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遠景涙恋
第五章 残光


05
 リーフィウの振りをしたザッハを連れ去ったのが、カハラム軍ではないとわかったのは、その夜のことだった。リーフィウともう一人のルクの護衛、フェイは、あのあとすぐに予定通りに第二部隊の部隊長の部屋に行き、ことの次第を告げた。シャリスはひどく鋭い目つきで、わかったと言って、すぐに王に使いを出した。
 カハラム師団の中には、国王軍のスパイ兵が紛れている。ルクの駐屯軍にも派遣されていて、その兵の報告によると、カハラム師団の方でリーフィウを手に入れた様子はない、ということだった。
 様子を詳しく知るためと、リーフィウとフェイは臨時の司令室にいた。夜だというのに少しも穏やかではない空気が流れていて、誰もかれも睡眠というものを忘れたのではないかと思えるような雰囲気だった。
「師団ではないというのなら、一体……」
 リーフィウの呟きに、隣のフェイの身体がはっと揺れた。キーファたちはそれを見逃さず、ラシッドがすっとその目の前に立って尋問を始めた。
 だが、彼も元とは言え兵士だ。確信もないまま話せることではなく、口を閉ざした。
「ラシッド、どけ」
 キーファがそう言ったと同時にしゅっと鮮やかなほどの音がして、フェイの前に鋭い剣の切っ先が突きつけられた。ラシッドが素早く身を避けなければ、腕の一本ぐらい落としていたのではないかと思えるほどの鋭さだった。
 はっと息を飲んだのは、フェイだけではなく斜め前にいたリーフィウもだった。すぐ横で、きらりと剣が光った。
「おまえ達がルク兵だというのなら、あいつは俺の兵だ。俺には話を聞く権利がある。話してもらおうか」
 それでも迷っているフェイに、キーファは「それとも」とにやりと笑いかけた。すっと、剣が横に動いた。
「話しやすくしてやろうか」
 今や、剣の刃はリーフィウのすぐ横にあった。少しでも動けば、切れてしまいそうだ。
「おやめ、下さい」
 フェイの苦しそうな声がして、リーフィウはくっと唇を噛んだ。
 ――いつでも自分は、他人の弱みにしかならないのか。
「キーファ王」
 顔を真っ直ぐに上げたリーフィウの頬に、剣の刃が当たった。すっと一筋、赤くなる。キーファは目を眇めて、リーフィウを睨んだ。
「リーフィウ様っ」
 フェイの叫びには答えず、リーフィウは真っ直ぐ前を見続けた。
「私に、お任せいただけませんか」
「時間が惜しい」
「わかっております」
 リーフィウの引きそうにない声に、キーファは少しの間その顔を睨んでいたが、すっと剣を収めて、五分やろう、と言った。
「五分だ。それで結論を出せ」
 リーフィウが頷くと、キーファは隣の小さな侍女用の部屋をつかえとちらりと視線で促した。リーフィウはフェイの肩を掴んで、その部屋に向かった。
「リーフィウ様、血が……」
「大したことはない。後にもならない僅かなものだ」
 ぐっと頬を拭う。手に血がついたが、流れ落ちてもいないはずだ。
「とにかく話だ」
 ばたんと侍女部屋を閉めると、リーフィウはフェイを反対側の壁側に立たせた。
「何を知っているんだ」
「リーフィウ様……」
「ザッハは、私の代わりに連れ去られた。彼は、ルクの民ではない。わかっているだろう」
 それでも、フェイは迷った。リーフィウは情に篤く、そして、穢れていない。ルクの民たちが何より惹かれるのは、その気高いまでの魂だった。それを、曇らせたくない。
「その話をキーファ王にするかどうかは、私が判断する。フェイ」
 そして、そんなリーフィウだからこそ、自分の代わりに誰かが連れ去られたことに耐えられないのだと、フェイはわかっていた。
「連れ去ったのは、ヤーミンかも知れません」
「馬鹿な……確かに、彼らには私を狙う動機がある。だが、こんな敵陣の真ん中で……」
 フェイは顔を伏せた。知らず、唇を舐めて潤した。
「手引きをしたものがいたら……?」
 それに、リーフィウは絶句した。その暗い声と、フェイが言い渋った理由に思い当たって。
「まさか、ルクの誰かが……」
「あのとき、シャーキルは何故、進んで自分が一緒に行くと言ったのでしょう?私たちの第一義目的はリーフィウ様を守ることです。それなのに、私に相談もなく、彼は向こうに着いて行くことを決めた。それに、あの男たちは、なぜあのとき、我々があの廊下を通ると知っていたのでしょう。ザッハ殿の提案で、私たちは、決して同じ時間に外に出ることはなかった」
 確かに、偶然に居合わせたにしてはおかしい。辛抱強く待っていたのかもしれないが、あの廊下はまともに隠れる場所がない。その日一日現れるかどうかもわからない相手を待ち伏せる場所ではなかった。
 だが、護衛のシャーキルにはわかる。その日の朝に、何時ごろに出るか、リーフィウとザッハを交えて話をするからだ。
「それに、シャーキルは革命派の一人です」
 聞きなれない言葉に、リーフィウは眉根を寄せた。
「カハラム反対派、とも言えますね。今こそもう一度武器を手にして、戦おうと言っている奴らです。最近では、革命派も枝分かれをしてきて、ヤーミンと手を組んだという噂のあるところもあります」
 今回のヤーミンの攻撃も、ルクの民に手を引かれたのかもしれない――。
 ラシッドも、そんなことを言っていたことを、リーフィウは今になって思い出した。信じたくなくて、馬鹿なと放って置いた自分を、怒鳴りつけたいくらいだった。
 革命派のことも、リーフィウは知らなかった。
 本当に、自分は一体、ルクに何が出来ているというのだろう。
 カハラムの民であるザッハを代わりにして――。
 そこでふと、リーフィウはことの真実に気付いた。ザッハが身代わりだったことなど、シャーキルは知っているはずだ。それなのに、ザッハを連れて行ったというのは。
「彼らの目的は、最初から私ではなかった……?」
 小さな呟きに、フェイがどこか痛みを堪えるように頷いた。
「たぶん、ヤーミンにはリーフィウ様だと言っているでしょう。本物は、絶対に渡せない。彼らが革命派だとしても、リーフィウ様を慕っていることは間違いありません。だから、身代わりというのは渡りに船だった。まして、カハラムの人間なのだとしたら反対派の彼らにとっても、都合がいい。ささやかな、復讐が果たせますから――」
 ささやかどころではない。一部隊の隊長なのだ。だが、リーフィウ以外には、誰もザッハの身分を知っているものはいなかった。年はリーフィウと大して変わらず、身代わりをしているのだから、一部隊を任されている人間だとは、誰も思っていないようだった。
 リーフィウは目の前が真っ暗になって、息さえまともに出来なかった。
 そんなことが、あっていいのか。
 ルクを守ろうとした自分。自分を守ろうとしたザッハ。そして、ルクとリーフィウを、守ろうとした革命派。
 ことの始まりは、自分という存在だ。何も出来ないのに、元王子という肩書きだけ持っている――自分。
「リーフィウ様……」
 フェイが何か言いかけたとき、部屋の小さな扉がかちゃりと開いた。五分だ、とラシッドが顔を出した。
「リーフィウ殿?」
 リーフィウのあまりの顔色に、ラシッドが目を眇めた。だが、リーフィウはふらりと立ち上がると、ラシッドとフェイのどちらの手も断って、一人でキーファの前に歩いていった。
「結論は出たか」
 キーファもリーフィウの死人のような顔に微かに眉根を寄せた。リーフィウは、のろりと顔を上げた。
 泣くな、とリーフィウは自分に言い聞かせた。
 今は、泣くときではない。
 ザッハを、救い出さなければ。
「フェイを、民たちのところに帰して頂けませんか。それと、彼には、何もしないと誓っていただきたい」
「わかった」
 もとより、直接関わっていなければ傷つけるつもりなどなかった。
 キーファが頷いて、シャリスがフェイを送り届けるためにその肩を叩いた。フェイは、リーフィウが気になっているのだろう、一瞬躊躇したが、リーフィウが自ら言ったことなので、仕方なしに部屋を出て行った。
 ぱたんっと音がして、リーフィウは俯いて閉じていた目を開けた。どうしたらいいのだろうと、そればかり考えていた。
 カハラム国王軍を、リーフィウは今では高く買っている。だからこそ、その中で訓練を積みたいと思った。だが、裏切り者だとしても、ルクの民をカハラムに渡すことは出来なかった。
「パナ酒を持ってこい……なんて顔色をしてる」
 ふいにキーファが言って、ラシッドが戸棚からパナ酒を取り出した。小さな杯にそれを注ぐと、ラシッドはそっとリーフィウにそれを渡した。
「本当に、今にも死にそうな顔をしている」
 泣いてはいけない。
 リーフィウは、もう一度そう心の中で呟いて、そのパナ酒を一息に煽った。
 なぜ、カハラムのこの男たちは優しいのだ。
 なぜ、それが伝わらないのだ。
「ザッハは、ヤーミンに囚われたと思われます」
 パナ酒が胃の中を焼いている間に、リーフィウは言った。
「ヤーミンが、この戦闘の最中に、敵陣に堂々とやってきたと?」
 同じことを思ったのだ。リーフィウが不思議に思って、キーファが不審に思わないはずがなかった。
「はい。カハラム師団の、衣装を着て」
 リーフィウは真っ直ぐにキーファを見ていた。
「そして、偶然あなたが出てくるところにいたと?」
 はい、とリーフィウは頷いた。キーファはわかっている。それがどれだけ不自然なことなのか、気付いている。
 内部に、手引きの者がない限り。
 ふっとキーファが笑った。すたすたと歩いて、戸棚に辿り着くと、そこから酒瓶を出して、そのまま煽った。
「偶然だと?敵陣の真ん中で、偶然を待っていたと?」
 くくくっと嫌な笑いをして、キーファは酒瓶を持ったまま、元の場所にどさりと坐った。
「自分の兵が囚われたんだ。そんなことで騙されるほど、俺はお人好しじゃない」
 酔っているようにふらりと揺れた頭がぴたりと止まって、リーフィウを見た。
 それは、震え上がるほど、恐ろしい目だった。鬼神と言われる、キーファを知った気がした。
「どうか」
 リーフィウはそれでも、じっとその目から逸らさずに、震えそうになる声をなんとか抑えて、言った。
「どうか、そのことは私にお任せいただけませんか」
「俺はそれほどお人好しでもなければ、寛大でもないと言った」
「はい。もちろん、それなりの責任は取らせて頂きます」
 坐ったまま手をついて、深々とリーフィウは頭を下げた。
 たぶん、キーファ相手には一度もしたことがないことだった。
「ザッハ殿は、私にとても良くしてくださいます。私とて、失いたくはない」
 長い沈黙があった。
 戦闘中は、誰もが警戒して、夜は殊更静かだった。ただ、不審な人物が通ったらすぐにわかるように、宮殿の外も城壁の近くも、煌々と火が灯っていた。近くで耳を澄ませれば、その油の燃える音が聞こえそうだった。


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