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モドル 6-06 01 * 03
遠景涙恋
第七章 逍遥旅人
02
キーファの船室に向かう途中で、リーフィウは何度も止めようと思った。実際に、ハリーファを止めて見たりもしたのだが、ハリーファはにっこりとわらって、大丈夫ですとわけのわからないことを言うだけだった。
「キーファ王も、お待ちしていますよ」
そんなことを言われても、素直に受け取れるはずがなかった。だが、さほど広くない船内で、船室にはあっという間についてしまった。その前で、いまだ迷うリーフィウを気にもせず、ハリーファはその扉を叩いた。
誰何する声に答えて、ハリーファは扉を開いた。そして、立ち尽くしていたリーフィウをそっと促した。
キーファは、寝台に寝転がって、本を読んでいたようだった。上半身を起こしたその足の上に、開かれた本が見える。自分は暇だからと本を読むことはあったが、キーファが読んでいるのは初めて見たリーフィウは、その本をじっと見つめた。
キーファは突然現れたリーフィウに、驚いていた。誰何した声にはハリーファが答えたので、リーフィウに何かあったかと起き上がろうとしたのだが、その本人が現れたのだ。今まで、リーフィウから自分のもとに来たことなど、一度もなかった。
リーフィウは読みかけの本がリ語で書かれた物だと気付いて、吸い寄せられるように寝台の隣に行った。その視線が本に注がれているのに気付いて、キーファが「宮殿から持ってきた」と言った。
赤い布で装丁されたその本には、ルクの歴史が載っている。何巻も出ているその本は、時代時代が庶民の生活なども含めて丁寧に書かれていて、リーフィウも好んで読んだ本だった。
「ルクはかなり昔から、きちんと文書として歴史を書き残してきたのだな」
キーファがそう言って、伏せていた本を取り上げた。確かに、ルクには豊富な史料があった。
「でも、カハラムも歴史書は充実していると思いますが……」
「ああ。だが、寄せ集めの推測を書いているに過ぎない。確実な、その時代の文書がない。特に五国時代は、後の歴史家が記したものしかないからな。信憑性に大いに問題がある」
カハラムは広大な土地をもっており、昔、それは五つの国に分かれていた。その頃は争いばかりの時代で、文書なども書かれなかったし、書いても侵略の度に燃やされたりしたために、それ以前の史料も失われていることが多い。その点、ルクは文筆家が多く、それを残すことにも情熱を燃やす国民だった。
キーファは本をまた傍らに置くと、酒を飲むかと聞いてきた。
「生憎、ハカ酒しかないが」
リーフィウが頷くと、キーファは起き上がろうとした。それを、リーフィウが制す。まだ、腹部の傷は完治していないはずだった。ゆるやかな生成りの上着の下に、白い包帯が見えた。
リーフィウは戸棚からハカ酒を出すと、分厚いガラスの杯にそれを注いだ。透明なハカ酒は、強く癖がある。
キーファにも杯を渡して一口飲むと、リーフィウは思わず顔をしかめた。思ったより、癖が強い。どうしようかと思ったところで、キーファがふっと笑った。そのあまりに自然な柔らかい表情に、リーフィウはほんのりと顔を赤くして、知らず唇に指を持っていった。
「ハカはそのまま飲むには癖がありすぎる。慣れればそれも美味いものだと思うのだが……そこの橙を取ってくれないか」
指差された先の円卓の上には、果物がたくさん乗っていた。その中から一つ、リーフィウは橙を取って差し出した。キーファは腰につけていた小刀でそれを半分に切ると、リーフィウの杯の中にその果汁を絞った。丸々ひとつ、リーフィウの杯にそれを絞ると、最後の数滴を、キーファは自分の杯の中に落とした。
「あ、もう一つ……」
「いや、俺はこれでいい」
キーファは隣の小さな机にその皮を置くと、指でくるりと杯の中をかき混ぜ、その指をぱくりと咥えて舐めた。リーフィウもそれに習って、細い指で橙色に染まった液体をかき混ぜた。それから、濡れた指を舐める。その様子を、キーファがじっと見ていて、リーフィウは頬を赤くした。こんな行儀の悪いことはしたことがない。だが、なぜだかとても美味しそうに見えたのだ。
「随分なことを教えると、シャリス辺りに怒られるな」
キーファがそう、苦笑する。それから、どこかに坐るようにと辺りを見渡した。そのときになって、随分薄着のリーフィウに気付いた。
「そう言えば指が冷たかったな……寒くないのか」
橙を渡した手は、ひんやりとしていた。傷の所為で多少体温が高くなっているキーファには心地よいものだったが、そのままでは風邪をひくだろう。
「夜風に当たっていたので……」
そう言えば、毛布は王の部屋に入る前に、ハリーファに返してしまった。昼間の温かさから、何も羽織らずに出てきたのは間違いだったと、今になって後悔する。
「眠れないのか?」
ふと言われて、リーフィウは俯いた。答えなかったが、肯定しているのも同じだった。
「とにかく、温まった方がいい。……隣にくるか」
言われて、リーフィウは一瞬躊躇した。でも、と小さく呟く。
「俺はかまわない。だが、風邪をひかせたらシャリスに怒られる」
まるで子供が母親に叱られるのを嫌がるような言い方に、リーフィウは顔を綻ばせて、そっと寝台の反対側にまわった。手にしている杯の中の液体を零さないように気をつけながら、するりとキーファの隣に入る。キーファが布団を持ち上げてくれたので、苦労はなかった。
すっとキーファが立ち上がって、リーフィウは思わずその姿を目で追った。隣に気配がなくなったことが、嫌に心細い。そのときになってようやく、リーフィウは自分が何を望んでいたのか知った。
こくりとハカ酒を飲む。橙の香りの強くなったその酒は、随分飲みやすくなっていた。
キーファはすぐに戻って来た。座布団のたくさんあるところから、毛布を持ってきたのだった。それを、リーフィウの肩にかける。
「あ……ありがとうございます」
「海の上の夜は、思うより寒い。気を付けないと、すぐに体調を崩す」
キーファはそれだけ言うと、自分は布団には入らずにその上にどさりと横になって、本の続きを読み始めた。リーフィウが何をしに来たのか、聞くつもりはないらしい。最も、聞かれてもリーフィウは答えられなかった。
いつもとは反対だった。同じ静かな時間だったが、今夜はキーファが本を読み、リーフィウがその横顔を眺めている。遠い波の音がしていた。
ふいに左腕に重みを感じて、キーファは本から顔を上げて隣をそっと見た。そして、ふっと、誰も見たことがないような優しい顔で笑った。リーフィウが、すやすやと眠りに落ちていた。
手にはまだ、ハカ酒の杯を持っていた。あんなに奇妙なものを飲んだと言うような顔をしていたのに、全て飲んだらしい。確かに、橙との相性が良く、ハカ酒が苦手な輩もその方法ならばいけると飲んでいる。
キーファはそっと、その手から杯を取り上げた。酒の所為か、手は先ほどよりは冷たくなかった。
しばらくその寝顔を眺めて、キーファは自分も寝ることにした。キーファは他人が居ると眠れない性質で、女を抱いたりしても、必ずその女を追い出すか、自分が部屋に戻るかどちらかで、朝まで一緒に寝て過ごしたことはなかった。だから、諸々の理由でリーフィウと眠るしかないとなったときも、寝不足を覚悟した。
身体を繋げたときは、リーフィウを部屋に連れ帰った。朝になってまで、王の寝室に居ることは耐えられないだろうと思ったからだ。
随分と痩せた、と預けられた頭をそっと撫でる。もともと華奢だったと言うのに、今は病的だと思う。
身体を繋げたとき、リーフィウは決して泣かなかった。嫌だとも言わず、声も上げずに耐えていた。その時のリーフィウの昏い目を、キーファは忘れられなかった。
人と肌を重ねることが、あれほど辛かったことはない。だが、タシュラルとその息子がリーフィウを狙っていることは確実で、あのとき抱かなければ、二人がリーフィウに手出しをすることはわかりきっていた。
抱いた振りでは、誤魔化せない。どこから見られているのか、わからなかった。
部屋に連れ帰ったのは、大げさなパフォーマンスでもあった。
それを三日でやめたのは、キーファが耐えられなくなったからだ。そうして、抱くことに。優しくしたいと思っても、そうすることでリーフィウが傷つくことはわかっていて、乱暴に抱くしかなかった。それがでも、キーファには辛くてならなかった。
一度だけ、あの酒に酔ってリーフィウのもとを訪れたとき、キーファは存分にリーフィウを抱いた。でもやはり、あのときに一番リーフィウを傷つけたのだ。乱暴に抱いているときは声さえ洩らさなかったリーフィウが、嫌だと泣き叫んで。
キーファはその時のことを思い出して、そっとリーフィウの眦を撫でた。あのとき、拭いて上げられなかった涙を、今になって拭うように。
リーフィウと一緒に眠るのは、随分久しぶりのことだった。タシュラルたちがいなければ、その意味はない。だから船の中では一緒に寝る必要はなかったのだが、キーファはいつの間にか、リーフィウと眠るときが一番自分も眠れるようになっていた。
不安なのだ。近くに居ないと。
こうして隣に眠っていれば、心配することはない。誰かが忍んでいないかとか、狙っていないかとか、そう言った不安がなくなる。それだけでも随分と違う上に、自分自身がその僅かな温もりを求めているのだとわかった。
触れ合って眠るわけではない。だが、そこに確かな温もりが居る。
キーファはそっと、自分も布団の中に入った。肩が出ていては寒いだろうと、布団をずり上げる。そのまま大きく柔らかい後ろの枕に頭を預けると、リーフィウが身じろぎをして、キーファのほうに身体を向けた。すうっと、安らかな寝息が聞こえる。
キーファはそれにほっとした。ここのところずっと、眠りが浅いとハリーファから聞いていた。シャリスに薬を調合させたが、それもあまり効き目がなかったらしく、シャリスも薬に頼るのは感心しない、と言っていた。
眠ると言うのは基本的なことです。痛みとか、外的要因がないのに眠れないのは、とっても困ったことです。
シャリスはキーファをも責める勢いで、そう言った。眠れていないのはキーファも同じことで、それはシャリスなりの心配の現れだった。
すぐ隣の寝顔は、確かに少し疲れたような顔をしている。眠ると幼さが際立つが、それよりも痛々しいほどやつれている気がした。
どうしたら、とキーファはその顔を見ながら思った。
どうしたら、安らかに眠らせてあげられるだろう。それを妨げずに、いられるだろう。
自分に力がないために、結局はリーフィウを傷つける形でしか守れなかった。傀儡の王でしかない自分は、このままリーフィウを連れ帰っても、決して傷つけずに守ることはできないのだ。
どうしたら、とキーファは再び自問した。
どうしたら――この清らかで尊い魂を、削らずに済むのかと。
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