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モドル 7-04 * 8-02
遠景涙恋
第八章 幻光
01
湖宮のあるキャスカから首都カラムまでは、馬を飛ばして約一週間の道のりだ。そろそろ首都に戻らないと、コクスタッドの使者との謁見に間に合わなくなる。
「そろそろお戻りくださるよう、お願い申し上げます」
言葉は丁寧だが選択肢は与えない、いつものタシュラルからの使者に、キーファはわかったと一言言っただけだった。ルクのことで、今回は二度も戦に出ている国王軍に休暇をやれないのはキーファにも心苦しい。それに、もちろん自分も湖宮でゆっくりしたかったのだ。
だが、コクスタッドの使者は無視できるものではない。ほとんど国交はないにしても、隣国であり、武力もある。西側の国境を平和にしておくためにも、彼らと友好関係を築いておくことは、カハラムにとって大切なことだった。
カハラムにとって――。そう考えて、キーファは苦笑する。わからない。それがカハラムのためなのか、タシュラル達大臣のためなのか、キーファにはその違いがわからない。
国王軍の中には、首都に家族を持つものも多く、彼らは戦闘の疲れを見せずに凱旋の用意をした。国王軍の凱旋行進に嫉妬を抱く師団がいない今、確かにいい機会なのかもしれなかった。
「カラムにですか?」
なにやら宮殿が騒がしくなってきた、とリーフィウが思っていたら、ラシッドが来て、首都へ行くことを告げた。
「ええ。そろそろ一度帰らないと。王もここ数ヶ月首都を留守にしていますから」
だが、あまり乗り気ではないのだと、そのラシッドの態度からわかった。確かに、首都にはタシュラルがいる。
自分たちはどうなるのだろう、とリーフィウがラシッドを見ると、ラシッドは「リーフィウ殿にもシャリーア殿にも来ていただきます」と言った。
「ただ、危険なことには代わりがないのです。今は第一師団が帰ってきていませんが……タシュラル宰相も、その取り巻きたちもいる。あなたたちは、格好の獲物となるでしょう。ですが、国王軍も一度首都に戻らなくてはなりません」
そうなると、誰もリーフィウ達を守れるものがいなくなってしまう。
「カラムにはどれ位滞在するのでしょう?」
「しばらくいることになると思いますが。カラムは首都ですから。本当ならば、あちらが国王軍の本拠地なのです」
兵の中でも勇んで凱旋帰国の準備をしているのは、首都に家族がいるものなのだ、とラシッドは言った。
「そう言えば、ザッハも首都の出身ではなかったでしょうか」
「ええ、そうです」
「あの、彼にはまだ会えないでしょうか?」
船旅の期間も入れて、もう一ヶ月以上が経ったが、リーフィウはザッハと会っていなかった。期間が長くなればなるほど、心配も募った。
「……ザッハも、首都に行くのですよね?」
何も言わないラシッドに、リーフィウの中に不安が広がった。
ええ、と頷いたラシッドはリーフィウと視線を合わせず、何か考えているようだった。そして、ふっとため息を吐いて「あちらに着いたら、会えるようにしましょう」と言った。
湖宮を発つ夜、キーファはかなり酔ってリーフィウの部屋に来た。その饗宴の音はいくつも部屋を挟んでいるリーフィウの部屋にまで聞こえてきており、イーザは時おり呆れたようにその音のする方角を見ていた。
キーファが酔うのは珍しくない。だが、ふらふらと一人で歩けないほどになるのは、滅多になかった。それでも翌日まで酒を持ち越さないことは、リーフィウには不思議でならなかった。
ばたばたと音がして、イーザとリーフィウが顔を見合わせたとき、扉がばたんっと開いた。慌ててそちらをに視線を向けると、キーファが女たちに支えられて、扉の前にいた。そこで女達を振り払い、帰るように手振りで示すが、身体は今にも崩れそうだった。
イーザとリーフィウで、どうするべきかともう一度顔を見合わせているうちに、キーファはふらふらと中に入ってきた。イーザが水を汲んだ杯を円卓に置いたが、キーファは酒を持ってくるように言いつけた。
「キーファ王……」
リーフィウが思わず呟くと、キーファはふいっとリーフィウを見た。感情の浮かばないその目に、どこか落ち着かなくなる。
イーザがパナ酒を持ってきて、それを渡すべきかどうか迷っている。だが、キーファはその手から瓶ごとそれを奪って、そのままごくりと飲んだ。
「イーザ、部屋に」
「でも、リーフィウ様……」
「大丈夫だから」
頷くリーフィウに、イーザはしばらく逡巡していたが、キーファも乱暴を働きそうにはなかったために、部屋に戻った。
「キーファ王……どうしたのです」
こうして酔うキーファは、何かを忘れたくてたまらないのに忘れられない、そんな気がしてならない。酔って、享楽の限りを尽くしても、日は明ける。そして、現実は変わらずに彼の目の前にある。
だから、誰もこの享楽を止められないのだ。
キーファはふらふらと寝台に向かい掛けて、ふいっとリーフィウを見た。深い青の上着は胸元が肌蹴ており、傷が見えていた。キーファの白い肌に、アルコールの所為なのか、その傷はほんのりと赤く浮かんでいた。先の戦いのものなのか、新しい印象があった。
「飲むか?」
キーファがパナ酒の壜を掲げた。リーフィウは首を振ろうとして――少し付き合おうと思い直した。
イーザが置いていった杯を円卓から持ち上げたリーフィウの手を取って、キーファはぐいっと壜を煽った。キーファがリーフィウに持ってくるパナ酒は、いつも乳白色の美しい陶器の壜に入っている。
「キー……」
突然腕を捕まれ驚いたリーフィウは抗議の声を上げようとして、目を見開いた。生ぬるいパナ酒が、口に注がれる。飲みきれない酒が、口の端からつっと流れた。
「ふ……」
舌がリーフィウの咥内を掻き回し、ころりと杯が手から床に落ちた。
「ん……ぁ……」
キーファの手が、髪を優しく梳いている。もう片手は壜を持ったまま背に回され、ぎゅっと抱き締められていた。
柔らかく、優しく、キーファの舌が動く。二人の間に、パナ酒の甘い香りがふわりと漂った。
注ぎ込まれたパナ酒が、全身を駆け巡って、火をつけているようだった。リーフィウは動けぬまま、目を閉じた。
――崩れ落ちる。
リーフィウがそう思ったとき、キーファがふらりと離れた。一瞬目が合ったが、キーファはふいっとそれを逸らして、ふらふらと今度こそ寝台に向かった。そして、そのままどさりとその上に倒れた。
リーフィウは呆然と立ち尽くしていた。何が起こったのかわからず、ただ全身が熱くなっていた。耳の先は真っ赤に染まっていたが、本人に見えるはずもなく、ただ無意識に、指で唇をそっと触った。
こくりと喉を動かすと、甘いパナ酒の味がした。
リーフィウはしばらくそのままそこに立って、何も言えずにいた。ただ唇を触って――何も、考えることもできずにいた。
キャスカからカラムまでの道は、綺麗に整備されている。途中で川を渡り、小高い丘陵が続くのだが、川には大きな橋が掛けられており、馬たちはそれほど苦もなく道を進む。
リーフィウは相変わらず馬車で移動をしていた。馬に乗るのは好きなのだが、捕虜としての立場を考えれば、妥当な待遇だった。
今回も馬車に乗り合わせ、日が暮れて宿を取る段になっても一緒にいるラシッドに、リーフィウは思わず首を傾げてしまった。この旅にはイーザも付いていたが、別の部屋を隣に取ることが困難なため、シャリーア付きの侍女たちと同じ宿屋にいる。
「何か?」
「いえ……ラシッド様は、てっきりシャリーアの方に付くのかと……」
微笑みながら言われた言葉に慌てたのはラシッドだった。
「え、あの、どう言う意味でしょう?」
「え?」
すっかりラシッドの気持ちの傾きを確信していたリーフィウは、そう言えばその話を二人でしたことはなかった、とここにきてようやく思い出した。
どう言ったものか、とラシッドの顔を困ったように見ると、ラシッドが珍しく顔を赤くしていた。
「あの、リーフィウ殿……」
「えーと。あの、何か飲みましょうか?」
こう言うときに、ついつい酒を手にしてしまうのは、キーファの影響だ。だが、ラシッドも頷いたので、二人はその土地の銘酒だというお酒を杯に注いだ。
「ああ、キーファに怒られるか」
ふいにラシッドが言って、リーフィウの手が止まった。
「いえ、リーフィウ殿にと渡されたものですから、リーフィウ殿が飲む分には構わないのです。ただ、私が王よりも先に飲んだと知れたら」
ふっと思わずと言った風に笑ったラシッドに、リーフィウはやはり首を傾げただけだった。
「おや、知りませんか?シャリスから処方箋が出ているんですよ」
「処方箋?」
「ええ。お二人は一緒に眠ること、というね。ですから、今夜も王はこちらに来ると思うのですが」
え、と見る間に顔を染めたのは、今度はリーフィウだった。そのまま酒が杯を溢れ出そうになって、ラシッドが慌ててそっと壜を押さえた。
そう言えば、シャリスが冗談でそんなことを言っていたが……まさか、本当にそんなものを出すとは、リーフィウは思っていなかった。
「あれでシャリスは王には口うるさいですからね。王もなかなか逆らえないのです」
くすくすと、ラシッドが笑っている。確かに、シャリスはどこか拒否することを許さない、親にも似たような威厳があった。
「まあでも、せっかくなので、頂きます」
ラシッドがそう杯を上げる。リーフィウもそれに習って、杯を上げると、一口こくりと飲んでみた。
「これは……林檎ですか?」
「ええ、そうです。この辺りは林檎の栽培で有名なところですから」
果汁の香りがたっぷりのその酒は、リーフィウの気に入ったようだった。ラシッドは、さすがはキーファ王だ、と苦笑を禁じえなかった。
酒を飲んだところで、沈黙が流れた。ラシッドはこのままうやむやでも良いかと思っていたのだが、リーフィウは忘れるつもりはないらしい。
ラシッドは仕方なく、口を開いた。
「……気付いていらっしゃった、のですね」
自覚が全くなかった、というわけではない。シャリーアのことになると、ついつい甘くなり、顔が綻ぶのは、多少は自覚していたラシッドだった。だが、リーフィウは兄である。今やたった一人残った肉親であり、ラシッドもさすがに慎重にならざるを得なかった。何しろ、シャリーアはまだ十三の年である。
ええまあ、とリーフィウもどこかぎこちなく頷いた。だが、すぐにどこか不安そうなラシッドの顔を見て、ふっと笑った。
「ラシッド様……そんなお顔をなさらなくとも」
「え?情けない顔してます?」
それには失礼だからと頷かなかったが、リーフィウはずっとどこかで頼りにして来た、大人として憧れるような青年の可愛らしい一面を見た気がして、笑みを隠せなかった。
「ラシッド様……私は、シャリーアが幸せならそれでいいのです」
まるで慈悲深い神のように微笑んだリーフィウに、ラシッドは知らず力んでいた肩の力を、ほっと少しばかり抜いた。
「それは、ご本人に聞いて頂かないとわかりませんが……」
残念ながら、今のところその機会を与えることは出来ない。二人を同じ場所に置くのは危険であり、捕虜としての立場を他の人間に示せなくなってしまう。
「シャリーアには、もう……?」
リーフィウが小首を傾げる。そう言った仕草が優雅に見えるのは、シャリーアも一緒だ。
ラシッドはからかうような目をしながら、そうやって小首を傾げてみせる少女を思い出して、リーフィウには答えずに、ため息を吐いた。
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