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モドル 6-06 * 02
遠景涙恋
第七章 逍遥旅人
01
三週間の船旅は、リーフィウにとっては相変わらず快適なものだった。今回はザッハが傍に居るわけではなかったが、変わりにハリーファが姿を見せていることが多かった。リーフィウは、いまだザッハに会っていない。怪我が落ち着くまで待って欲しいと、言われていた。それほどひどい怪我なのだと思うと胸が痛んだが、自分の所為だと思うと何も言えなかった。
「キーファ王が、三歳のときに即位したことは、知っていますね?」
あの日、宮殿の中のラシッドの部屋で、自らお茶を淹れながら、ラシッドはそう聞いてきた。それに、リーフィウは今まで聞いた話を出来る限り思い出しながら話した。
その話に、わりと曖昧な輪郭像ですね、と言ったのはラシッドだ。それにはリーフィウも頷いた。だからこそ、キーファ王という人物がどうもわからないのだ。自分の、知っている範囲のことを付け足してみても。
「では、他国でどう言われているのか、知っていますか?」
それには、戸惑いつつ頷いた。
残忍で享楽的な、宰相任せの王。戦にだけは情熱を燃やす、鬼神。
政治的手腕は、一切宰相任せにしている点で、カハラム王は愚王の呼称さえ貰っていた。だが、戦いの腕だけは確かだから、怒らせるのは決して得策ではない。
キーファの評価は、そう言うものだった。
それをしきりに、惜しいと言っていたのは、ルク前王だった。彼は決して無能ではないだろうに、とカハラム王の話になるとため息を付いていた。
「残念ながら、現状では当たらずも遠からず……残忍ではありませんが、宰相任せと言う点は事実だけを見れば当たっていますね」
ラシッドはゆるゆると首を振った。リーフィウはお茶を一口飲んでから、事実だけとは、と聞いた。
「確かに、国内から外交まで、カハラムの実権を握っているのは宰相のタシュラルです。ですが、別に王が任せきっているわけではない。そうではなく、奪われていると言ったほうがいいでしょう」
「奪われている……」
「そうです。そもそも、三つの子供に政治が出来るはずがない。だからこそ宰相が手伝ったわけですが……そのまま、彼に何もかも握られてしまったのですよ。彼には、幼い王を助けようと言うつもりなど、なかった」
リーフィウは、眉根を寄せてラシッドを見た。カハラム前王は、良き王だったと聞いている。その側近が、タシュラルだったのだろうか。
その疑問を聞くと、ラシッドは少し首を傾げてから、違うようですよ、と言った。
「タシュラルは、確かに官僚の一人だったようですが、そこまで高い地位にはいなかった。だからこそ、カハラム前王の暗殺説も流れたようです」
そんな、とリーフィウはひどく驚いた。国際情勢に疎かった自分だが、父王はそれを気にして、良く無理やり話を聞かせていたものだ。だがそんな話は、聞いたことがなかった。
「確かに、疑わしいことがあることは否めないでしょう。前王が亡くなってすぐ、彼は瞬く間に踊り出て、それまでの側近達を一掃してしまったのですから」
リーフィウは、イーザの話を思い出した。王子に近かったものたちも、全て解雇されたと言っていた。
「ただの一官僚が、そんなことを出来るわけはない。ですが、彼は宮廷内に味方を作り――そして、キーファ王の母君を人質に取った」
「お后さまを?それは謀反では……」
「もちろん、あからさまな方法ではありません。実際、キーファ王もそれが人質なのだと気付いたのは、五年以上経ってからだったと言っていました。まあ、他の側近達はすぐに気付いたのでしょうが、前王が亡くなった当時、タシュラルを支持する人間は宮廷の半数以上を占めていた」
「キーファ王を大人しくさせるには、十分だったわけですね」
「そうです。それに、幼少からの刷り込みもある」
「今は、どうなのです?少なくとも、国王軍は味方と思いましたが」
「ええ。ですが、師団と比べれば圧倒的に数は負けています。それに、キーファ王が成人と言われる十五の年になったときには、タシュラルが宰相になって、十年以上経過している。その間に、宮廷の中はタシュラルの手先だらけになってしまったのです。我々国王軍の司令部も、タシュラル相手に戦うことには、どうしても慎重にならざるを得ない」
歪んだ形であろうと、カハラムを確かに動かしているタシュラルは、宰相として優秀だとも言えなくはない。
「タシュラルは、用意周到で頭のいい男です。あの野心と強欲ささえなければ、確かにいい宰相だったでしょう。ですが、このまま続いていいことではない」
ラシッドがじっとリーフィウを見た。
いつか、キーファが目醒めるのを待っていると言ったラシッドの言葉が浮かんだ。
「王が決めたら、国王軍はついていく。彼の周りには、優秀な人間がいる。きっと、タシュラルに負けない、用意周到さを示してくれる。どれだけかかろうと、準備をするでしょう。確実に、勝てるように」
あとは、王の決断なのだとラシッドは言った。だが、そこに少しばかり違和感を感じて、リーフィウは僅かに目を眇めた。ラシッドの物言いは、どこか引っかかる。
「ラシッド様は――その王についていく人間の中に、入らないのでしょか」
どうも、ラシッドは他人事のように話をしているのだとリーフィウは気付いた。まるで第三者の話のように。
ラシッドは僅かに目を見開いて、それから苦笑した。
「参りましたね。そう、聞こえましたか」
「あ……すみません」
「いえ。リーフィウ殿が謝ることではありません。確かに、私は王に目醒めて欲しいのであって、その後に支えていくことはできない」
はっきりとそう言ったラシッドはどこか遠くを見た。
「だからこそ、待っていたのです。キーファ王には、国王軍がある。でも、それだけでは決してあの王は安らげない。そしてもし私が残っても、彼を支えきることは出来ないでしょう」
そうでしょうか、と言ったリーフィウに、ラシッドは優しく首を振った。
「できません。わかります。私の力不足もありますが、キーファ王も決して私に全てを預けるようなことはしない。それに、私はあくまでも、彼に臨時で仕えているだけなのです。私には、既に王が居る」
リーフィウは、ラシッドの精悍な横顔を見つめた。真っ直ぐな目は、とても真摯なものだった。
「キーファ王も、それはわかっています。だから私を副官なんかにした。周り中は、彼を目醒めさせ、支えてくれる人物を待望している。それなのに、当の本人は、少しもそんなものは求めていない。十数年に渡る経験から、彼は自分は何も出来ない、傀儡の王なのだと諦めている。でも、あなたなら――」
「え?」
「リーフィウ殿ならば、もしかしたら、と思ったのです」
思いも寄らなかったラシッドの言葉に、リーフィウはしばし言われていることがわからなかった。
「何を冗談を」
「冗談などではありません。キーファ王は、あなたのことだけは守ろうとする。多分、本人は無意識なのでしょうが、普段よりずっと執着と――迷いが多い」
「迷いですか?」
「ええ。あなたのことになると、決断が鈍い」
ラシッドはそこで、くすくすと笑った。笑い事ではないような気がリーフィウにはしたのだが、ラシッドはそれは楽しそうだった。
「その割に、あなたを傷つけないように、それだけは頭も素早く回転するし、決断も速い」
言われてみても、リーフィウには実感など少しも湧かなかった。
今でも、よくわからない、とリーフィウは甲板で風を受けながら考えていた。眠れずに、部屋を出てきたのだが、夜の海の黒いうねりに惹かれて甲板でずっと波を眺めている。
リーフィウには、キーファの気持ちが、わかるはずがなかった。同じ王子という立場を経験したのだとしても、それはあまりに違いすぎる。ラシッドの話でいけば、彼は父親を亡くしてすぐに、母親も、世話をしてくれていた親しい者たちも、全て取り上げられたことになる。そして、王座に坐ったのだ。
リーフィウの父親でさえ、孤独だと言ったその座に。
船はゆっくりと進んでいた。完全交代制で舵取りをしているのだ。白い水泡が、月明かりに照らされる。
何度も越した、キーファとの夜を思い出した。
そう言えば、この甲板の上で海蛍を見せてくれたこともあった。とても綺麗な魚で、でも、その固くて美しい羽は、キーファの掌を傷つけた。
あれから一月以上経っている。きっと、海蛍の季節は過ぎてしまったのだろう。今晩の海は月明かりだけを照らし、暗いものだった。
キーファに、会いたいと思った。
ただ傍に、いたいと思った。いて、欲しいと思った。湖宮での、夜のように。
「風邪を召されますよ」
するりと腕を撫でたときに、後ろから声がして、ふわりと毛布を掛けられた。光の季節だが、夜になると海の上は寒い。
リーフィウはお礼を言おうと、振り向いた。だが、ハリーファの顔をみて、口を開くことを戸惑った。
口を開いたら。
言ってしまいそうだった。キーファに、会えないかと。
「リーフィウ様……?」
泣きそうな顔をしたリーフィウに、ハリーファは顔をしかめた。こんなに心細そうで、切なそうな顔は見たことがなかった。
リーフィウは、いつも凛と立っている。ときどき、心配になるほど、真っ直ぐに。
毎日、眠れない夜を過ごしていることを、ハリーファは知っていた。だが、自分ではどうにも出来ないこともわかっていた。シャリスが眠り薬を処方してくれたが、それでも、リーフィウは眠りが浅かった。
「海蛍を……」
リーフィウは毛布をきゅっと掴んで、呟いた。
「ルクに向かうときに、キーファ王が、海蛍を見せて、くれたのです」
リーフィウが、濡れた声で言った。
「手を傷つけながら……」
何か訴えるような目のリーフィウのその気持ちを、ハリーファは理解した。どうしても言葉にできないリーフィウの思いを、知った。
王を不器用だと笑った、ラシッドやシャリスの言葉が思い出された。確かに、不器用な人なのだろうと思う。
でも、それはきちんと、伝わっているのかもしれない。余計な時間が、たくさんかかっているようだけれど。
海蛍をリーフィウに見せたときのことを、ハリーファは知っている。あの時から、リーフィウの警護を言い付かっていたのだ。
ただ「守れ」と言った王の真意を、あのときハリーファは知った。ああ本当に、王ははただ彼を傷つけたくないのだと。綺麗だと顔を綻ばせたリーフィウを見る目の、なんと優しかったことか。
「会いに、いかれますか?」
今にも涙が零れてきそうな目を見ながら、ハリーファはそう言った。リーフィウのその瞳が見開かれ、揺れた。
「お会いしたいのでしょう?」
微笑んで見せると、リーフィウは何度か口を動かしたが、結局は何も言わずに、ただこくりと、頷いた。
キーファ王も、ずっと眠れない日々が続いていると、仲間から聞いていた。
だから、この二人に、少しでも安らかな眠りが訪れてくれることを、ハリーファは願うだけだった。
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