人がいると眠れない人間じゃないか。夜番の兵を立てるのでさえ、苦労するっていうのに。それに、ルク攻略の時には、最初から捕虜は自分が貰い受けると約束していたんだろう?」
その代わり、ルクの中のことについては何も言えなくなってしまったのだが。それは一種の執着といってよく、キーファを良く知る隊長たちにしてみれば、確かに珍しいことだと思えた。
「うーん。まあ、リーフィウ殿の気持ちがどうかはわからないですからね。少なくとも、私たちは敵ですし。あれで王は不器用で優しいですから、それだけで身動き取れないんじゃないんですか?」
シャリスの呟きに、さもありなん、とラシッドたちは苦笑した。だが、ハリーファは何か考えるような顔をした。
「ですが、リーフィウ様は戻るつもりでいらっしゃると思われますが」
「戻る?」
「ええ。我々とカハラムに」
え?と全員が顔を合わせたところで、中からリーフィウの「キーファ王」と言う鋭い叫び声がした。
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